私達はなぜネット情報に頼るのか?

私達は、ネット情報に頼ることが増えて来ているが、それでもまだ従来のマスコミなどのレガシーメディアに頼ることも多い。ネット情報のほうが、マスコミ情報より信頼に足る、という根拠は全く無いわけではなく、やはりあるからこそ、そう言う思考になる。そして「ネット情報に騙された」という人も増えていく。簡単に言えば、かつては情報伝達が地域を超えることがなかったので、噂話や、地域の行政のお知らせなどで様々なことを知り、情報交換の場に行き、情報交換をし、生きていくための情報を共有した。これが「旧旧世代」の「情報交換」であった。

それが世代が変わり、地域をより広域にした一斉の伝達手段であるマスコミが出現した。放送(Broadcast)は「旧世代」の伝達手段の主たるものになり、人々の情報共有がより広域になった。しかしながら、電波も届く範囲が限られており、送信所からの情報伝達範囲には限りがあったが、それを中継所などを使ってなんとか「国家」という広域のレベルにまでしてきたのはご存知の通りだ。これには多大な資本を必要とした。これが「旧世代」である。

現代は、(1)旧旧世代、そして(2)旧世代をさらに超えた次の(3)「新世代」の時代。「世界」を相手にできる情報伝達の時代になった。インターネットが出現したためだ。インターネットというインフラの出現により、国家という「国境ありきの存在」をいつでも越え、かつ低コストな情報伝達手段が台頭しているのが、現代という時代である。結果として「私のところはこんなにいいところですよ」と国家がアピールし、多くの「国民」に国家というショッピングモールに集まってもらわなければ、国家が成り立たない時代になった。国家は「国民(地域にいる人)」「土地」「主権」の3つが基本構成要素である。そのうち「人」が、土地と主権者を自由に選べる時代となった。

早い話、国家が破綻したり頼りがなくなったら、その国家を出るという選択ができるようになった。どこに出ていけばいいか、という情報を得られるようになったからだ。インターネットを扱える機器を経済的に貧しい人たち全員が使えないにしろ、かなり多くの人がスマートフォンやPCで国境を超えた情報を、やりとりができるようになった。その結果、国家を「捨てる」人も多くなる。それが「難民」である。いや、難民がなぜできたか?という、それは「一因」であろう。

私達が住むこの現代社会では、例えば子どもたちは家庭の中で夕食を食べながらスマホをいじり、家庭の外の世界と意思の疎通をしている。目の前にいる親とだけ話をしているわけではない。インターネットは「見える秩序」「見えやすい事象」を裏側から破壊しているように見えるが、そうではなく「見えない事象も含めたものが混ざってきたため、見えないところで行われているものの、人の行動に与える影響力が強くなってきた」のだ。そして旧社会に慣れた人にはその「目に見えない情報のやりとり」が見えず、その大切さも見えない。時代が変わり、大切になったのは「見えない情報伝達」である。それを「見える化」することは技術的に可能だが、それを多くの人が望んでいない。また、見えない情報の「見える化」にかかるコストを誰が負担するのか?という問題もある。

国家の3要素が「人」「土地」「主権」であるのだとしたら、インターネットは「人」「土地」の情報を地球上で全ての人が共有できるので、「主権」の存在感は減っていく。極端な話、主権をいくら持っている政府がいても、「人」がそこからいなくなれば、「主権」の意味はない。これが現代の「民主主義」の姿である。

私達はなぜ「ネット情報」を重要なものと見るのか?おそらく、こういった原理原則に立ち返れば、かつて当たり前だった原理や原則が新しいそれに置き換わっている、ということによるのではないか。私達はいま、その過渡期にいるのだ。

 

 

 


 

 

 

現代のITの姿

たとえば、一般に家庭でも使われている無線ルーターなどでも、その機器単独で動いているわけではないのは、このニュースを見ればわかるだろう。
https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1163527.html

このニュースを見ればわかるが「製品」は、ネット経由でどこかのサーバーに(それが日本にあるものであるとは限らない)接続され、動作確認をして本動作に入る。逆に言えば、この仕組みを通して、世界中のルーターを意図的に止めることだってできるかもしれないし、止めはしないが、そこを流れるデータが横取りされている可能性もあるし、悪意は誰にもなくても、通信先のサーバーがこのように事故で止まった場合は、その機器そのものが動かなくなる、ということもある。実際、先日のソフトバンクの大規模回線停止騒ぎは、それで起きた。

これが現代の「インターネット」であり「IT」である。相互に世界中が国境を超えてつながっている。このどこが切れても、トラブルになる。

ではインターネットに接続された、どこの機器(サーバーなど)にどういう情報が流れているのか?。実はそれはSniffer(プロトコル・アナライザー)という機器でけっこう簡単に調べることができる。あらゆる通信を、全部丸裸にして調べる機器、ソフトウエアである。現在、それは、無料で、誰でも手に入れることができる。

現代の社会はITで進歩した。お金もその中を通るし、重要な情報もその中を通る。だからこそ、サイバーセキュリティは重要になったのだ。



新年ではあるけれども

新年ではあるんだが、個人的に「喪中」なので、お祝いの言葉は控えているんだが、ここ20年以上の世界を見ると、やはり「時代の変わり」を感じるんだね。たとえば、SNSで「あけまして。。。」を言うじゃないですか。そうすると、それは誰が言っても、世間一般のけっこう多くの人が見るわけで、また、見られるわけでね。今年は特に自分が喪中であるんだが、そこにも「新年のお祝い」のメッセージは来ちゃうわけですよ。こちらとしては「コノヤロー」って思う人もいると思うんだね。ぼくは「まだ新しい仕組みと古い仕組みが齟齬をきたしているから、しょうがないかねぇ」と、思うだけなんだが。

SNSで年賀のお祝いを言うのと、個別に年賀はがきを出す、というのとは全く違うわけですね。自分の発した言葉が、誰が見ているとも限らず、わからない。だから、気軽にSNSで年始の挨拶をするのと、はがきでするのは違うってことなんだが、なかなか旧社会の感覚が抜けないから、ついついやっちゃうわけですね。

つまりさ、このところいろいろな問題が出てきているネット社会のことなんだが、こういう「旧社会のしくみ」と「新社会のしくみ」が、いま、火花をちらしているんだろうな、と思うわけですよ。そういう時代なんだね。

自動運転車が実用になったら、いや実際には実用化しそうだけれども、もう「運転手」という職業はなくなりはしないけれども、まぁ、絶滅危惧種になるわけですね。ガソリン車の常識もEVでは全く必要なくなるし、様変わりをするわけですね。フェラーリとかランボルギーニなんてのは「富の象徴」であるわけだが、これからの社会は「まだそんな骨董品使ってるの?」って言われるようになる。つまり、ウケるのは骨董品趣味の人たちの間だけだな。であれば、次の世代は移動手段はどうなるのか?ってのは、まだよくわかっていないし、一般化もしていない。でも確実に時代が変わることだけはわかる。

クルマも一例だが、宗教、政治、そういったところにも、旧社会と新社会のバトルが現在行われていて、旧社会がそれに勝利すると、その地域や人は世界から隔離された状況に置かれるんだね。ほら、昨年末に、文明を持った探検隊が、未だに外との交流を拒否している社会に入り込もうとして、殺されちゃった、って事件があったでしょ。そういうようになるんだよ。旧社会を守るとは、つまり、そういうことなんだな、というのが、わかりやすく見えるよね。だから、新社会が必ず勝利するわけじゃなく、旧社会もポツポツと社会全体の流れから置いて行かれる、というかたちで忘れられていくわけだね。それがいいことか、悪いことかは、誰もわからないんだけれども。



HUAWEIスマホの「おかしなもの」

最初に報じたのは、米国のメディアだったが、「HUAWEIのスマートフォンに、情報を横取りするかも知れないチップが発見された」という、報道があった。これは日本のテレビ局でも報道され、早速、日本にあるHUAWEIの日本法人がこれに対して反論し「法的措置を検討」と報じられている。現在、HUAWEIのスマートフォンは世界で成長しており、売れている。同社のプレスリリースでは、「二億台を突破」とあり、その世界での販売はAppleのiPhoneを超えることは確実、ということだ。また、カナダではHUAWEIのCFOが突然逮捕された(現在は釈放されている)、という報道もあり、世の中に衝撃を与えた。また、これらの動きを考え、日本のナショナル・キャリアとも言われつつ、HUAWEIの端末を非常に多く売っているNTTdocomoの澤田社長は「個人データを抜かれているならば、そういう端末は売らない方がいい」と、含みをもたせたコメントも発表している。

また、現在、ソフトバンク社が強力に推進している「NB(Narrow Band)-IoT」は、IoTの切り札の1つ、と言われている重要な位置を、経済産業省も進める「IoT」の分野で占めているが、これは現在のスマートフォンで使われている回線であるLTE網との相乗りの技術でスマートフォンの電波が届くところであれば、どこでも、安価に(同社は毎月の通信料金10円、という価格を打ち出している)IoTの端末をぶら下げることができる。この元の技術はHUAWEIのものがほとんどである。

現実の問題として、HUAWEIは中国の巨大企業で、スマートフォンのみならず、世界中の多くの携帯電話キャリアなどで、背後にある巨大な通信インフラ市場で大きな存在感を持った企業である。一般の人たちの目に見えている「スマートフォン」「タブレット」などでも、高品質、高性能、低価格、ということにおいて、他の世界企業にも引けをとらないものを供給している。ご存知のように、日本でも3大キャリアと呼ばれている企業には、背後のインフラの装置も、店頭で売っているスマートフォンやタブレットもあり、そのいずれでも、HUAWEIの製品は日本でも多くの人や企業が使っている。であれば、当然、技術に厳格な日本の上場した大企業の「セキュリティ検査」をすり抜けるようなことはできるはずもなく、すでに厳しい受け入れ検査を通っているからこそ、インフラに「採用」され、店頭で売っている、と想像できる。であれば「なにをいまさら」という感じもするのだが。

また、気になったのは、この「HUAWEIは危ない報道」だが「おかしなチップが入っている」という報道があった、ということだ。実際のところ、「おかしなチップ」という「ハードウエア」があれば、それは「見える」はずであって、検査では目視でもわかるはずだ(同様のニュースは台湾のPCサーバーのメーカーに対しても米国であり、第三者機関による調査が行われ「なにもない」という結論が出ている)。「おかしなもの」を意図的に入れるには、ハードウエアは非常に目につきやすいので、本当に「おかしなもの」を入れたかったのだとしたら、とんでもない「間抜け」という他はない。当然だが、そういうものはなかったから、日本のキャリア各社の検査に通ったのではないか?と推測できる。

以前、スマートフォン用の日本語入力ソフトウエア「Shimeji」が、入力情報をどこか他の国に送っていた、ということが大きな問題となったことがあった。この場合も、問題となったのはハードウエアではなくソフトウエアだ。そのほうが既にセキュリティ検査を通っているものに対して、後付けで、使用中に「スパイらしきもの」を入れることができるだけではなく、開発コストが低く、見つかりにくい。しかし、このときはShimejiで使われている、オープンソースのライブラリからの漏洩であって、さらにわかりにくかっただろう、というのは想像できる。しかも「情報が外部に出ますよ」ということが、アプリ起動時に表示され、それに多くの人が「OK」をしていた、というおまけまでついている。使用者が許可しているのだから、おおっぴらに情報漏えいしていた、というわけだ。これは防ぎようがなく、やはり使用者のITリテラシーの低さが問題になる「事件」だった。

通常こういった「スパイ的なもの」を、受け入れ側にわからないように入れる場合は、ハードウエアで入れることはまずありえない。「見えない」ようにする必要があるから、当然「ソフトウエアの一部」として入れる、ということが選ばれるだろう。そのほうが、隠匿性が高いだけでなく、開発コストもかからないからだ。そういう場合でも、通信そのものはするのがこの種のデバイスなので、プロトコルアナライザ(通信の中身を丸見えにする装置 – 開発のためにプロ向けに売っている)を使えば、「不正な通信」などは一発でわかってしまう。しかも、最近はこれらの「プロトコルアナライザ」は、PCで動く無料のソフトウエアとして誰でも手に入れることができるから、解析の結果なども、プロトコルアナライザを使えば、誰でも手にできる。

今回の報道を純粋に技術から見ると、いろいろおかしなところが見えてしまう。報道する側や、そのストーリーを作っているかも知れない人たちの「技術リテラシー」の低さだけが目につく報道となってしまったのは、残念でならない。それにしても、追試で検証可能なかたちでの早急・具体的な調査と、その結果の具体的な発表が待たれる。



HUAWEI事件。ITは政治になった。

11月23日、米国政府は中国HUAWEI製品の連邦政府での使用中止を宣言。これは今年9月から言っていたことだ。そして、12月5日、HUAWEIのCFOがカナダで逮捕。

HUAWEIといえば、私たち一般市民は日本でも安価で高性能なスマートフォンやタブレットのメーカーという感じがあるが、むしろ、そのスマートフォンやインターネットを裏側で支える膨大な通信機器のメーカーとして、IT関係者の間では知られている。

普通のITの関係の仕事でも、特にインフラ関係の仕事をしていない人はほとんど知らないが、スマートフォンという製品は、その裏側にある「電話局」の設備が命だ。そして、その膨大な機器への投資は半端ではない。規模も大きく、表で私達が見ている「アプリ」を支えるハードウエア、ソフトウエアがあってこそのスマホである。

「さようなら」王子さまは言った・・・
「さようなら」キツネが言った。

「じゃあ秘密を教えるよ。
 とてもかんたんなことだ。
 ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
いちばんたいせつなことは、目に見えない」
「いちばんたいせつなことは、目に見えない」
忘れないでいるために、王子さまは繰り返した。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、
 きみが、バラのために費やした時間だったんだ」
「ぼくが、バラのために費やした時間・・・」
忘れないでいるために、王子さまはくり返した。
「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」キツネは言った。
「でも、きみは忘れちゃいけない。
 きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。
 きみは、きみのバラに、責任がある・・・」
「ぼくは、ぼくのバラに、責任がある・・・」
忘れないでいるために、王子さまはくり返した。


【星の王子様 – サン・テグジュペリ より引用】

いつの世の中でもそうだが「見えないもの」がとても大切なのは、ITだって同じだ。そしてその「見えないもの」の世界最大のものをHUAWEIは作っている。米国のみならず、世界のITはHUAWEIを筆頭とした数社のIT企業に支えられている、と言って言い過ぎではない。誰を贔屓する、というのではなく、これは事実である。

そのHUAWEIを米国政府は攻撃したが、日本の政府もそれに追随した。12月7日、日本政府は政府調達からHUAWEIの通信機器を外す決定をした、」と発表。また、日本の放送などでは、「HUAWEIのスマートフォンから情報が抜き取られるらしい」という情報が流れているが、HUAWEIはこの報道に対し、裁判で争うこととし、その発表を行った。世界のIT関連通信機器の超巨大な市場を持つHUAWEIとしては「その情報はデマである」という確固たる自信を持っているのが伺える。実際、日本の携帯各社でも、製品の受け入れやインフラ構築のさい、その製品や機器について、事前に詳細な調査を行っているはずなので、いまさらの「HUAWEI名指し排除」は、違和感がある。その事前の調査が不完全であったとすると、私達はHUAWEIの機器の導入を決めた会社の技術力を疑うしかなくなってしまう。信頼を旨とする日本の巨大企業としては失格である、ということになってしまうからだ。また、HUAWEIのスマートフォンは日本の3大キャリアでも人気であり、HUAWEI製品のないキャリアはない。

既に10年前になるが、米国の国家安全保障局(NSA)では、米国内ではイスラエル製の通信機器は情報横取りの可能性があるので使わないように、という通達を行っていたことを思い出すが、今回はイスラエルについては言及されていない。

ここまでの事実を並べて見ると「ITというのは技術ではなく政治になった」と思う。ぼくのようなITのインフラ技術者・研究者から来た人間は、自分の仕事は政治とはあまり関係ない、という認識でいたわけだが、それがこのところ、一気に「政治色」が強くなってきた感じがある。まぁ、通信というものの性質上、将来はそうなるだろうな、とは思っていたわけですけれども。実際、今回の「中国」を相手にした話の前には、前述のように、IT業界内部では、イスラエルのIT企業で似たような疑惑が持ち上がっていたことがあったんだが、そちらは今回はまるで話の俎上に乗らない、というのも、非常に「政治的」なんだと思うのですね。

実際のところ、20年以上前だったら、LANの中をなにが通っているか?を調べる「Sniffer」と呼ばれる機器が数百万円で売っていて、これを使えばLANの中をなにが通っているかしっかり見えた。

今もSnifferはある。しかし、今は無料のソフトウエアをPCに入れるだけで、同じことができる。無料のソフトウエアでは「WireShark」などがそれに当たるが、その他、いくつも無料で使えるソフトウエアがある。これで調べれば、HUAWEI製品から情報が漏洩しているかどうかは、一発でわかるはずだ。

そして、このソフトを使えば、実際にHUAWEI製品だけではなく、あらゆるところで作ったIT機器の「秘密の通信」が全て筒抜けだ。一般にはあまり知られていないけれどもね。

これを調べれば、この裁判の行方も簡単に判断することができる。それがインターネットの「リアル」である。

ネットの世界は「政治」によって「情報」が行き交う。しかし「リアル」はあり、それは私達がすぐに手の届くところにある。ないのは、そういうものが目の前にある、という情報だけだ。そして、その「情報の取捨選択」こそが「政治」であり「見えない大切なもの」なのだ。



鎌倉散歩

長谷寺のライトアップ

鎌倉を歩くと、いろいろなものに出会う。

長谷寺の夜
長谷寺

寒いのだが、この季節の長谷寺の夜のライトアップは、あまり派手でなく、むしろ控えめで、それがまたいい感じがする。



不可視で巨大な「越境者」

現在、ほとんど全てのIT機器やインフラシステムは、ネットワークの接続機器であるハブなどに至るまでインターネットに接続されており、バグの修正などを目的としてインターネットを経由してソフトウエアの更新を行うシステムに移行している。IT機器の裏側では、他国の業者と接続され、見えないところで、他国のサポートを受けているのが「当たり前」になっている。これはスマートフォンのような私達が普段から手にする端末機器だけではなく、その裏側で動く膨大なインフラシステムもそうなっている。そのため、国境を超えたサポートができるだけでなく、国境を超えた悪意もまたやってくることもある。国境を超えた間違いやバグも来るのだ。今回のソフトバンクの障害は、要するにそういうことだった。エリクソンという海の向こうの国の会社の技術者の「間違い」が日本のインフラを止めたのだ。

だからといって、この国をまたいだ相互依存のサポートシステムや、そのサポートシステムの基盤であるインターネットを止めれば、当然、あちこちでソフトバンクの障害と同じことが起きるのだ。交通システムから電気・ガスのインフラまで、それが副次的な影響を受けて止まる、ということだって考えられる。「止められない」のだ。それが現代のITというものだ。

現代のITの技術者というのは、ITシステムを使う限りにおいて、知らないうちに国境を超えてサポートし、国境を超えたサポートを受けており、それはとりもなおさず、地球規模の巨大ネットワーク・インターネットがそれを支えている。国境でシステムが切れているわけではない。この「止められない巨大な越境者」は目に見えず、大きな影響を(特に良い影響を)私達の普段の生活に与えているのを忘れてはいけない。

ITにもお金にも、既に国境はなくなった。私達がそう望んだから、そうなったのだ。インターネットは、ブラウザで他国の情報を見聞きしたり、国際間でメールがやり取りできる、というのは僅かな「見える部分」にしか過ぎない。見えないところで膨大な国際システムが動いており、その上で私達はその恩恵を受けている、というだけだ。

 

 


 

 

「無敵の人」になりきれない

 

つい先日、JR横須賀線に乗っていて、集中して仕事がしたかったので、グリーン車に乗った。グリーン車なんて贅沢な、と思うなかれ。千円でお釣りが来る移動中の個人環境である。食べ物や飲み物は出ないが、ちょっとした仕事の空間として適当な感じがする。なによりも個人席でPCを出して使える。しかも、私はそんなにたくさんグリーン車を使っているわけではない。毎月1回、あるかないか?だ。

そして、PCを使っていたのだが、飲み帰りの老人が「キーボードの音がうるさいからやめてくれ」と言ってきた。こういうのは初めての経験だったので「すみません。音が出ないようにします」と言って、スマホの画面のキーボードに切り替えた。なにせクラウド上のファイルを書いているところだから、PCからだろうが、スマホからだろうが、なんとかなるのだ。とは言うものの、私の使っているPCはキーボードの音がガチャガチャするような機種ではなく、かなり静かなので、おかしいな、とも思ったのだが、私もときを経て人間が丸くなったのか、反発などせず、「すみません」とだけ言った。

すると、それを言った老人は、しばらくすると、私のその席の近くにある自分の席を立って、他のところに行ってしまった。老人の目は怖くて私が見ることはなかったが。

明らかに「IT機器を使いこなす」みたいなイメージのことに「腹が立って」いるのがわかった。それが感じられた。飲み帰りだったのだろう。顔が赤く、酒臭かったので、ここでヘタに答えると、刺されるかもしれない。最近の老人はキレると怖いらしい、と思って、理不尽ではあるとは思うものの、丁寧な言葉で返しておいたのだが、やっぱ怖かったなぁ。

まぁ、そういうご老人が最近は多くて、いや、自分もそろそろ「老人」と言われる年齢に片足突っ込んでいるとは思うのだが(←いや両足だよ、という声も聞こえないではないが、聞かなかったことにして)、困ったものだなぁ、と思った。自分より良い思いをしている、と思える人に異常な嫉妬心と攻撃を仕掛ける、「無敵の老人」が増えているのだ。ここは、危険を避け、「君子危うきに近寄らず」である。

とはいえ、私のこれまでの人生では「トッププレイヤーはいいが、そうではない人は置き去りなのか?」という疑問を投げかけられることが多かった。嫉妬もあるだろうし、嫉妬のベースとなっているものは、おそらく「自分は変化の速い世界に置いていかれる」という焦燥なのだろう。そして、今はさらにさらに、社会の動きのスピードは速くなっているのは間違いない。当然、落伍する人はさらに増えていく。親は考える。「子供を落伍させないためにはどうするか?」と。親も自分がそうならないためにはどうするか?と。老いてなお、世の中とのつながりを持つことは、その世の中のスピードにあったスピードで自分を変化させていくことだが、それは老いと同時にできなくなってくる。それは死期が迫っている、ということだ。世の中のスピードが速くなればなるほど、死期は間近に、すごいスピードで迫ってくる。キレて「無敵の人」がいてもおかしい世の中ではない。

暴走老人社会が、やがてやってくるのだろう。そして、それは止められない。

 


 

タブレットは生産性を下げる

このところ、満員電車によく乗るのだが、中でタブレットを使う人がいる。スマホを使う人はもちろん多いが、つり革にもつかまらず、立ったままスマホを使う「ワザ」があるのだ。これには驚いたが、見ていると器用なものだなぁ、と感心する。

それはともかく、タブレットを使っている人も多い。タブレットを使っていると、画面が大きいのはいいのだが、自分の場合は、すぐに使わなくなる。満員電車で出しにくいし、夜寝るときに使うと、重いので手が疲れる。図体が大きいので、電池も大きく、電池が持つのはありがたいのだが、タッチパッドの画面の面積も大きく、なにかとミスタッチも多い。いや、あくまで自分の場合は、なんだが。買ったときは良いように思うのだが、すぐに使う頻度が減る。どこかの時点で充電を忘れて放置、という感じだ。

やはり自分としてはキーボードがついているものでないと、長い文章が書きにくい、というのもあって、やはりタブレットからは遠ざかる。しかも、最近は画面の少々広くなったスマホもあって、タブレットの出番はますますなくなってきた。みんなタブレットって、どう使っているんだろうか?

 


「本を読む」が「知的」である、という感違い

最近良く言われることに「子供に本の読み聞かせが知育に良い」とか「ビジネスマンは本を読むと知的になって成果があがる」などの話がある。とは言うものの、最近書店に行ってみても「XXの営業のノウハウ」とか「XXマーケティングとは」みたいなビジネス書ばかりである(でなければ「一帯一路の罠」とか「韓国経済崩壊」みたいな本ばかりだ)。現代の出版にちっとも「知的」は雰囲気はない。直接お金につながらないことなどは、ほとんど「紙の本」として売れないので、お金にならず、出版社も「出版大不況」で食えないところがほとんどだから「売れる本」ばかりが書店に並び「紙の本ビジネス」の断末魔の叫びをそこここに見る、という、悲惨な状況だ。紙の本は売れていない。出版社も潰れたところや事業縮小したところも多い。

一方、通勤電車の中でも、お昼休みのレストランでも、スマホをやっていない人を見ることは稀になった。かつては新聞を広げて通勤するビジネスマンも多かったが、今はスマホである。間違いなく、時代が変わってきた。某有名な作家は「これから紙の本は出さない。電子出版だけにする」と宣言した。世の中が変わりつつあるのを感じる。

そこで「紙の本」で育った編集者などがネットメディアに移ることも多くなり、そこから紙メディアに援護射撃のつもりかもしれないが、書店に並んでいる本のランキングなどを出して、しぼみつつある「市場」になんとか活を入れようと必死だ。正直なところ、私もごく小さな鼻垂れ小僧の時代(そういや、最近はみそっぱ、とか鼻垂れ小僧、っていないんですけどね)から、紙のメディアに育てられた身であって、長じては自分の本を出すことができて、それが売れたから、それなりに祝杯を上げたこともあった。しかし、今はそういう時代ではなくなってきている。

「本を読む」ことだけが「知的」でもなくなった。活字に親しむことが「知的」でもない。私の子供の頃は日本も高度経済成長期で、各家庭には必ず「百科事典」がズラッと並んでいて「うちの子は勉強好きで。。。」などと専業主婦が我が子自慢の火花を銀座の風月堂の喫茶店あたりの井戸端会議で散らしていて、その火花のとばっちりで、出てきたコーヒーは冷めることはまずなかったわけだが(←少しおおげさ)、今や「本」を知的だと思っているのは、その時代に子供時代を過ごしたご老人だけになってしまった。

朝の通勤電車でスマホを開けば、新聞各紙のサイトまで行くこともなく、ネットニュースが溢れており、テレビも見る必要がない。ゲームをしたければゲームをすれば良いし、自分のしごと関係のニュースを知りたければ専門誌のWebを見れば十分事足りる。文学作品も「青空文庫」で、紙の出版に適さないようなマイナーな作家のものも読めるようになったし、出版事情は大きく変わった。音楽もアナログのレコードからCDに、CDからダウンロードに、ダウンロードからストリーミングに変わった。音楽はおそらくライブのみが価値のあるものとして残るんじゃないか、と私は思うのだが。

この大きな時代の変化で「本」も「電子書籍」が当たり前の世の中になりつつある。朝9時にWordのファイルで入稿した「本」は、その日の夕方には電子書店に並び、欠品や取り寄せもなく、その場でダウンロードして読めば良い。音楽と行く道が同じなのであれば、書籍もダウンロードから常時接続による「ストリーミング本」だって、一部で出てきているから、これが主流になる可能性もあるだろう。電子書籍では文字の大きさを自由にできるので、目が悪くなっても文字を大きくでき、レイアウトも変わるから、厳密なタイプセッテイングそのものが無意味になる。

時代は変わっている。変わる時代に抗するのはおそらく無駄である。なぜならば、新しいもののほうが速く、劇的にコストが安く、同じ効果が得られるからだ。かつてのアナログレコードが「特異な趣味」として生き残るのと同じように、紙の本も生き残るだろう。しかし、生き残るだけで、過去と同じようには戻らない。時計は動いていて、人間のちからではそれを止めることはできないからだ。