「無人レジ」に感じること

日本の各所で「無人レジ」が広がり初めている。なぜ無人レジが必要になったかというと、どのニュースの説明でも、必ず出てくるのが「人手不足」である。日本では単純労働をする人大がどんどん減っている、というのがその理由とのことだ。そして、コンピュータも発達し、人間の代わりができるようになってきた、という「技術の発達」も、その理由に使われる。しかし、なにかその理由には足りないものがあるのではないだろうか?

無人レジが成立する、ということは、人間の仕事というものが、機械で置き換えができるほど、劣化した、ということは言えないだろうか?

たとえば、獲物を全速力で追いかけるヒョウやライオンは、ただ食べ物だけを得るためだけに走っていて、それだけだろうか?おそらくその行為自身に、生きる喜びがあるんじゃないだろうか?そういうものが「労働の質」と言われるものにならなかったのは、現代の人間の不幸なんじゃないだろうか?

たとえば、作曲家という仕事は音を繰る技術だけでは成り立たない。それは最低限の「技術」であって、その上に、どんなメロディを作るか?というのは、その作業に喜びがあるものでなければ、その曲を聞いた人の心にも、音楽は響かないだろう。レジ打ちの仕事だって、やっていくうちに熟練していけば、レジを打ちながら、お客様との会話も楽しくなることがあるだろう。人と人が相対してコミュニケーションをすることが、喜びになるだろう。あらゆる仕事というものは、投資効率だけを考える考え方だけでは割り切れないものを持っている。それは人間が生きていく手段であると同時に、仕事そのものに、生きる喜びがある、という、そういうものだ。それを「労働の質」と言ってもよいだろう。

この「労働の質」を問うことが、そろそろぼくらには必要になっているのではないか?

 


LPWAで困ること

世の中は、IoTの話でもちきり、と言うと言い過ぎだが、少なくとも私の周辺のIT業界では「もうこれしかない」というようなことが言われている。人工知能もこれに絡め、大量のデータ処理はビッグデータで、サーバーはクラウドで、というような「こういうものがあります」ということで、業界は口を空に向かって開けているのだが、なーんにも美味しいものは降ってくる様子がない。IoTは工場の自動化に良い、と言うが、工場ではとっくの昔に自動化は終わっているし、最近は独自にネットワーク化も終わっている。

だいたい、工場の設備を動かすPLC(Programmable Logic Controller – これ自身は三菱の商標らしい)という、リレーの動作をコンピュータで置き換えた装置は既に25年以上前から多く工場の現場で使われてきている。米国ではRockwell社がその雄だが、このRockwell社のネットワーク機器はCiscoのOEMである。新しく「Industory4.0」などとキーワードをいじくったところで、入り込む余地はほとんどない。今やるべきことはこれらのPLC機器のネットワーク化の向こうにある、経営管理まで含めた工場の自動化システムであって、それ以外のお話は大きくなりにくい。今必要なのはこういったネットワークを経営管理、事務管理のネットワークに接続するための、PLC機器のインターフェイスができるか?とか、各社あるPLC機器を混ぜて使ったときのインターフェイスがあるかどうか?というところだ。

東証一部上場の多くの日本をルーツとする製造業各社、韓国、中国、台湾などのグローバル展開をしている製造業者は、既に世界ネットワークを自前で構築していて、それとのインターフェイスをどうするか?ということが大きな(期待していたより小さな)IT業界の仕事になる予定だ、という程度のことである。

キーワードをこねくり回すのは結構だが、ちゃんとお金を産むビジネスになるかどうか?そこが大切なことなのだ。

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で、最近、このIoTにくっつくキーワードとして「LPWA(Low Power Wide Area)」と呼ばれる無線でのデータ通信規格が浮上して来ている。これは米国のLoRa Allianceなどがその規格団体として取りざたされることが多いが、規格そのものは2013年に世界的に合意されたもので、取り立てて新しいということはなく、LoRaに準拠しないLPWAモジュールで、日本の総務省の技適が取れているモジュールは、既に多く日本の各社が作って標準部品として売っている。サンプル価格でいずれも数千円程度のものだから、大量に買うとかなり安い。秋葉原でもいくつかの販売店に行けば売っている。実際、実験をした方もこの半年で増えてきた。実際に実験してみると、通信速度は1kbpsくらい。で、距離は数kmは届く。1kbpsは遅い、とは思うが、その昔、音響カプラでデータ通信したときは300bpsである。その三倍と思えば、よくここまで来たなぁ、というのがオジサンの感慨ではある。

通信のプロトコルとしてTCP/IPは使えないから、そのデータ通信のためのデータをそのままインターネットに流すことはできないから、プロトコル変換をすると同時にアプリケーションでデータを収集したりするプログラムと、それを動かす「ゲートウエイ」になる「コンピュータ」が別途必要になる。このコンピュータは最近流行りのraspberry-piなどのサンプル価格数千円のコンピュータで十分である。明日には、このRaspberry-Piの廉価バージョンである「Raspberry Pi Zero」が発売されるので、これなら数百円、ということになる。時代はどんどん変わっていくが、LPWAの認知は多くのIoTのラスト1マイル用の通信として、安価で手軽であるがゆえに、普及していくんじゃないかと言われている。2017年2月には、日本のMVNOの業者であるSORACOMがLPWAを使ったLoRa-WANのためのGateway機器を作って、クラウドのシステムも売る、ということで、話題になった。

しばらくはこのLPWAのことで、業界は持ち切りだろう。まぁ、ぼくらはいろいろなシチュエーションでの実験も既にしているし、電波の特性もわかっている。結局、器はいくらでもあるのだが、「なにをしたら儲かるか」がない。それがIoTの現状である。

 


Webサイトのリニューアルや会社のネットワークのリニューアルにはセキュリティに気をつけて

このところ、ニュースだけではなく、私の周辺のあちこちで、インターネットからの侵入者を防ぎ切れず、会社で扱っているお客様のメールアドレスや社員のメールアドレスが流出したらしい、とか、そういう話を聴くことが非常に増えた。実際、私の運営しているサイトでネット経由で来る外部からの「攻撃」や「攻撃の予備行動」とみられるアクセスはこの半年で急激に増えてきた。

攻撃はどこから来るかというと、日本国外がとても多く、いろいろな国からまんべんなく来ているように見える。

ぼくの仕事の大きな部分も、このセキュリティに関わるもののご相談が増えつつある。日本では経済産業省も、新しい法律を作り、これに国のレベルで対抗をすることを考え始めている。

自分の本職といえばそうなのだが、怖い世の中になってきたものだ、というのが実感だ。

 


スマホもPCも発達は止まって久しい

たとえば、2007年に初代のiPhoneが登場したとき、ぼくらはその機能に驚愕はしなかった。日本ではもちろんガラケー全盛だったが、腕時計型の携帯電話もあったし、Eメールができる携帯もあった。タッチパネルが少々新しいくらいで、機能としては、なんでもできた。日本の場合、問題は「法規制」とか「キャリアの規制」であって、これは今まで変化しつつも尾を引いていて、日本で売られているスマホはけっこう窮屈だ。

当時のAppleでは、音楽プレイヤーのiPodがあって、これに電話機能とタッチパネルをつけた、ということだったので、あまり驚きはなかった。タッチパネルも新しい技術ではないから、「そりゃ、組み合わせればできるよね」とぼくらは思っていた。テクノロジーに疎い人たちだけが、大騒ぎしていた記憶がある。

CPUのコアの数は、2007年当時から変わって、今はQuad-Coreが主流だが、ここ3年間、あまり変化はない。AndroidもiOSもバージョンが新しくなるが、結局のところすごく進化した感じがない。PCのほうは安定していたWindowsXPが数年の寿命で、その後混乱のVistaになり、7→8→8.1→10となったが、ユーザーに隠された部分が多くなり、クラウドも多用されたものの、すごく革新的な進歩はないように感じられる。MacOSも進化しつつある、というものの、進化の度合いは似たり寄ったりだ。この間、米国では安価なChromebookがMacよりも売れるように成長したが、この波は日本の業界の事情もあって、日本にはまだ来ていない。Chromebookは日本円で2万円前後からあり、ムービーの編集をするなどの重い処理がなければ、これで十分、というスペック。なによりもこの低価格が魅力だ。

思い出すと、この4年くらいだろうか?2010年を超えたあたりから、PCもタブレットもスマホも「これはすごい!」と大声を出したくなるような「革新」がない、と私は感じている。

今年のCESで大繁盛だったAmazonのAlexaの音声認識も、目新しい技術ではない。人工知能もずいぶん古いキーワードが出てきたなぁ、と思ったし、IoTも、ぼくらは30年前からやっていて「今さら名前をつけられてもなぁ」くらいに思ったものだ。

テクノロジーの世の中は確実にここ数年、技術革新がスローダウンした、と私は感じている。「もっとスピードを!」「もっと創造力を!」と思う。

 


元在韓日本大使の「韓国人に生まれなくて良かった」

「ダイヤモンド」に掲載された、元駐韓大使の「韓国人に生まれなくて良かった」という記事がここ数日、日本のネットなどで話題になっている。韓国側からは朝鮮日報日本語版でこの記事が話題になったことについて、韓国での反応などが記事となっている(日本語)。日本のテレビニュースで韓国の話題が出るときは「このところ悪化している日韓関係ですが」というマクラが必ず言われる。一方で日本政府の国土交通省・観光局(JINTO)の発表したレポートを読むと、韓国から日本への観光客は過去最高、500万人を超えているだけでなく、前年比でも20%以上の増加傾向であることがわかる。また、逆に、日本から韓国への観光客も増えている、という報道もあった(日本語)。これらのリンクは韓国のメディアのものでも、すべて日本語のものだが、要するに、テレビや新聞であれこれ言われているものはあまりあてにならない、ということなんではないだろうか?

最近、なんだか日本国内のメディアで言われていること、取り上げられているニュース、その取り上げられ方が今ひとつ偏っているように思うのは私だけだろうか?

私の周辺では「韓国については昔は印象が良かったが、最近は悪くなった」という日本人が増えている。実際に韓国に行ってみると、以前とはあまり変わらないし、景気は日本で言われているほど悪くなく、むしろ良い。私は3年前に韓国で大学教授をしていたとき、韓国の大都市でミュージカル「CATS」を見た。ブロードウェイの本場のCATSだ。韓国じゅうを公演している、とのことだったが、後ろから三番目くらいの席だったにも関わらず、チケットはかなり高額で、日本円にすると2万円近かった。ということは、前の席はおそらく5万円級のところもあったのではないか?と想像している。1200名が入る1階と2階の客席は満員だった。いや、まさか本場ブロードウェイのCATSを韓国で見ることになるとは思わなかった。客がお金を払うから、公演が成立するのだ。街を見渡すと、景気は日本よりも良いことに疑いはない。

いま、韓国では、週末ともなると、家族連れで都市部の巨大デパートや巨大ショッピングセンターにクルマで乗り付け、駐車場にクルマを入れると、家族分の服をユニクロで買う。そして、家族でデパートのレストランで食事。食事の後は、屋上のおしゃれなカフェ(スタバとか)でのみものを飲んで帰宅する。毎週末である。そういう生活をする人がかなり多いのだ。貧富の差はあるが、働き盛りの人はそういう家族生活をしている。なお、韓国のスタバは世界一高い、ということで一時有名になった。

冒頭の話に戻ると、日本人として私が過ごした韓国というところは、「そこまでひどく言うかなぁ」と思うことが多い。強いて言えば、日本の社会と窮屈さはそんなに変わらないようにも思う。しかし、人間関係は非常にきつい社会であって、現代の日本人の多くは耐えられなくなることがあるだろうと思うし、私もそういう感じは持った。しかし、それでも韓国の人は韓国で生きていることを考えれば、それはあくまで「日本で生きてきた人が韓国を見た場合」の話であって、それ以外ではないのではないか?

この記事は日本人の「元駐韓大使」が書いた記事とされているから、大きな問題として韓国のマスコミでも取り上げられた。しかし、そこにはそこで生きている人がいるのだ。それは地域が違う以上、国の政府が違い、社会生活が違う、という、そういうものなのではないか?であれば、今回問題となっている記事はあくまで「日本人から見た韓国」以外のものではなかろう。

日本人にも詐欺師もいれば悪党もいるし、高潔な人もいれば卑しい人もいる。韓国にだって「韓国人」という一枚岩の人たちがいるのではなく、様々な人がいるのだ。そういう想像力が、やはり国をまたいだ話題の場合は必要なのではないか。たとえば、ニューギニアの奥地の原住民に「コンビニなくて生活がたいへんでしょう」とは言えないし、ロンドンで「食事が不味くて住んでいていやになるでしょう」とは言えないし、砂漠地帯に住む人に「水を運ぶのが大変だから、日本人はそこで暮らせない」と言ったところで「では、自分の国で生きていればいいんじゃないですか?」と言われるだけだろう、と思うからだ。

私たち日本人も、米国人に「天皇制なんて古い世界のものがあるなんて大変でしょう。やめたら?」なんて言われたら、「あなたの国とは違うんです」と言いたくなる人も多くいる。地域の違いとは文化の違いであり、社会の違いであり、それ以上のものでも、以下のものでもない。

人間は生まれてくるところを選べない。そこに適応して生きて行くしかない。それぞれが、それぞれに。そして、「国際化」というのは、そういう他の地域や国で生活する人への想像力をしっかりと持てるようにすることなんじゃないだろうか?

 


「知性」「教養」とはなにか

米国はトランプ大統領の登場で「知性と教養ごっこ」が終わった。世界的にそういう時期になったんだろう。

たしか、弥生時代くらい昔に「ゲーム脳」ってのが流行って、そして今はその同じ方が「スマホ脳」て言ってるらしいから笑っちゃうんだけれども、若年層や若者の「コミュニケーション機器依存」というのは、ぼくが若い頃もあって、ぼくはアマチュア無線にハマっていて、そのために高校の英語で赤点取った覚えがある。その後、まさか韓国の大学教授になって、英語でものを教えていたわけだから、学校の英語なんていかにあてにならないかがわかる。

まぁ、それはともかく、2000年を超えると、若者が深夜のコンビニにたむろしている、などというのが話題になったこともあった。芥川龍之介は「なにか面白いことはないか?というのは不吉な言葉だ」と喝破している。若者が群れ集う。それは昔からあることで、その群れ集った若者は、大人の世界を壊していくこともある。

若年層は社会の中での役目がまだ定まっていないため、社会における自分の生きる位置がはっきりしていない。そのため、社会的な弱者というカテゴリーに入る。常に「強くならなければ生きて行けない」という切実な願望も強く、さらに社会参加というものへの渇望もある。未成年者の喫煙や飲酒なども、大人の世界への参加の願望がそうさせる、と言う説も昔からあった。であるから、若者は常に自分たちだけの集団を作って自己防衛をする志向が強い。

若年層にこういったことが昔からあるのは、こういった原理が人間の作る社会に存在しているからだ。その若年層の切実さに身を置ける大人はいない。自分の若い頃を思い出しても、違う経験しかないから、それが理解できないのだ。

最近の若者の無知や無教養を嘆く話は多いが、それは「知性や教養」といったものが、既に社会を構成している要ではなく、「かつて知性や教養を標榜していた人」がいても、実は大人の社会が「人のつながり」という目に見えないものでつながっていることを、若者が見抜いているからに過ぎない。「知性や教養」でかつて使われていた用語を隠語として、社会の中での自分の属している集団内のつながりを確認する作業に大人は忙しい。その大人を見て若い人間は無意識に思っている:「なんだ、知性や教養なんて、所詮は仲間を確認するだけのためのものだったのか」と。そして続ける。「おれたちはどうしてくれるんだ」と。