長谷川豊アナの降板と「意見を曲げない」こと

やっぱりというか、なんというか。やっぱりあの「役立たずは殺せ」みたいなことを言ったとして炎上していた、「長谷川豊」アナが番組のCM降板ということになったらしい。

ぼくは彼となんら交流があるわけではないし、詳細な事情を知るわけでもないのだが、基本的にはあまり同情はできない。ネットの「炎上」までに、本人の謝罪や言い訳など、彼の主張を変えました、という話は本人から一切なく、自分の意見を曲げない、ということが彼自身にとって美徳の1つと思われていたフシもなくはない。自分の意見を曲げることができない、というのは、やはり生きにくいものであるばかりでなく、その人本人の頭の柔軟性を疑われるので、現代では「自分の意見を曲げないこと」は、美しくもなんともない。むしろ、自分の持っていた意見をさっさと変えること・そのことに躊躇しないこと・ちゃんとした言い訳を用意していること、が「頭のいい人」という評判を作る時代なんだな、と思わざるを得ない。

おそらく、ネットがあることによって、人と人とのコミュニケーションが以前よりかなり密になったため、孤高の人、他人と違う主張をする人は以前にもまして敬遠される時代になったからだろう。私が考えるに、これは大きな変化だ。

それはそうと、この後も長谷川さんの主張は、本人が表舞台から消えた後でも、残りそうな気配もなくはない。彼は結局のところ「乗せられて悪者にされ、捨てられ、その成果としてのあるプロパガンダのみが残った」感じがしないでもない。主義主張は人を犠牲にしてやまない。その主義主張がどこから出たものであろうと、昔から人間社会の中での個人の主張は、こうやって多くの人を殺してきたのだ。やがて人はいなくなり、かつての人間社会にあった「主張」のみが幽霊のように地球の上を覆い尽くすのかもしれない。

 


IoT機器の大規模クラッキング(ハッキング)に対処する

秋葉原殺傷事件の翌日IoT機器の大規模なクラッキング(ハッキング)がここしばらく大規模に続いている、という。問題の本質はなにか?

ハッキング被害にあったIoT機器の話を見ると、システムのデフォルトで設定してあるIDとパスワードで、sshへの侵入が行われ、ハッキングされた、という被害が多いとのこと。たとえば、最近IoT機器の試作品を作るのに、よく使われる「Raspberry Pi」の標準のOS「Raspbean」は、インストール初期のIDが「pi」、パスワードが「raspberry」である、ということは、説明書にも書いてあるし、よく知られている。しかし、そのアカウントがそのまま放置され、パスワードも変えていないままになっている例は非常に多い。そのアカウントが狙われることが多いのは、想像に難くない。IoT開発技術者はハードウエアやセンサーを作るプログラム開発に時間をとられ、セキュリティまで手が回らない。結果として、大規模はハッキング被害の被害者になる。

鍵をかけていない家の中で、お金を数えるのに夢中になっていたら、泥棒が正面玄関から入ってきた、という感じだ。

IoT機器といっても、センサーやモーターなどのすぐ近くに、小さなコンピュータを入れることが多く、多くはマルチタスクシステムが容易にできるLinuxやWindowsなどを使っている。簡単に言えば目の当たりにする小さなコンピュータは、規模は違うが、本質は「Linuxなどによるサーバー」みたいなものだ。技術の進歩によって、大きなサーバーが小さなセンサーをつなげる、安価で低消費電力の現場のコンピュータになっただけで、中身はほとんど変わらない。

だから、小さなボードコンピュータであっても、サーバー並のものが中に入っている。だから、数千円の小さなボードコンピュータを使いこなす技術は、数キロワットの電力を消費し、一部屋と24時間の空調を占領する大きなサーバーとほとんど変わらない。

つまりセキュリティも小さなボードコンピュータと大きなサーバーであまり変わるところがない。であれば、数千円の小さなボードコンピュータでも、けっこうまともなセキュリティ対策を当たり前にして置かなければならない。たとえば、よくハッキングの標的にされるsshやftpのポートをよく使われているものとは違うものに変更しておくとか、アカウントを必要以上に作らないとか、パスワードをより複雑なものにしておくとか、OSカーネルや周辺の基本システムのアップデートは怠らないとか、そういうサーバーセキュリティの基本を押さえておけば良いのだ。

しかし、サーバーの技術者は小さなボードコンピュータを触る機会はあまりない。両者は違う技術者だと思われているだろう。だから、技術者の配置で大きく間違え、こういった事故を起こす元になっている、と考えられる。

IoT機器のセキュリティ。それは大事なことなのだが、経営者はそのために必要なコストは見えないコストだから、普通は払おうとしない。だから、セキュリティに詳しい技術者がもう一人必要、といっても、なかなか聞き入れてはくれないだろう。そして、セキュリティの一点で、会社を潰すことになる。これは、ドラマではない、現実に起こっていることだ。

 


スマートフォンなどに使われる「リチウムイオン電池」とはどんな電池か?

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ワイキキのハイビスカス

今は技術というものが一人のものではなく、あちこちの別人に「専門」として、分かれて存在しているから、仕事としては非常に高効率になるんだが、その代わりに、全体を把握している人が少なくなり、たとえば、スマートフォンやPCの電源一つでも「充電式電池の専門家」「AC電源の専門家」なんてのができて、お互いに連携しているんだかいないんだかわからない、みたいな状況になってきている。使う方はそんなこと気にしないで「一流メーカーのものだから、間違っても爆発なんかはしないだろう」と思って使っているのだが、裏側にまわると、いやもう、なんというか「これでいいの?」みたいな場面に当たることはけっこうある。

コストダウンや製品ができるスピードを重視するあまり、じっくりとした仕事はできないから、電源は社内で作らないで外注に任せよう、なんていうことになると、さらにわけがわからない。製品はできるが、気がついたらあちこちで爆発事故が起きた、なんていうようじゃ、製品販売で出た利益が吹っ飛ぶどころか、会社が潰れる危険さえ出てくるし、上場企業であれば株価が暴落、なんてこともあるだろう。

私たちが毎日当たり前のように使っているスマートフォンやタブレット、PCの電池のほとんどが、今は「リチウムイオン電池」というのを使っている。このリチウムイオン電池の特徴は以下だ。

  1. 少ない容積、比較的軽い重さで、多くの電力を貯めておける。
  2. 小型の形状にしやすい。
  3. 一度に大きな電流が取り出せる。
  4. 充電や放電のやり方が難しく、電気回路開発には技術的な難易度が高い。
  5. 電気回路がうまくないと、爆発の危険がある。
  6. 途中まで充電して使い切るとか、放電途中で充電するなどが比較的自由にできる。
    リチウムイオン電池ではない場合は、100%充電してから0%に近いくらいまで放電させないと、再度の充電がうまくいかないことがある(メモリー効果がない)。
  7. 並列の内部抵抗が比較的低いので、充電してから放置しておくと、電池がなくなるのが速い。
  8. 使用温度などの管理を非常にしっかりやっておく必要がある。そうしないと、爆発したりふくらんだりして、性能が劣化する。

しかし、リチウムイオン電池の充電・放電用のIC(半導体集積回路)というものが部品として半導体メーカーから出ており、多くのスマートフォンはそのままそのICを使っている。ここにはリチウムイオン電池の充放電のノウハウが詰まっている。通常はそれでなんとかなる。

これらの特徴はもちろん、リチウムイオン電池を内蔵したモバイルバッテリーでも同じことが言える。しかし、一番の特徴は「電力をたくさんためておける」ということで、これを「エネルギー密度が高い」と表現する。単位体積あたりに貯めておける電気が多い、ということだ。だから、リチウムイオン電池があるから、機器を小さくできる、とも言える。しかし、爆発の危険は常にあるのだ。今日も今日とて、世界のあちこちで「スマホが爆発しました」なんていうニュースを見ることになる。

では、こういった「スマホ爆発事件」の被害者とならないためにはどうしたらいいだろうか?一番いいのはスマホを持たないことだが、そういうわけにはいかないわけだ。、まずは、充放電については、取扱説明書をよく読んで、その通りの使い方をすることが第一だ。極端に温度が高いところや低いところに置かない、衝撃を与えない、膨らんできたら、すぐに電池を取り替える、など、取扱説明書には多く書いてあるはずだ。その通りにすれば、ほとんどの事故は防げるはずだ。そして、「おかしいな?」と感じたら、すぐにショップなどに駆け込んで実情を説明し、場合によっては電池の交換や新しい電池を買って古い電池を捨てる、などのことが必要になる。

覚えておいて欲しいのは、スマホなどに使われている電池は「非常にデリケートなもの」である、ということだ。だから、説明書通りに、大事に扱うことが必要だ。

 


「ら」抜きと「さ」付き

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「日本語が乱れておる」なんてことを言うつもりはない。言葉である以上、時代の流れとともに、言葉も変わっていくものだから、多くの人がそれを使えば、それが標準となり、また次の世代に伝わっていく。そして、次の世代はではそれが変わる。だから「正しい日本語」はいつも変化している。

まぁ、頭の硬い人はいるし、そういう人でも生きて行かなければならない。だから、こういうことが我慢ならない、という人もいるんだろう。と、ぼくはその程度に考えている。

「ところで、このサイトのアクセスは、こっちのURLで見れるんだけど、いま、ダウンしているらしくて、見させてもらおうと思ってもできなかった」

なんて普通に聞くからねぇ。

それにしても、おとなりのおじいさんお二人、会話がうるさすぎ。耳遠いのかな?

 


IoTの「キラー・アプリケーション(Killer Application)」はなにか?

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【IoTのキラーアプリケーションはまだわかっていない】
最近はIT業界のどこを見ても「IoT」の単語が目につく。世界的な流行だ。各国の政府もIoTにまた別の様々な名前を与えてこの競争に参画している。しかし、その競争の焦点は「IoTのキラーアプリケーション(それを作れば必ず儲かるというモノ)の発見・発明」に絞られている。つまり、今日現在世界中の誰もが「IoTのキラーアプリケーション」がなんであるか、わからないのだ。しかし、IT業界以外の人のIoTに対する期待は違う。それは「IoTのキラーアプリケーションで儲けろ」である。現在は世界中の誰もが手探りの状態だ。

【IT企業もIoTのキラーアプリケーションはわかっていないから】
ハードウエア・ソフトウエア・インターネットに詳しい各社の提供するIoTソリューションなるものでは「あれもできます・これもできます」と書いてあるばかりで「なにを作ったら良いのかは自分で考えてください」と、キラーアプリケーションの開拓の道具は提供するけれども、キラーアプリケーションそのものは提供できない。提供していないのではなく、知らないから出来ないのだ。だから、あれこれとIoTのシステム開発の道具だけが氾濫している。トラックばかりが世の中にたくさんあるし、船もたくさんあるが、積荷がない。スコップは提供するけれども、なにを掘るかはあなたが決めるもの、という、そういう状態である。しかし、誰も掘るものがなんであるかを知らない。これから探します、と言って、氾濫する道具の海の中でもがいている。でも、今のところ世界中の誰もが「なにをほったらいいか」を知らない。

【キラーアプリケーションの発見が先か、それとも。。。。】
たくさんの道具を手にぼくらIT業界人はキラーアプリケーションを探す旅に出ているが、まだ金鉱は見つかっていない。そのうちに道具の重さに身体が追いつかなくなり、疲労ばかりが肩にのしかかる。このままでは、やがて潰れていくだろう。肩にのしかかる道具の重さと人々の期待の重さはとてつもなく重い。自分が潰れるか、それともそれまでにキラーアプリケーションが発見できるか?その競争である。つまり、現在のところ、キラーアプリケーション発見の旅に出かけるには、効率的で軽い道具を持って出るのが一番だ。そして手当たり次第にあれこれと作ってみて、実物の試作品を目の前にあれこれと数を試す以外に、キラーアプリケーションを独り占めできる機会は訪れない。だから、手当たり次第に作り始める。壊す。これを繰り返すサイクルをできるだけ短くする。それがこの競争に勝つ唯一の道である。IoTには現在のところ「答え」はない。その繰り返しをできるだけ速いスピードでこなす道具が必要だ。

【高度経済成長期の過去は役に立たない】
かつて日本を含めた世界中が、第二次大戦後の高度経済成長期を謳歌した。米国では「黄金の1960年代」と言われ、日本は「もはや戦後は終わった」「高度経済成長期」がキーワードだった。その時代は「なにを作れば儲かるか」が決まっており、なければ米国に探しにいけばなにかがあった。今は世界中のどこにも「答え」は落ちていない。いや、落ちているのかもしれないが、誰もそれを発見できていない。時代が変わったのである。「それ」はどこからか持ってくるものではなく、自分で作るものに変わった。別の言葉で言えばそれを「創造性」と言うわけだが、この大転換があったにもかかわらず、私達のほとんどはそれに気がついていない。ましてや高度経済成長期に甘い汁を吸った人たちは、成功体験が邪魔をして、やり方を変えられない。思考もついていかない。だから、成功からはどんどん遠のいていく。よく言われるように「成功体験は成功の邪魔」なのである。成功体験を知らないことが成功への道の1つである。つまり、過去の体験は役に立たない。キャリアを大切にするのではなく、その場でなにができるのかを大切にする必要がある。創造と実行。そして失敗を恐れないこと。過去は必要ない。そういう時代に変わったのだ。それはIoTに関しても同じだ。

【しかし、IoTのキラーアプリケーションに近づいたかもしれない】
とは言うものの、私はこのところの試行錯誤でなんらかのキラーアプリケーションは発見できた、と思っている。驚くほどシンプルなその仕組は新たな発明でさえない。この複雑で問題を多く抱える世の中に一筋の光明を見出した思いがある。今の社会に必要とされるソリューションのキーは以外に簡単だったが、大きな影響をこの世の中に与えうるポテンシャルがある、という確信が持てた。キラーアプリケーションはあったのだ。

 


曽野綾子の「変節」

P1150574おそらく、曽野綾子という人自身がこの記事を読んだとしても、「あのときはそう思った。でも人間とは変わるものだ」というくらいのことは言うだろう。外から見れば「変節」と受け取られることでも、それが自分のこととなると、「自然な変化」でしかない。ただ、この方の場合はもともと社会全体に対する声が大きい人だから、当然のことながら、口さがない外野は「変節」と騒ぎ立てる。世の中とはそういったものだ。

文壇のおしどり夫婦の一方が要介護状態になり、もう片方がその夫の姿を見て、「生産できない人は死んでしまえ」とは「もう書けない」のは当然だろう。

目の前に「滅び行く親しい人」を見れば、自分がなにをしなければならないのか、自分がいままでなにをしていたのか?そういうことがみんな肌でわかってくる。なによりも、自分もまたそういう存在になることを目の前に見せつけられる。そのとき、一番大切に思えるのは自分の老い先短い命である。こうやって、人は弱い立場の人を思いやる気持ちや、人の命の尊厳と向き合わざるを得ない。どんな人にもそういう時がやってくる。それは他人のことではなく、自分のことだ、というのが、やっとわかるのだ。

曽野綾子という人の強さは、やはりこういうときに本当は発揮されるのではないか。どんなスーパーマンでも、終わりが来る。それが人間というものだ。自分の身が滅ぶことであれば、耐えられる。しかし、自分が最も身近に感じている人が滅んでいくことを見るのは、自分自身がそうなるより辛いものだ。それが「人間の尊厳」の具体的な姿である。曽野綾子という人の若いときの作品で弱者を切り捨てることを書いたことを、それでもこの人は悔いるだろうか?たとえ悔いたとしても、それを懺悔録の最後にしるし、自らを自らの十字架に架けることができるだろうか?

文学者としての最後の傑作を、この人は書けるだろうか?彼女が変節したかどうか、というよりも、ぼくは文学者としてのこの人の成熟と成長を見事に描き切れるかどうか。私はそのことに、もっともっと興味がある。表現の仕事とは、その自分の身を切る覚悟があって、はじめて後世に残るものを残せる、そういう生き様のことであろう。文学者として、前を向いて生きる、というのはそういうことだろう。と、私は思っている。それを描ききれないのであれば、それがこの人の文学者としての限界だろう。

残酷かもしれないが、それが「表現を仕事にする」ということではないか。

 


日本:ある平日の午後

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たとえば、定年退職後の老人であれば「今日はなにもすることがない」のに焦りは感じても、「あぁ、自分は退職したんだった」と納得してその日を暮らすことができるんじゃないか。でも、若い人で同じ状況の人はいま日本にすごく多い。彼らは「納得」しないだろう。チェーン店の安いコーヒー屋には、いま、中高年と若者が非常に多い。昼間からなにをするでもなく、そこにいる。

いまの日本では仕事がない。若い人間にも老いた人にも、ない。いや、全くないわけでもないんだが、非常に少ない。1o年以上前の日本の都市部であれば、昼間にコーヒーチェーンに寄るのは家庭の主婦が主で、働きざかりの男はほとんどいなかった。いまはそうではなく、すべての年齢層の人たちが等しく、そこが人生の縮図でもあるかのように、そこに集まっている。

日本の高度経済成長期から、つい10年くらい前であったら、こんな光景は見ることがなかった。どんな能力を持っている人にも、等しく仕事があり、等しく忙しかったからだ。しかし、いま、日本では日本の経済を支えた製造業が衰退し、製造業の技術は、それがどんな技術であれ、必要なくなってきた。ましてや技術も能力もない人には仕事がない。

今必要な能力は「なにを作ったらいいか」を考える能力である。もっとあからさまに言えば「なにをしたら儲かるか」を考える能力である。そしてそれを実行する実行力だ。しかし、「なにをしたらいいかわからない」人には仕事がない。いまはそういう世の中に変わったのだ。そして、その激しく早い世の中の流れに、殆どの人はついていけない。