不可視で巨大な「越境者」

現在、ほとんど全てのIT機器やインフラシステムは、ネットワークの接続機器であるハブなどに至るまでインターネットに接続されており、バグの修正などを目的としてインターネットを経由してソフトウエアの更新を行うシステムに移行している。IT機器の裏側では、他国の業者と接続され、見えないところで、他国のサポートを受けているのが「当たり前」になっている。これはスマートフォンのような私達が普段から手にする端末機器だけではなく、その裏側で動く膨大なインフラシステムもそうなっている。そのため、国境を超えたサポートができるだけでなく、国境を超えた悪意もまたやってくることもある。国境を超えた間違いやバグも来るのだ。今回のソフトバンクの障害は、要するにそういうことだった。エリクソンという海の向こうの国の会社の技術者の「間違い」が日本のインフラを止めたのだ。

だからといって、この国をまたいだ相互依存のサポートシステムや、そのサポートシステムの基盤であるインターネットを止めれば、当然、あちこちでソフトバンクの障害と同じことが起きるのだ。交通システムから電気・ガスのインフラまで、それが副次的な影響を受けて止まる、ということだって考えられる。「止められない」のだ。それが現代のITというものだ。

現代のITの技術者というのは、ITシステムを使う限りにおいて、知らないうちに国境を超えてサポートし、国境を超えたサポートを受けており、それはとりもなおさず、地球規模の巨大ネットワーク・インターネットがそれを支えている。国境でシステムが切れているわけではない。この「止められない巨大な越境者」は目に見えず、大きな影響を(特に良い影響を)私達の普段の生活に与えているのを忘れてはいけない。

ITにもお金にも、既に国境はなくなった。私達がそう望んだから、そうなったのだ。インターネットは、ブラウザで他国の情報を見聞きしたり、国際間でメールがやり取りできる、というのは僅かな「見える部分」にしか過ぎない。見えないところで膨大な国際システムが動いており、その上で私達はその恩恵を受けている、というだけだ。

 

 


 

 

「無敵の人」になりきれない

 

つい先日、JR横須賀線に乗っていて、集中して仕事がしたかったので、グリーン車に乗った。グリーン車なんて贅沢な、と思うなかれ。千円でお釣りが来る移動中の個人環境である。食べ物や飲み物は出ないが、ちょっとした仕事の空間として適当な感じがする。なによりも個人席でPCを出して使える。しかも、私はそんなにたくさんグリーン車を使っているわけではない。毎月1回、あるかないか?だ。

そして、PCを使っていたのだが、飲み帰りの老人が「キーボードの音がうるさいからやめてくれ」と言ってきた。こういうのは初めての経験だったので「すみません。音が出ないようにします」と言って、スマホの画面のキーボードに切り替えた。なにせクラウド上のファイルを書いているところだから、PCからだろうが、スマホからだろうが、なんとかなるのだ。とは言うものの、私の使っているPCはキーボードの音がガチャガチャするような機種ではなく、かなり静かなので、おかしいな、とも思ったのだが、私もときを経て人間が丸くなったのか、反発などせず、「すみません」とだけ言った。

すると、それを言った老人は、しばらくすると、私のその席の近くにある自分の席を立って、他のところに行ってしまった。老人の目は怖くて私が見ることはなかったが。

明らかに「IT機器を使いこなす」みたいなイメージのことに「腹が立って」いるのがわかった。それが感じられた。飲み帰りだったのだろう。顔が赤く、酒臭かったので、ここでヘタに答えると、刺されるかもしれない。最近の老人はキレると怖いらしい、と思って、理不尽ではあるとは思うものの、丁寧な言葉で返しておいたのだが、やっぱ怖かったなぁ。

まぁ、そういうご老人が最近は多くて、いや、自分もそろそろ「老人」と言われる年齢に片足突っ込んでいるとは思うのだが(←いや両足だよ、という声も聞こえないではないが、聞かなかったことにして)、困ったものだなぁ、と思った。自分より良い思いをしている、と思える人に異常な嫉妬心と攻撃を仕掛ける、「無敵の老人」が増えているのだ。ここは、危険を避け、「君子危うきに近寄らず」である。

とはいえ、私のこれまでの人生では「トッププレイヤーはいいが、そうではない人は置き去りなのか?」という疑問を投げかけられることが多かった。嫉妬もあるだろうし、嫉妬のベースとなっているものは、おそらく「自分は変化の速い世界に置いていかれる」という焦燥なのだろう。そして、今はさらにさらに、社会の動きのスピードは速くなっているのは間違いない。当然、落伍する人はさらに増えていく。親は考える。「子供を落伍させないためにはどうするか?」と。親も自分がそうならないためにはどうするか?と。老いてなお、世の中とのつながりを持つことは、その世の中のスピードにあったスピードで自分を変化させていくことだが、それは老いと同時にできなくなってくる。それは死期が迫っている、ということだ。世の中のスピードが速くなればなるほど、死期は間近に、すごいスピードで迫ってくる。キレて「無敵の人」がいてもおかしい世の中ではない。

暴走老人社会が、やがてやってくるのだろう。そして、それは止められない。

 


 

タブレットは生産性を下げる

このところ、満員電車によく乗るのだが、中でタブレットを使う人がいる。スマホを使う人はもちろん多いが、つり革にもつかまらず、立ったままスマホを使う「ワザ」があるのだ。これには驚いたが、見ていると器用なものだなぁ、と感心する。

それはともかく、タブレットを使っている人も多い。タブレットを使っていると、画面が大きいのはいいのだが、自分の場合は、すぐに使わなくなる。満員電車で出しにくいし、夜寝るときに使うと、重いので手が疲れる。図体が大きいので、電池も大きく、電池が持つのはありがたいのだが、タッチパッドの画面の面積も大きく、なにかとミスタッチも多い。いや、あくまで自分の場合は、なんだが。買ったときは良いように思うのだが、すぐに使う頻度が減る。どこかの時点で充電を忘れて放置、という感じだ。

やはり自分としてはキーボードがついているものでないと、長い文章が書きにくい、というのもあって、やはりタブレットからは遠ざかる。しかも、最近は画面の少々広くなったスマホもあって、タブレットの出番はますますなくなってきた。みんなタブレットって、どう使っているんだろうか?

 


「本を読む」が「知的」である、という感違い

最近良く言われることに「子供に本の読み聞かせが知育に良い」とか「ビジネスマンは本を読むと知的になって成果があがる」などの話がある。とは言うものの、最近書店に行ってみても「XXの営業のノウハウ」とか「XXマーケティングとは」みたいなビジネス書ばかりである(でなければ「一帯一路の罠」とか「韓国経済崩壊」みたいな本ばかりだ)。現代の出版にちっとも「知的」は雰囲気はない。直接お金につながらないことなどは、ほとんど「紙の本」として売れないので、お金にならず、出版社も「出版大不況」で食えないところがほとんどだから「売れる本」ばかりが書店に並び「紙の本ビジネス」の断末魔の叫びをそこここに見る、という、悲惨な状況だ。紙の本は売れていない。出版社も潰れたところや事業縮小したところも多い。

一方、通勤電車の中でも、お昼休みのレストランでも、スマホをやっていない人を見ることは稀になった。かつては新聞を広げて通勤するビジネスマンも多かったが、今はスマホである。間違いなく、時代が変わってきた。某有名な作家は「これから紙の本は出さない。電子出版だけにする」と宣言した。世の中が変わりつつあるのを感じる。

そこで「紙の本」で育った編集者などがネットメディアに移ることも多くなり、そこから紙メディアに援護射撃のつもりかもしれないが、書店に並んでいる本のランキングなどを出して、しぼみつつある「市場」になんとか活を入れようと必死だ。正直なところ、私もごく小さな鼻垂れ小僧の時代(そういや、最近はみそっぱ、とか鼻垂れ小僧、っていないんですけどね)から、紙のメディアに育てられた身であって、長じては自分の本を出すことができて、それが売れたから、それなりに祝杯を上げたこともあった。しかし、今はそういう時代ではなくなってきている。

「本を読む」ことだけが「知的」でもなくなった。活字に親しむことが「知的」でもない。私の子供の頃は日本も高度経済成長期で、各家庭には必ず「百科事典」がズラッと並んでいて「うちの子は勉強好きで。。。」などと専業主婦が我が子自慢の火花を銀座の風月堂の喫茶店あたりの井戸端会議で散らしていて、その火花のとばっちりで、出てきたコーヒーは冷めることはまずなかったわけだが(←少しおおげさ)、今や「本」を知的だと思っているのは、その時代に子供時代を過ごしたご老人だけになってしまった。

朝の通勤電車でスマホを開けば、新聞各紙のサイトまで行くこともなく、ネットニュースが溢れており、テレビも見る必要がない。ゲームをしたければゲームをすれば良いし、自分のしごと関係のニュースを知りたければ専門誌のWebを見れば十分事足りる。文学作品も「青空文庫」で、紙の出版に適さないようなマイナーな作家のものも読めるようになったし、出版事情は大きく変わった。音楽もアナログのレコードからCDに、CDからダウンロードに、ダウンロードからストリーミングに変わった。音楽はおそらくライブのみが価値のあるものとして残るんじゃないか、と私は思うのだが。

この大きな時代の変化で「本」も「電子書籍」が当たり前の世の中になりつつある。朝9時にWordのファイルで入稿した「本」は、その日の夕方には電子書店に並び、欠品や取り寄せもなく、その場でダウンロードして読めば良い。音楽と行く道が同じなのであれば、書籍もダウンロードから常時接続による「ストリーミング本」だって、一部で出てきているから、これが主流になる可能性もあるだろう。電子書籍では文字の大きさを自由にできるので、目が悪くなっても文字を大きくでき、レイアウトも変わるから、厳密なタイプセッテイングそのものが無意味になる。

時代は変わっている。変わる時代に抗するのはおそらく無駄である。なぜならば、新しいもののほうが速く、劇的にコストが安く、同じ効果が得られるからだ。かつてのアナログレコードが「特異な趣味」として生き残るのと同じように、紙の本も生き残るだろう。しかし、生き残るだけで、過去と同じようには戻らない。時計は動いていて、人間のちからではそれを止めることはできないからだ。

 


 

「お金持ち」は「小さなカバン」を持っているか?

世の中には、様々な人がいて、様々な「個性」がある。「お金持ち」というのや「貧乏」というのはその人についた「属性」だが、「個性」になることもあるし、「個性」を形作る要素の1つであるかもしれないが「属性」と、よく見間違われるわけではありますね。

つい先日も「お金持ちは小さなカバンを持っている」という広告の記事があった。その広告の邪魔をする気はないから、特になんの記事であるかを特定することはしないけれども、実際「お金持ち」は目立つし、その人が小さなカバンを持っていると、それも目立つだろう。もっとも、その人が大きなカバンを持っていても、目立つんじゃないかと思うわけだが。

だいぶ前に、世界の大富豪と言われているMicrosoft社の創業者であるビル・ゲーツ氏が日本を訪れ、テレビに出演したことがあったが、彼はそのとき、先っちょの壊れたボロボロの靴を履いていた。「なるほど、金持ちはボロボロの靴を履くんだ」とは誰も言わない。また、商品を売るための広告に使えないこういう行為は、当然、共有されても、広告宣伝の記事になることはない。「お金持ちにもいろいろな人がいるものねぇ(つまり、個性だよねぇ)」で終わりである。

また、これは話だけだが、ORACLEの創業者で元CEOのラリー・エリソンは、飛行機で移動するときは、ファーストクラスに乗らず、いつもエコノミークラスだという。ビジネスの厳しさを言うときによく引き合いに出される話だが、この話も最近は聞かなくなった。飛行機会社の広告には使えないからだろうとは思うが、当然、そういう記事はあまり出ない。

簡単に言えば「金持ちはこういうことをする(こんなものを持っている)」という話や「タレントはみんなハワイが好きだ」という、そういったものの1つとして「金持ちは小さなカバンを持っている」というのはあるのだと思うわけですね。それは個性を無視した話であって「自分もお金持ちになりたい」と思う人が、この「原因と結果」を勝手に逆転して解釈し(つまり原因と結果が見えないのね)「小さなカバンを持てばお金持ちになれる」というように、勝手に考えて小さなカバンを買いに走る、という消費行動を惹起する広告記事として、今ひとつ、いかがなものか?とは思うわけなんですよ。いや、売れたかもしれないね。

今のネットの世の中に限らないんだけれども、ちゃんとしたお金持ちになれるほどの頭脳があれば「原因と結果」の逆転などはしないわけですよね。つまり、こういった広告に乗せられて「そうだよね!」と頷く人は、永遠にお金持ちにも、何者にもなれない、ってことだね。意地悪でごめんね。

 


 

「専門家」が見えない時代

今の世の中は「専門家」へのリスペクトが少ない社会なんだな。専門家でなくても、ある程度はできる。たとえば、専門家は「クルマを作って、そのクルマで目的地に行く」ことを考える。当然、「一般人」は「できているクルマを買って、そのクルマで目的地に行く」。あるいは「タクシーにお金を払って、タクシーで目的地に行く」のが一番の「近道」かつ「安価」になる。
どちらも目的を達することができ、そして、おそらく後者のほうがコストも低く、到達までの速度は速い。
しかし、確率はそう多くないとは思うが、途中で事故が起きたり、あるいは、クルマがエンコしたりすると、手軽に目的を達する方法しか知らない「専門家ではない人」は、結局は中身のわかる「専門家」の助けを借りるしか、目的を達する方法はなくなる。しかし、そういうシチュエーションは確率として減っている。だから「専門家ではない人」は、事故があったときだけ、専門家に来て欲しい、と思う。しかし、「手軽かつ安価に」に慣れすぎているので、「専門家」も「手軽かつ安価」だと思ってしまう。しかし、「専門家」はそれで食っているのであって、めったなことでは安い対価では動かない。あるいは、安い単価であれば、それなりの対応をするしかない。
結果として、「専門家ではない人」は、「専門家は(普段は)必要ない」と考える。しかし、いざというときのために、専門家が要るのだが、その「いざというとき」のために、ずっと専門家を待機させて雇うほどのお金は考えていない。まぁ、こういうったことが延々と続いて、あちこちで火を吹き始めているのが現代という時代だろう。こういうことは自分のところだけだと思っていてはいけない。やがて、あちこちで火の手が上がって、専門家は足りなくなり、高騰するのは、目に見えている。今のほうが安いのだ。
今、ITについても、「専門家は必要ない」と思う「素人」は多い。実際、素人でも扱えるように、と専門家が作ってきた膨大なインフラやサービスがあるから、それができるだけのことなのだが、「利用者」はそのことを知らずに使っている。専門家のしごとのおかげだが、この時点で「専門家」は「素人」からは見えないところにいる。
「専門家」と「素人」のコミュニケーションも減っている。これはだんだんとクライシスへの接近を意味しているのだが、ほとんどの素人はそのことを知らない。専門家だけが「このままでは大変なことになるよ」と警告するのだが、「素人」は聞いていない。そして、「大変なこと」は、確実にやってくる。
あの3.11のときみたいに。


 

【11/02追記】「日韓請求権協定」の判決とは?

戦前の日本での、朝鮮半島からの強制徴用被害者が日本企業を相手取り、訴えた損害賠償訴訟は、10月30日、13年8カ月のときを経て「原告勝訴」で、韓国の最高裁で判決が出た。今は韓国の政府は困り、日本の政府は激怒している。韓国という国は、現在の体制は完全に三権分立の建前を守っているため、「国の政府」と「判決を出した裁判所」は別の機関であり、それぞれの考え方も違うだけでなく、韓国の国民の考え方もいくつも別れている。つまり、日本で考えるほど、韓国という国は一枚岩ではない、ということを考えて、この判決を見る必要がある。

つまりこの先、韓国の最高裁の判決があって、表向きは韓国の政府は最高裁判決にしたがわなければならない、ということがもちろんあっても、どこかで韓国の政府は「柔軟に対処していかなければならない」というのも、韓国の政府の立場の1つなのだ。

1965年に日韓の両政府間で締結されたいわゆる「請求権協定」では、2つの請求権について規定している。1つは、(1)戦前に不当に低く支払われていた給料などの適正な額での支払い。もう1つは、(2)戦前の日本政府や企業による不当な扱いに対しての損害賠償、だ。日本の政府はこの2つの賠償を1965年の協定で行うと約束し、韓国政府に対して「実質的に」それを履行した、と言う立場だ。お金を払う名目は(1)で払うが、(2)の意味も暗に込めて、(1)の金額を増額した。そして、韓国の政府もそれを了承した。

この協定では「韓国は日本に対する全ての請求権が完全かつ最終的に解決した」と宣言したのだが、この「全ての」というのはどの範囲か?ということが問題になったのだ。日本の政府の解釈では「全部」だから、(1)も(2)も「全ての」の中に入るが、今回の韓国の最高裁の判決では「全ての」とは、あくまで(1)のこと、ということになる。

しかし、韓国の政府はその後、日本の政府からの賠償金を、賠償を直接受けるべき韓国民に払った、ということだ。多かったのか少なかったのか?はわからないが。しかし、これは(1)の名目のお金である。つまり、(2)の名目のお金については、韓国の政府は「暗に」日本政府から受けただけで、正式に(2)の名目でもらっているわけではなかった。そこで、「元徴用工」は、(2)の名目のお金を求めて(また、(2)のお金については、元徴用工に請求権がある、と言うことで)、日本企業に対し、(2)の請求権を使って提訴し、それが認められた、というのが経緯だ。

本来であれば、(1)の名目でこれだけ払いました、(2)の名目でこれだけ払いました、だから、全部払ったよ、というのがおそらく一番平和だったのだが、当時は第二次世界大戦の戦勝国そのものが「植民地」を持っていた「スネに傷持つ身」だったので、この日韓の合意に口をはさみ、(2)の請求はしない、という日韓の約束にした。もし(2)の賠償を公に認めてしまうと、第二次世界大戦の戦勝国だって植民地に対して、ひどいことをしているんだから賠償金を払え、ということになってしまい、植民地を持つ戦勝国にとっても、その後に禍根を残すことになるからだ。

11/01の夜に読んだいくつかの記事によれば、1991年8月27日の参院予算委員会で、当時の柳井俊二・外務省条約局長が「いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません」と、はっきり国会で答弁した、という記録(PDF:当該部分は9ページの下から10ページにかけて)が残っている。つまり、日本も韓国も、国の政府同士ではなんとかなぁなぁで済ませることに合意したが、民間人にそれに従え、とは言えない、ってことを国会で確認したんだな。つまり、民間(企業とか個人とか)は、勝手に訴訟してくれ、国の政府は関知しないから、国の政府同士はちゃんと合意して平和にやるから、喧嘩だったら民間どうしてやってね、って「公式に」言っちゃってるわけですね。まあ実際、そうせざるを得ないわけなんだけれども。

いろいろ細かい経緯はあるものの、なるべくエッセンスの事実だけを簡単に書くと、このようなことで、この判決が出たのだ、ということがわかる。

ということだから、今回一番困っているのは、韓国の最高裁判所と、日本の政府の間でサンドイッチになっている韓国の政府なのだなぁ、ということですね。

それにしても、韓国という国の三権分立の正しいあり方も見せてもらったように思うのが、今回の判決ではある。


 

「デジタル・スノッブ」の景色

今の日本では、既に「ノマド」は死語になった。「ノマド」というと放牧する人というような意味だから、その青い空と白い雲を眺めて、時代の先端を行くかっこよさ&ユルユル感がなんとも「優雅な高等遊民」みたいな感じがしたものだが、実際は「スタバに集まる若年層Apple製品大好きな失業者の集まり」みたいな感じがどうしても拭えず、結局「ノマド」という言葉そのものが廃れていった。

一方で、そうは言うものの、今どきそこのコーヒーが余り美味しいように私は感じないスタバに集う「MacBookとiPhoneで気取ったつもり」の人が未だにいるわけですね。全く機能的ではないその組み合わせのどこがいいんだろう?と、ぼくなどは思ってしまうのだが、要するに中国製のApple製品を高級ブランドだと思いこんでいる「スノッブ」なんだな、というしか、答えはないんだよね。

実際、デジタルに詳しい世界の最先端のPC使いは、一部はUbuntu/Linuxなどの無料のOSと無料のOfficeソフトに移行しているので、特に実害はないんですよね。開発環境にはUbuntu/Linuxはきめ細かいコマンドラインも普通に使えるため、Microsoftでさえ自社OSに「Windows subsystem  for Linux」なんかがリリースされているわけですね。こういうものを使うこともない、くたびれたMac/iPhoneをスタバで使って、アクセスの少ないWordPressなんかをいじってデザイン変えて自慢しちゃう「デジタル・スノッブ」には、まぁ、関係ない世界ではあるんですが。

とは言うものの、20年も前に米国の某偉いITの先生はゲーツのWindowsを批判して「Microsoftはコンピュータ(パソコン)を、(一般の人のおもちゃとして)化粧品かなにかのよう(なブランド品)にしてしまった」と嘆いたこともあったんですけどね。今はWindowsは毎日なんらかのアップデートがバグを作るボロボロのOSみたいな評価も一部ではあるものの、なんとかビジネスシーンでは認知されているものになったんだが、Appleは昔のMicrosoftを真似して「化粧品みたいなブランド」になるのに成功したわけですね。時代の流れってのは速いねぇ。

いずれにしても、志の低いITの世界のスノッブばかりが増えるから、先日の北海道の地震でも「データセンター守ったさくらはすごい!」みたいな話は流れるが、データセンターがあっても、途中の回線がないとインターネットできないでしょ、そのNTTはなんにも称賛しないの?なんで?みたいな話があまりに多くてね。正直なところは、日本全体のITの認識や技術の劇的低下を、かなり憂えているわけですよ。

「デジタル・スノッブ」は、要するに、カッコだけで中身のない「デジタル失業者」で、外国の意欲も気力も技術力も溢れている連中と渡り合うには、まぁ、力不足な人たちばかりだなぁ、と思うばかりです。だから「私はわかりません」とはっきり自覚して言葉に出す完全な素人は特別に免罪するとしても、中途半端な知識であれこれとITを語る「おれ、IT詳しいよ」みたいな人は、正直なところ、世界に持っていくとなにもできなかったりするわけですよね。いいんですよ。そのままで。でもこれから勉強してね。それを放棄すれば、やっぱりダメなんだと思うわけですね。

「デジタル・スノッブ」は、自分の立ち位置が見えない。だから、勉強もまともにできない。毎日、スタバでiPhoneとMacbookで、引退生活を送る。そういう人生も悪いとは思えないんだけれどね。ぼくはしたくないですけれども。

 


 

「通信」と「通信プロダクト」の分離

おそらく、この記事が表に出ている頃には、日本の三大携帯キャリアの冬の新機種があれこれ発表されていることだろう。あそこはこの機種が出て、ここが新しくて。。。。

まぁ、それは良いのだが、既にMVNOなどがかなり浸透してきた日本でも(外国はもっと前からそれが普通のところが多いのだが)、「スマートフォンやタブレット」本体と、それをつなげる通信会社との分離が当たり前になって来ている。とは言うものの、この新しい流れについて行けない人も多いわけで、未だに「通信会社で新機種のスマホを買う」なんて人も多く、かつ、まぁ、普通に見るわけですが。

自分の場合は、2013年に韓国で仕事をする、ということがあったので、既に日本の三大携帯キャリアから離れて、そのときにスマートフォンはSIMフリーの機種と、その地域地域で使えるSIMを調達して使う、というやり方に変えてきた。結果として、韓国に行ったときも、日本で使うときも、同じスマートフォンが使え、非常に便利だった。

なかなか外国にも行かなくなった現在は、その流れが続いていて、国内で使用するスマホやタブレットは基本的にSIMフリーの機種を数台使いまわして、SIMだけ毎日あれこれと入れ替えて使っている。唯一面倒なのは、LINEがSIMカードではなく、スマートフォン本体にIDを求めているので、毎日、LINEが使えるスマートフォンを設定しなおさなければならない、ということだけだ。私の場合はLINEも使っているが、LINEを使うことがなければ、こういう不都合は生じないのだが。

横道に逸れるが、スマートフォンなどで入れられるアプリで、韓国発のLINEやカカオトークの「知財の重要部分」は、スマートフォンの本体確認をSIMカードに寄らない、本体で行うところにあるらしいので、この不便なしくみはなかなかなくならないから、当分はこのままの不便さなんだろうなぁ、と。

日本では「正統神話」というものがあって、例えば、電話回線はNTTでつなげると、電話機やFAXもNTTで、というのが多い。それにこたえて、NTTでも、NTTのマークの製品を用意したりしているが、それは実際には他のメーカーで作っているものだ。

スマートフォンも同じような感じなんだが、携帯電話の時代からスマートフォンの時代になってからは、よりいっそう「通信回線」と「通信プロダクト」の分離が進んできた。現在のMVNOの利用者はスマートフォン全体の20%くらいにまで、やっとなってきた。

もともと、SIMカードという仕組みは、「通信回線」「通信プロダクト」の分離のために作られたものであって、通信プロダクトが回線とがっちりつながっているものであれば、こういう仕組みは必要なかったものだ、と思うんだがなぁ。それに、スマートフォン本体を毎日取り替える、というのは、ファッションを気にする女性にも受けると思うんだけど。

ということで、SIMフリーの端末はこれから、日本でも増えていくことだろう。

 


 

バンクシーの切り刻まれた絵?

記事に書かれている通り、もし今回のこの一件がバンクシーとサザビーズの「共犯」によって行われたとしたら、サザビーズはより高い落札価格が目的だろうね。ついでに、現場で捕捉されたと言われている、シュレッダーのリモコンの操作者もその企みに雇われた人間だろう。であれば、その「操作者」の行方を追うことで真相は明らかになるだろうね。しかし報道では今のところこの操作者が誰で、どういう素性で、どうやってオークション会場まで来たのかは明らかになっていないばかりか、その人間が警察に引き渡されたのかどうかも明らかでは無い。つまりこの一件は「怪しい」のだ。

また、作品とその仕込みのある額が作られたのは数年前とのことだが、電池などはどういうことになっていたのか?電池はどんな電池でも年数を経れば容量が減って行くだけでなく、経年変化で劣化していく。周囲の温度や湿度などの環境にもよるが、乾電池で容量が80パーセント以下になるのはだいたい2年と言われている。

また、シュレッダーに使われているモーターや刃なども、環境にもよるが、劣化するものだ。

さらに額と一緒に刻まれた絵は半分だった。なぜ全部が刻まれなかったのか?電池が切れたのかもしれないが、一方で、刻んだ額と一体の刻まれた絵という全体をより価格の高い「商品」としたかった、という思惑もあったのではないか?

記事中にあるように、オークション出品者は出品前に必ず絵や額の状態を詳細に調べるのが普通であり、シュレッダーのメカニズムにオークションをしている会社の人が気がつかなかったとは思えない。

ということは、今回高額落札した人間も共犯者である可能性は高い。落札者は買った価格以上の価格を「半分切り刻まれた作品と額縁」という作品につけることが可能になるからだ。名前はなにがいいだろう?「風船を持つ子供の絵を含む作品」というのは、現代芸術家としては、面白い「作品」であることも、言うまでもない。

そうであったとしたら、この「事件」そのものが、関係者全員による価格吊り上げも含んだ目的を持った「ヤラセ」であった可能性は高い、ということになる。作品、というよりは「ショー・ビジネス」ですね。まぁ、本当のところはわかりませんがね。