戸塚ヨットスクール事件とはなんだったのか?

ネットのニュースに「戸塚ヨットスクール事件」の戸塚氏インタビューがあった。

戸塚ヨットスクール事件で問題になったのは、体罰そのものではなく、体罰によって、子供の死亡事故などが多く起きたからだ。体罰の否定はその延長上にある議論である。

我が子が社会に出る前に、戸塚ヨットスクールで命を落とした我が子の変わり果てた姿を見る親の心は、察するに余りある。しかもその子を「子供がこの世でより良く生きていくため」と称して、自らそこに送り込んだのは、他ならぬ親の自分自身である。後悔してもしきれることはなかろう。その親のそれからの一生を思うとき、胸ふたがれる思いがするのは、私だけではないだろう。

子供と言っても人間なので、生まれつきや、生活環境などで必ず耐性の強弱などの個性が出る。その個性によって、本来は教育の方法論なども個々に変えるべきであって、子供全員に一律の教育でなんとかなる、という「十把ひとからげ」の「無個性」を、一律に強制するから、死亡事故などが多発したと見ることができる。これは、「スパルタ教育の是非」とはまた、別のことである。

「教育とはこうあるべき」という戸塚氏の話は、私とは理念が違うけれども、日本という、いち地域のある時代における教育の方法論として、現実に多くあったこと、かなり多くの人たちに支持されたことがあったことは、認めざるを得ない。

当時の日本という地域では「高度経済成長」を支える「ロボットのような一律の心理的・身体的個性を持つ数多くの人間」を必要としていた。それ故「スパルタ教育」による「人間の教化・一律化」は「教育」という名前のもとに推進されており、その時代の空気をしっかり読んだ非公式教育ビジネスとして成立した。

これは、義務教育課程を行う学校教育などの公式教育も、当時同じ方向を目指していた。しかし当時は高度経済成長期そのものが終わりかけており、それと同時に「一律の人間を作る」という教育のあり方を批判する動きも大きくなって来ていた。このような時代背景の中で、それまでの高度経済成長期に必要であった人間のメンタリティや身体的機能そのものが、変わりつつあった。

現在はIT技術の発達により、それまでの工場労働の多くは、リアルなロボットのほうがコストが安くなることがわかってきた。現在必要とされる労働者像は「ロボットを制御する」側のものとなってきており、戸塚ヨットスクール事件が話題になった当時とは、明らかに周辺の時代状況が違う。

当時は戸塚ヨットスクールの教育メソッドによって、子供の死亡事故があっても、それは全体から見れば、大したことではない、という世間の空気もないではなかった。社会的に弱い立場にいる「子供」の死亡事故は「大したことではない」と切り捨てる人がそれなりに多くいた。「日本の政府(国体)を守るためには、少数の若者の命はなくなってもやむを得ない」とする「特攻隊」のそれと、メンタリティ的に似ている、と言って言い過ぎではないだろう。

私はその時代に若いときを過ごし、教育にも興味を持った。やがて訪れるであろうAIとロボットによる工場労働の時代の基礎を作る仕事を、私は選んだ。いま、それは実を結びつつある。

Ghiang Mai(チェンマイ)の可能性を探る

数日ではあったが、私用などでタイ・チェンマイを訪れた。

タイ・チェンマイの街はアジアでは成長地域に入る可能性がある。古い形の巨大工業団地は廃れているが、タイ人は全体的に「よく働くひとではない」ので、工場労働者としてはやはり問題が出てくる。だから、工業がだめになったのだ、という言い方はできるだろうが、今後のことを考えると、そうとも言えない。

昨今のICT化された「スマート工場」では「工場労働」はロボットが行う。つまり、人員の勤怠と業績は関係なくなる将来が、ごく近くにやってくる。そうなると、「勤勉な労働力」はロボットやAIになるから、いらなくなる。であれば、重要な「人材」は管理系のホワイトカラーと、AIやロボットのシステムを作る仕事である。

私は日本で、2000年より前に「この広大な工場では右から原料を入れれば、左から製品が出てきます。働いている人は3人で、ここで全世界の需要の何割かが作れます」という工場を見たことがある。それは既に視野に入っている。「できる」のだ。

しかし、そういう「工場」がなぜ、当時、世界に広まらなかったか?それは、そういう「スマート工場」を作るコストが高すぎたので、一部の資金が潤沢な企業しか、それを作ることができなかったからだ。いま、ICTのコストは安くなり、「ロボットのような人間」を使うよりも「ロボットそのもの」のほうがコストがかからない時代になりつつある。

古い時代の工場動労はだんだんなくなっていく。これからは状況が変わり、「スマート工場」の開発も稼働も、低コストで実現でき、結果としてそれは人件費より安くなってきた。

つまり、工場労働者で賑わう工業都市ではなく、知的な労働者で賑わう、新たな形の工業都市として、そのモデルケースになる可能性がこの街にはある。そして、それができるのは、今しかチャンスはない。

ICTの低コスト化によって、工場労働者がロボットやAIに置き換わる「スマート工場化」では、工場の開発と維持のコストは、土地代や輸送費、原材料などが主になる。生産に占める工場労働者の人員コストは割合として非常に少なくなる。

タイのバンコクは首都であり、地域のコントロールセンターの役目を果たす。チェンマイは「スマート工業都市」になると、土地代の安さと、他地域からのアクセスの容易さ、知的な仕事をこなす人員のいやすさ、基本的に資本主義なので、お金の流通の容易さ、国という地域の政府が、「王国」であることによって、混乱を抑えきれる権力がある、という様々な条件が、他地域にはないメリットを持っていると言えるのではないか?

この時代の製造業の最大の「キー」は「スマート工場」である。IoTやAIの低コスト化で、それが現実になりつつある。そして、それが、それ以前の工場とは違う、知的作業人員を必要とし、それらの人々が業務に支障のない環境を欲する。そういう時代の変化が来ている。

IT屋の向き・不向き

ぼくはコンピュータ屋なので、コンピュータってのは、「こいつどうしても自分の思い通りに動かないなぁ。ソフトウエアもみんな自分で作ったものだから完璧なんだけどなぁ」っていう場面に本当にたくさん出会う。でもね、まず100%、それは自分が間違っているせいなんだよ、ってところにまず立つ。自分が正しいので、自分が一番で、なんて思わない。

ソフトウエア作りが慣れて来ると「自分が作った動かないもの」を目の前にして、まず、自分自身の作ったものの、どこかがおかしい、という事実を認める。そのためには「絶対の自信のある自分自身」をまず否定する。自分の作ったものも、他人の作ったもののように思って、思い込みを一切排除し、自分のプライドも自信も、全部、自分自信で否定する。はっきり言って、今の自分自身がダメなんだからさっさと捨てる。

つまり、惜しげもなく「自己否定」するんです。プライドもごく短時間で一切捨てます。「おれは世界一の愚か者でバカでどうしようもないやつだ」に一瞬で変わる。その地点に立って、バグ取りとか問題解決を始める。この自己の「変わり身の速さ」「惜しげもなく自分を捨てる速さ」は自分でもおかしいほど身についている。プロのプログラマはこれを数秒でできる。長くても5分以内でやる。だって、それが収入に直結してるんだから、当たり前だ。

だから、そういうことができる自分に、いよいよ自信がつくんです。つまり、「自分の自信の構造」が二重化する。一番下のレイヤー(層)を完全に破壊して、その上で、より高次元のレイヤー(層)の絶対的自信が動き出す。いわゆる「普通の人」は、こういう「プライドのレイヤー(層)」が単純で、通常は一層しかない。しかし、プログラマーとして重要なのは、「自信の多層構造」なんです。これがない人は、そういうぼくを見てもまるでわからない、ってことになるんだね。

まぁ、日本の文系の大学なんかの出身者のほとんどは、この「変わり身の速さ」がまるで理解できない、って人が多い。精神分裂か、多重人格に見えるだろう。

つまり、これが、プログラマなどの精神構造なんです。そうしなければ、生きて行けない仕事なんです。手前味噌で言わせてもらえば、「優れたプログラマの精神構造」って、そういうものなんですよ。

だから、「自分のプライドや自信」はいつでも廃棄できちゃう。長くても5分あればいい。そのうえで、自分を保つ。これが重要なんです。

だから「なんで自己否定がみんなできないんだろうな?」なんて思っちゃうわけ。そんなの日常なんだもん。毎日、数十回もそれをやることだってある。そういうトレーニングができている人が、優れたプログラマになる。

つまり重要なのは、自分という存在をより高次から眺める、もうひとりの自分がいるかどうか?ってことなんだな。それがいる人はなにがあっても状況にすぐに適応できて、自分を変えて生きて行ける。すぐに元気になる。自分を笑い、自分の状況を笑う。それが一瞬でできるかどうかなんだね。そういう人はプライドを捨ててもなんとも思わない。どうでもいいんだ、そんなこと。

つまりさ、IT業界で働ける優れた人材を作る、ってのは、要するにそういうことが軽々とできる人材をいかに効率よく作るか、ってことなんですよね。向き不向きもあるしね。ここを間違えると、仕事を始めたら精神疾患ですぐダメになっちゃうような、そういう人材を作る、ってことになって、まことによろしくないわけですよ。



Amazonが破壊するもの

Amazonの快進撃は止まらないが、Amazonの株を持っていても「無配」だ。そして、あちこちで報道されているように、Amazonは、利益をすべて注ぎ込み、次の年の事業拡大に当てるため、税金も収めない。この方法での事業拡大は許されるのか?

現行法では、これらの事業拡大のやり方は、全て許されているものであり、また、理にかなっている。だから、誰も文句のつけようがない。米国政府の現政権も、「全く税金を払わないAmazon」だけを強調するが、株主への還元というものもしないのだ。それがAmazonという会社がしていることだ。

Amazonの株主は、大きなお金がほしいときは、Amazon株を売ればよい。配当はあてにできないが、それはそれで良い、ということになる。

当然ながら、Amazonの経営者の資産も爆発的に増えるわけではない。彼らはなにを目的にこういう事業をしているのか?と思う向きも多いだろう。実はAmazonがやっていることは「資本主義のルールと道具を使いながら、資本主義を破壊する」という行為である。

Amazonはインターネットができた頃から、その本質をよく咀嚼しており、資本主義社会に放たれた「インターネット」という野獣をよく飼いならし、それ以前の資本主義を破壊しているのだ、と考えるといろいろ合点がいくことも多いだろう。

Amazonは資本主義社会の普通の会社ではない。彼らは、資本主義秩序の破壊者であり、革命家なのかもしれない。そして、彼らはこの「資本主義の世紀末」に、現れるべくして、現れたのだ。

台湾でジャズ

台湾、特にその中心都市である台北には、ジャズを生で聞かせるクラブがいくつかある。その「台湾ジャズ」の中心にいるのが、Mike Tsengこと「曾增譯」氏だ。彼は台湾の大学でジャズ・ピアノの教授であり、地元では「老師」とさえ呼ばれている、台湾一のジャズ・ピアニストだが、弱冠41歳の「若手」でもある。

大学で彼の講義を受けた、ジャズピアノプレイヤーを目指す生徒は、彼の年齢よりも高い人達を含め、数知れない。東日本大震災当時、日本での台湾の政府の外交部(外務省)にいて、日本に赴任されていた「高官」の方も、Mikeさんの「教え子」である、というのには驚いた。彼は外交官試験に受かって外交部に入る前は、高校教師をしつつジャズピアノをしていたのだ。「定年後はピアノに戻りたい」と言っていて、実際にそうしている。私は当時、日本で「台湾新聞」をやっていたので、取材先として最初は知り合い、今でもLINEの友人である。彼は日本にいるとき、「ピアノが弾ける会場はないか?」と言われていたので、私の古い付き合いである恵比寿アートカフェ・フレンズをご紹介したことがある。

Mikeさんと、5月9日の夜に、台北のライブハウスでお会いし、彼のピアノを聞いた。ピアノトリオだが、彼のピアノは日本で言えば佐藤允彦(さとうまさひこ)さんのピアノを彷彿とさせる。知的でしっかりした音楽理論を背景に持っていながら、硬軟のあらゆる音を繰る。難しいフレーズも、だから安心感のある音になる。そんなピアノだった。まさに、若さゆえの鋭さと、熟練した職人の技術が一つになった、素晴らしい音を聞かせてもらった。

台北/台湾の「ジャズ市場」は小さい。だから、台北でも主だったジャズのライブハウスは少ない。5件くらいだろうか?しかし、そこで聞くジャズは、世界に比しても、非常に高いところにいる、まっすぐと上に伸びている、気持ちの良い「ジャズ」であった。

Mikeと引き合わせてくれた、Luuさん、台北駐在の島さんにも、感謝している。



オリジナリティは「ない」

「学ぶ」は「真似ぶ」が語源と言われているからね。今流に言えば「コピペ」ですよ。みんなが一から何かを作り出さなければならないとしたら、その人の一生で全てが終わってしまうわけで、それは「世代を超えた継承」はない、ってことになるよね。人間ってのは、前の世代が作ったものを、コピペして、次の世代の学習時間を激減させることにより、次の世代にいまの文化とか技術を伝えた上で、発展させていくものだからね。それが人間の歴史だからね。

そういう意味では、現在の著作権法や特許法は、人間社会での「継承」が配慮されていないんですね。だから「模倣は悪」という価値観が作られている。それは主に一代限りの発明や創造による作品や技術・技法と、そこから派生するお金の保護に重点が置かれているから、そういう解釈になっちゃうわけですね。まぁ、それも大切じゃない、ってことではないんだけれども。

著作権法や特許法をあらためて読むと、その最初の「第一条」には「この法律の目的は、文化(特許法なら産業の発展)に寄与するため」って書いてある。つまり作った人の権利を保護するのは、そういう目的のための「手段」である(権利の保護は目的ではない)、って書いてあるんだよ。

この「人間として当たり前のこと」を忘れて、権利ばかりを気にすると、明らかに文化も産業も衰退していくんだよ。世代を追うごとに、それが見えてくるはずだが、それが見えた時は、もう終わりに近いな。



引きこもり=仕事がない

40歳から64歳の人の引きこもりがなんと61万人もいる、という。しかし、これは、時代が変わった、という認識が無いための「間違い」であろう。

今回の「引きこもりであるかないかの基準」は「長期間、自分の趣味などの外出以外は外に出ない・人に会わない」ことである、という。

だいたい、 人が意識的に行う行動は、

  1. しなければならないこと
  2. したいと思ったこと

の二つが動機のものしかない。

であれば、ここで言う「広義の引きこもり」は、「(生きていくために)しなければならないこと」が無く「したいことしかやることが無い」ことを意味すると言うことだから、「仕事がない」という事であるのは明白。つまりこの61万人は、統計的な意味で「中高年の失業者」ということだ。そして、この「分け方」「価値観」は「やらなければならないことは、いやいや、やること。それが仕事」という大前提がある。

しかしながら、私とかのように「楽しいことを仕事にする」「どんなことも楽しんでしまう」人間にとっては、自分のどういう行動がお金を産む「仕事」になるか、明確に分かることは、多くない。やりたいことをやっていたら、気がついたら少々は稼げていた、というのが、本当のところだ。

つまりこの「広義の引きこもり」というネガティヴな価値評価を産む定義の前提となる、社会観そのもの(中高年は基本的に仕事があり、稼ぎも良い。でも仕事は義務であって面白いものではない)が、私の場合は当てはまらない。そして、私の周辺にも、多くの同じような人がいる。もしも私と同じような考えの人間が多ければ、この統計基準の前提となる「価値観」「職業観」そのものが、既に古色蒼然とした、今となっては「縄文時代」とも言われる(ぼくが勝手にそう言っている)、「高度経済成長期」のものである、ってことではないかと思うんだな。

実際のところ、この統計のベースとなる価値観は既に多くの場で失われているのが、今の日本の普通の社会だろう。つまり、この統計の基準となる「社会の把握」において、政府は世の中の流れについていけていない、と言われても、反論はできない。あの時代は二度と日本には戻ってこない。

日本人は「働かない」のではなく「仕事がないから働く場がない」のだ。当然、日本という地域でのGDPは下がるに決まっている。しかも、景気の良かった時代は「営業をせずとも仕事が降ってきた」時代である。「面白いこと」を探す暇もなく、多くのビジネスマンは生きてきた。むしろ、自分の好きな事に熱中するのは、仕事の邪魔になるから、良くないことだ、と子供の頃から叩き込まれて育った人も多い。

「そういう日本人」が、この時代になって「仕事がない」「仕事は自分で作るものだ」というところに放り込まれたのだ。当然「(やらなければならない)仕事」なんてものが無い時代なのだから「好きなことを仕事にしろ」と言われても、できるわけもない。そういう訓練をされてきていないからだ。

日本に限らないが、仕事をする人が増えないと、税収も増えず、ときの地域政府は苦境に陥る。しかし、人々が働かないことを、その地域の人に責任を転嫁はできない。もともと、かつては多くの仕事があったのに、今は仕事が無い、という地域なのだ。仕事が溢れていた時期の基準や考え方で、全てを判断するのは、頭の柔軟性を失った、と言われても仕方ないだろう。

30年前のコンピュータ業界って?

もう30年以上も前の話ではあるけれども、ぼくらがいたのは、ITという言葉も無かった黎明期だった。世界中がこの「コンピュータ」という新しい分野で沸きかえっていて、でも、新しいので、古い人の持っている歴史や知見が全く役に立たなくて。だから、コンピュータをはじめた自分たちの前には「先人」「先例」「業界のボス」なんてのはいなかった。

知的な仕事ではあったが、創造性も必要で、なにがなんだかわからないものと、対峙してなんとかものにする、という、現場で生き抜く体力も必要だった。みんながピカソか何かのような、泥にまみれて仕事をするタイプのイキが良くて創造性のある「芸術家」のようなものだった。

だからといって、体力だけでなんとかなるものでもなく、知的な仕事でもあったから、学歴のない人間には、コンプレックスだって普通にあった。でも、学歴が評価の基準にはならない世界だった。なにもかも、自分たちがやっていることが業界では初めてで、その後に続く人たちの扱う標準になっていった。

結果として、先生と生徒の人間関係とか、学校での成績とかがモノを言う世界ではなく、実力だけが評価された社会だったので、若くて頭が柔軟で体力のある人間には、楽しくてしょうがない世界だったんだな。しかも人の役に立つモノを作っていた。こんなところで若い人間が仕事ができる社会は、いま考えてみれば、当時だって、本当に珍しい。

しかも当時の日本は経済的に豊かで、社会には使えるお金があふれていた。新しいものに投資する意欲も、どこにでもあった。時代的な時間軸においても、場所的な意味においても、あの当時の日本という地域は、ITというハイテク世界に関わる若者にとって、ベストポジションの1つではなかったかと思う。

自分として振り返って今思うのは、そういうところに若い時代を生きた機会を持ったのは、本当に幸せなことであり、ラッキーなことだったんだな、と、今さらながらに思う。

ただし、それから20年も経たずに、日本という地域は没落への道に迷い込んだ。ITの世界も時が経ち、古い権威が幅をきかせるようになり、有象無象の儲けたいだけの守銭奴があちこちでこの業界に入ってきて、今に至っている。ITといえばビジネス、という感じの社会になってしまった。結局、今でもぼくはその真ん中や端っこにいて、今はこの業界と墓場までつきあって、その最期を見届ける、そういう役目を天から仰せつかったような気がしている。

30年前は懐かしいが、戻ってくるわけではなく、これからどうするかを、全く先人が考えもしなかったことで、やっていかなければならない世の中になった。自分で考え、自分で道を切り開くことが、嫌でも必要になった。

「ぼくの前に道はない。ぼくの後に道はできる」っていうのがあったけど、気がついて見れば、そして、計らずも、それをこれまで地でやってきた感じがある。


資本主義の静かな裏切りもの

マクロ経済から解き明かしても日本人は何故自分を変えようとしないのか?日本という地域は明治時代以来の西欧化・経済成長化で、経済発展をしてきて、そのゴールたる1960年代から1970年代までは、仕上げとも言える「高度経済成長期」を持ち、石油ショックを皮切りに始まった経済下降の時代にもその時にした「貯金」で食いつないでいる。これは、日本人なりの場当たりな身の施し方であり、それはそれで合理性はある。貧乏になっても食えればいい、それもできなければ、死んでもいい。という考え方である。

日本という地域では、経済成長や生活水準の維持という「積極的な動機」そのものが西欧諸外国に比べて、欠如している。だから「日本は特殊」というのは、当たっている。そして、それは資本主義諸外国の価値観とはやはり一致しにくい。

「成長できるのになぜしないんだ」とこの方は言っている。同じように「厚切りジェイソン」にも同じものを感じる。彼は「日本人の働き方は効率が悪くても平気でいるというのが信じられない」と言っている。日本という地域に住む人は、一方で明治以来の資本主義を目指し、一方で資本主義とは相容れない「滅びの道」の信奉者でもある。前者は明文化され数字で答えを求めるが、後者は前者の社会から見れば「異教徒」となる。

以前流行った、米国から来た、BeYouなどの「自己啓発セミナー」で面白いエピソードがあった。日本のセミナーでは必ず「積極的落伍者」が当たり前に出る、というのだ。数人しか乗れない救命ボートに自分は乗る権利を得たが、どうするのか?という集団思考実験なのだが、自分の命に積極的ではなく、自らその生存の権利を手放し他人に譲り、自分は船に残って死を選ぶ、という人たちが、必ず一定数、日本のセミナーでは出る。究極の場面において「生への積極性」を放棄することによって、自らを犠牲とし、美化もせず、積極的に生きる意志を放棄することによって生きるということで起きる苦難を終わらせ、自らの心の安定を得る、という考え方である。

おそらく、そういう考え方はアジアの他の地域でもある。つまり、考えられないほど貧しく、生きているということ自身が苦痛である、という、そういう生を受けた人が多い、というのがその原因であろう。

この考え方は、西欧的な「生きることは人間の全てである」という考え方とは相容れず、従って人間というものに対する根本的な認識が全く違う。自己啓発セミナーでは、セミナー中にそういう人が認められた時点で、そういう人にはセミナーの会場から出て行ってもらうようにしている。

「あなたの判断はおそらく正しいが、このセミナーでみんなに共感してもらおうとしている認識と、あなたが持って生まれた認識とは、全く違うので、ここでのセミナー参加はあなたのためにならないので、やめましょう」と、中途退場をさせるのだ。これが、西欧から来た「人格改造セミナー(自己啓発セミナー)」の限界であり、おそらく西欧的な生死観と日本的な生死観の根本的違いが顕在化する場面の1つである。

当然ながら、そう言う人の一かたまりがセミナーの進行に良くない影響を与える事も多い。セミナー主催者にとっても、セミナーの最初から最後までセミナー主催者が参加者に対して植え付けようとしているものに対する、地域土着の異分子や積極的アンチテーゼは邪魔でしかない。

もしも、セミナー主催者のそれよりも、日本の土着な思想勢力が強力な力を持つ場面があったら、セミナーそのものが成り立たないことも考えられる。ましてや、その異分子の行動が自然な形で多くの人の共感を誘うようなことになれば、商売としてのこういったセミナーは全く成立しない。セミナービジネスが一瞬にして崩壊することだって、ないわけじゃない。

日本においても「企業」は西欧から入ってきた仕組みであり、その目的は大きく「企業と言う組織の存続繁栄であり、構成員の存続繁栄」である。従って、「生きること」「生を謳歌すること」が、企業存続の根本にどうしてもある。しかしそれに馴染まない社員も日本では多く、それらを「矯正」して、企業の目的に合った人間にするのが、これらのセミナーの目的だが、日本ではそのセミナーでさえ、多くの「落ちこぼれ」が出る、と言うのが、このエピソードの示すところだろう。

いやまぁ、ぼくはと言えば、そう言うセミナーに呼ばれた時は、その辺りはみんなわかっていた上で、さっさと最初の時間だけ見学して、お金も全額払った上、適当に楽しんで出てきただけなんだけどね。ごめんね。セミナーに呼んでくれた人。でも、楽しかったですよ。

日本という地域は、明治から第二次大戦後に至る時代で、西欧的価値観を受け入れて爆発的な経済成長を遂げ、多くの蓄えを得た。西欧的な思想や哲学に乗っかり「バナナ(外は黄色い-[黄色人種]が、内側は白い-[白人])」と言われるまでに自らを変え、東洋の端っこの辺鄙なところにありながら、西欧の一部と言われるまでになった。その後、世界経済が停滞を始める時期に向かっての下り坂には、用済みとなった西欧的価値観をあっさりと切り離し、一人下り坂を黙って緩やかに下っている。おそらく、これは、無意識に行われている、日本という地域に住む人たちの、当たり前のやり方であり、自らが生きていくための、西欧的な価値観への静かな裏切りである。

前のリンク中の「日本の経営者の考え方が変わらない限り。。。」は、正しい。しかし、それに習わない経営者がなぜ多いのか?その答えはきっと、そういうことなんだろう、と、ぼくは思っている。

資本主義を謳っていながら、また、西欧社会の一部とほとんど思われながら、その心根は異教徒である。それが日本という地域だ。そして、資本主義の衰退とともに、裏切りは顕在化していくだろう。