東京都内での無線LANの話

OLYMPUS DIGITAL CAMERA自宅には、NTT東日本のFLETS-SPOTを使っていて、プロバイダはNTT以外の業者を使っている。いろいろな事情があるからだが、さらに、携帯はauを使っている。auからの「インターネット回線と一緒だと安くなりますよ」というお誘いはひきもきらないが、auにはNTTのFLETSのような、「回線だけ」のプランがなく、プロバイダが選べない。そうなると、現在グローバルIPアドレスを振ってもらっているプロバイダが使えなくなる。自分にとって必要なのは、「安価に使えるグローバルIPアドレス」であって、「ネットが使えること」だけじゃないから、論外となってしまう。

それはともかく、都内の地下鉄やJR、私鉄の駅ではNTTのFLETS-SPOT(FLETS契約者であれば現在月額200円)やauのau Wi-Fi SPOT(auの携帯の回線契約がないと使えないがあれば無料)がどんどん使えるようになっていて、非常に便利になりつつある。特にFLETS SPOTは、スマートフォンやAndroidのウォークマンに入れた「接続ツール」が、電車が駅のホームに入るごとに、迅速にネットにつなげてくれる。あまりに快適なので、キャリアの回線なんか必要ない、という感じになりつつある。さらに、成田空港と羽田空港を結ぶ京成・京急・都営地下鉄を通る「アクセス特急」では、普通の特急電車なのに、電車内でau Wi-Fiがずーっとつながっている。これは超便利で驚いた。また、スカイライナーでも、Wi-Fiに加えて各席に電源コンセントがある。玉に瑕は、スカイライナーはほとんど40分くらいで成田空港と上野駅との行き来ができてしまうため、十分に充電できない、ということがあるが、まさか満充電できないのでこの列車を遅くしてくれ、とは言えない。

ともあれ、こんな風に東京の公衆無線LAN環境は有料とはいえ、充実してきている。この状況は、韓国のソウルのほうが先に実現されていて、既に5年ほど前だったら、ソウルの街中で無線LANが使えないところを探すほうが苦労するくらいになっていた。やっと、日本も韓国の無線LAN環境に追いついてきた感じだ。

しかし、問題も出てきた。au Wi-FiとFLETS-SPOTの両方が使える場所で、両方のツールをスマートフォンに入れていると、つながったはずなのに、切れて、またつながって、というのを繰り返すことがある。結果、永遠につながらない。なんとかしてほしいところ。

 

尖閣列島の鳩山発言の捉え方はこんなに違う

鳩山氏の尖閣列島関連の中国での話は、大陸中国でも話題となっているようだが、その発言の捉え方は、実は「中華圏」と「日本」ではかなり違っている。

参議院選挙前の日本では、ここぞとばかりに政争の具にするために、鳩山発言をあれこれと言ってるのだが、官房長官あたりが、鬼の首でも取ったように「政争の具」にせず、「鳩山氏の言うことは日本の政府の見解とは違う」という一言で、本来は終わりだ。それに鳩山氏の言うことをよく聞けば「相手(中国)の立場に立てば」と言ってるだけで、自分自身が「中国と同じ立場」だとは全然言ってないんだね。それに、首相経験者ではあっても、既に鳩山氏は「過去の人」であり「民間人」なのだから、彼が言ったことをそのまま受けとめる日本人は、まずいない。

実は、中国など中華圏ではそれが野党であるにしろ、与党であるにしろ「首相経験者」となると、「英雄」「社会のヒーロー」みたいに思う傾向がある。「偉い人」がまだ健在な社会なんですね。要するに首相をやめた人でも「偉い人」には変わりなく、その人の言うことには重みが出ている、と受け止められる。これは「人」が「組織」や「制度」によりも優位にあると考える「人・本位制」みたいなところがあるからでもある。たとえば、ニュース原稿でも、日本ならば「外務省の発表では」となるようなところを「外務省の報道官の誰々が言ったところでは」と、「人」が必ず出てくる。言ったのは「組織」ではなく「人」だ、と受け止める。だから鳩山氏のような「首相経験者」の言うことは、重く受け止められる(はずだ)、と、思ってしまう。

ところが「制度」「組織」が「人」に優先する日本の社会では、既に首相という立場を退いた鳩山氏は単なる「過去の人」であって、その人の発言は「民間人」「いち私人」の立場で行われたものだから、全然重くないし、影響力もない。首相という「組織の長」をやめた人は、「タダの人」であって、それ以外ではない、と受け止められる。日本は人が中心で動いている社会ではないから、人には「偉い人」と「偉くない人」がいて、偉い人には従うべきだ、という考え方そのものが、もともと「無い」。そういう社会なんだね。だから、現在はただの民間人である鳩山氏が言ったことは、日本の社会では全然、重要なこととは受け止められていないし、これがこれまでも普通だったし、これからもそうだろう。

そういうことを、中華圏の人たちは感覚としてわからないから、「鳩山氏の言うことは、云々。。。」となってしまう。既に首相でもなんでもないただの人の「鳩山氏」の言うことは、日本人はそんなに気にしていない。

レコードチャイナのこの記事はそういう中華文化圏の人たちの考え方が、いかに日本人と違うか、ということがよくわかる、面白い記事だ。尖閣云々の話そのものではなく、この「人の扱いの違い」は大変に面白い。

鳩山「失言」は作られた?

日本の鳩山元首相は、香港のテレビのインタビューで発言し「尖閣諸島に対し、『私の島だ』という気持ちは(日中)両方の国が持っていて当然だと思う」と述べ「日本が窃取した一切の地域を中国に返還する」とした1943年のカイロ宣言に尖閣諸島が含まれるとの立場を中国が取っていることに関しても「そういう解釈は中国側から見れば十分に成り立つ」と、中国政府の意見に理解を示した、という。早速、菅義偉官房長官に、そのインタビューがあった同じ日の午後の記者会見で「断じて許すことはできない」と噛み付かれ、それが報道されている。官房長官ともあろうものが、こういう直接的で感情的な対応をするのではなく「それは日本の政府の見解とは違う」と、冷静に切って捨てればよかったものを、あれこれと尾ひれを付けて感情的な物言いをしてしまった、というのは、まさに日本の国益を損ねた行為だった。

しかし、気をつけなければならないのは、「相手に理解を示す」ことと「自分の主張をする」ことは別問題、ということだ。自分と立場を違える人はそれとして認め、その上で自分の主張をする。これは当たり前の「人と人の冷静な議論」だろう。私の想像だが、おそらく、選挙前のこの時期に取りたかった「鬼の首」を、政府の「参謀」的な役割の人たちが外信で見つけ「これは揚げ足をとって選挙に使える」と判断し、即座に実行に移したものだろう。実に鮮やかで迅速なマスコミの使い方だ。そして、このやり方はどこかで見たことがある、という「既視感」を禁じ得ない。

吉田茂によると、日本人は昭和8年頃から「変調をきたした」と、表現されている。5.15事件あたりから、日本人は全体として視野が狭くなり、閉塞し、「感情的」に物事を考え、熱狂し、論理的にも冷静にも物事を考えられなくなった。その結果として、誰が見ても勝てるはずが全然無い戦争に突入し、結果として「大敗」「国土の荒廃」を招き、それは朝鮮戦争の「朝鮮特需」で日本経済の復活が始まるまで続いた。この十数年は日本が「おかしくなった時代」と言ってもいいだろう。昭和8年ごろといえば、5.15事件だけではなく、日本の国際連盟脱退など、世界的に見て明らかに自らに不利になる行動を、気が狂ったかのように日本が行い出した時期でもある。

現在「中国、韓国は日本の敵である」という言論は、非常に多いが、実際のところ現地でそれを感じることはほとんど無い。変な人は東京にもいるが、そういうのはときどき見る、というくらいはいるのは当たり前のことであり、ほとんどの韓国人、中国人は、日本人にも心優しい。日本の国内ばかりにいる人には、このことはわからないだろう。それくらい、日本は外国の情報に関して「自閉」した社会である、ということをまず覚えておいたほうがいい。これはアメリカを相手にしたときも、他の国を相手にした時も同じだ。マスコミも、ネット言論も、ほとんど外国を肌で知らない人たちの言論だと言ってもいい。

「自閉」し「感情的」になった日本の社会が当たり前だと思うと、見えるものも見えなくなる。冷静な判断が失われる。

鳩山氏の今回の話を報道で調べると、「中国の立場から見れば」という話はしているが「日本の立場」をないがしろにしているようには見えない。「日本人であれば、水も漏らさぬ強固な考えを持て」「だから異論は毛の筋ほども認めない」という考えは正しいかもしれない。しかし、表現において硬直したやりかたでは外交はできないだろう。外交は「戦争」に似ているが「戦争」ではないからだ。「あんたの立場はそうかもしれないが、こちらの立場はこうだ」と、鳩山氏は言っているだけだ。また、鳩山氏も含め(これは私も含めてだが)「尖閣列島は日本の領土」だと思っていることに変わりはない。おそらく、参議院選挙を前にして、この前半の「あんたの立場はこうかも知れないが」だけが取り上げられるように、官房長官やマスコミに仕向けた連中がいるのではないか?。そうだとしたら、プロパガンダの手口としては実に鮮やかなやり方であるだけでなく、タイミングも素晴らしい。

外国からの情報を遮断され、冷静な判断を失した「日本人」が「感情的」になったとき、あの70年以上前の「狂気の日本人」がふたたび、日本人自身の冷静な判断力と良心を殺しにかかる時代がやってくる。そんな生臭い匂いが、この報道から臭ってくる。

【追記】ロケットニュースでその映像が見つかったと報道された。その中で、鳩山氏は「お互いにこの尖閣・釣魚島(ちょうぎょとう)に対して “俺たちの島だ” という気持ちが両方の国が持っていて、ある意味で当然だと思っています。それは中国側から見れば盗んだという風に思われても仕方がない。ならばそれは返すべきだというのはカイロ宣言のなかに尖閣が入るだろうということは、そういう解釈は十分に、私は中国側から見れば当然成り立つ話だと。すなわち、まさに係争地であると」と、言っているという。「係争地である」は日本政府の見解とは違う。しかし、いずれの話にも「中国側から見れば」という一言が必ず入っている。これは「たとえば、相手の立場に立てば」という意味になる。とは言うものの、鳩山氏自身の立場は「相手の立場」とは同じではないのは当然のことだ。冷静になって見れば、当たり前のことだが、「相手の立場を理解する」と「相手の立場と同じになる(合意する)」を取り違えて、鳩山氏を攻撃する、というのは、まさに戦前のような「恐怖政治」の再来を思い起こさせる。日本はやはり危険なところにきているようだ、と思わざるを得ない。

富士山が世界遺産になったが

富士山が世界遺産になった。が、「自然」ではなく「文化」でなったというが、それもむべなるかな、と思う。というのは、富士山は昔から「信仰の対象」だったし、実際それ以上ではないから、というところがある。似たような山は世界各地にあり、自然の造形で富士山が特殊なものであるとは言い難いからだ。日本では古くから「富士山信仰」として「富士講」というのが特に有名だ。富士山がご神体の土着の宗教だ。

富士山への信仰は、すごく古い。仏教でもなければ神道でもなく、もちろんキリスト教でもゾロアスター教でも、ダース・ベイダー教でもない「富士講」という「新興宗教」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/食行身禄

これがその教祖様。日本各地に富士講の信仰対象の富士山のレプリカの山がある。これがまた、面白い。ほんの数メートルの高さの小山なんだけど、それを上ると、ほんものの富士山に登ったことになる、というありがた~い、「お富士山」。実は中学生、高校生の頃、自宅から自転車で30分くらいのところにも、それがあって、面白いので登ったり、降りたりして遊んでいて、ハマったことがあって、いろいろ調べたことがある。

富士塚の一種異様な雰囲気はこのページが参考になる。

http://yama-heiwa.moo.jp/sub%201%20mt-10-2-tonaino-yama–fuji.html#31

日本といえば神道か仏教、キリスト教もあるね、なんて言うのとは全く別の世界。大変に面白い。土着の信仰なので、「コレも神道じゃないの?」と言われることもないではないが、神道が戦前に国家神道となってからは、邪教扱いだった。江戸時代にも、「信仰をしないように」というお触れも出たくらいだったが、今でもこの信心をしている人はけっこういるようだ。

日本って、こういう不思議なものが、まだあるのです。形になってあるし、人の心の中にもある。文化遺産、というのも、頷ける気がする。

 

「ブラック企業」と「宗教」そして「国」

この人はいまどきこういうことに気がついたのか?とか思ってしまうが、こういう「宗教的企業」の話ってのは、かなり昔からあって、だからこそ、松下幸之助は「PHP研究所」なんてのを始めて、出版にも手を出した、ってことがある。PHPと言っても、Webでよく使われるプログラミング言語のことではないうえ、プログラミング言語のPHPよりも古くからあったんですね。

このPHP研究所のホームページの隅々まで読めば、松下幸之助の「宗教経営」がよくわかる。単純に言えば、ブラック企業と言われる企業の中で働く人は「お金以外のものに価値を見い出して働け」ということですね。経営者としては、そう「使われている人に信じこませる」ことにより「人件費の削減をはかり」、結果として企業の取り分を多くすることが目的です。ただ、それは表立って経営者が言ってはいけないことだった。言えるはずもないけれども。だから、こういった企業はみんな「宗教」になってしまう。もっとも、「宗教がなんで悪いんだ」という人もいる。

あの日本の高度経済成長の時代、日本の企業、特に製造業が求めていた工場労働者として「使われる人」の理想像は、今も変わらない。「安い賃金で」「一生懸命脇目も振らずに働く」人だ。その方法として、「宗教」が使われる。それが理想の経営だとされている。ところが、成長があるレベルを超え、一段落し、時代が高度経済成長から低成長に変わり、日本の人口も減ってきて、日本は人件費の高騰で世界の生産基地としての役割を終えた。それは中国などの新興国にとって代わった、という変化が訪れた。これは日本という国の製造業の「進化」であって、時代の必然だ。わかりやすく言えば「うまくいったからこうなった」のであって、嘆くことではない。嘆くのだったら、時代の変化についていけない経営者のアタマの悪さや会社の体制を嘆いたほうがいい。

今は日本人全体が、「お金」を持っている時代になったわけで、世界的に見れば日本は「投資家の国」にならなければならない。そうなると日本人としてのあるべき姿は「工場労働者」ではなく「経営者」「投資家」になる。あるいはそういう人たちについて、インテリジェントな仕事をこなす「参謀」が重要な役割を担う。工場労働などの単純労働は、ロボットにやらせるか、あるいは新興国で安い労働力がいくらでも使える。日本の労働者のメンタリティも、これまでの宗教ではなく、違うものに変わらないと、企業の存続も危うくなる時代がすぐそこに来ている。

あの松下幸之助のPHP的なものをそのまま現代に持ってきたような「ワタミ」は、製造業ではなくサービス業でこれまでの製造業と同じことをしている、というだけではなく、周辺の状況も「貧者のマスコミ」であるインターネットに囲まれている、という、遠くから見ればある意味面白い状況にある。

ただ、ユニクロだろうが松下幸之助だろうが、単なる企業人である。企業経営者であれば、企業のことを一日中考えるのは当たり前のことだ。会社の中をどのようにしようが、会社の成長にそれが寄与するのであれば、誰にも咎められることはない。ただ、日本の企業であれば日本の法律の範囲内で、ということが守られているかどうか、ということは大きな問題になる。あるいは「違法スレスレ」も大きな問題として取り上げられる可能性はあるし、そのリスクは経営者としては取るべきだろう。密告で営業停止になればお金やお金に通じる評判などの損失は大きいからだ。こういうものは即効性はないが、じわじわと効いてくる。

ワタミは「そういう企業」であったうえ、「学校経営」「政治」という日本の「国」の政策に関わろうとしている。ここが、ただの企業経営者とは違って「警戒される」ところだ。その企業にいられなくなった労働者にとっての最後の逃げ場は「退職」だ。しかし日本人はほとんどの場合「日本という国」から「退職」することはできない。ワタミの「企業宗教」を日本国民全体に強要することには大きな反発があることだろう。

企業経営として「ここにいられない人はやめてくれ」は言える。企業とはそういう集団であっても、存在を許される。しかし、国という単位になれば、「体が弱いから、日本国民をやめる」「ついていけないから日本国民をやめる」ことはできない。国はそういう「弱い人」も含めて、なんとかその人の人生を、できれば幸せに全うさせるための社会的な塊だからだ。そして今、そういう「弱い人」は日本では増えている。高齢者が増えているからだ。企業経営と国の「経営」が違うのは、ここだ。それを一緒くたに考えることは、やがて日本に多くの不幸をもたらし、ひいては日本の国の崩壊をももたらすことになるだろう。企業における「優生思想」は許されている。しかし「国」は企業ではない。

「おじいちゃんね、この前、転んで骨折して働けなくなって寝たきりなんだよ。よくしゃべるけど」
「じゃ、いますぐ死んでもらいましょう。役所に連絡すればすぐに処置してもらえるから」

「うちの娘だけど、生まれつき体が弱くて、今日も学校を休んだの」
「じゃ、日本以外の国に国籍を移しましょう。役所に連絡するとどこか紹介してくれるから」

こういう国の姿が、誰の支持も得られないのは、当たり前のことだ。世の中には「強い人」はそんなに多くないのだ。それでも国民の人生を考えなければならないのが「国」だ。

個人が裸で世界に放り出される時代

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実は、ハフィントン・ポストの日本のサイトにときどきコメントを入れているのだが、こちらの記事に以下のコメントを入れたら、辛辣すぎたらしく、コメントをはねられてしまった。

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「日本が」「日本が」って、それ、冷戦時代の「ウヨク」「サヨク」の考え方なんだよね。古いね。バカだね。国境なんてもう関係ないです。今は会社という組織でもなく、国という行政単位でもない、「個人」が世界に向かって裸で放り出されている時代なんですね。だから、「日本がすごい」「日本人がすごい」「僕も日本人だからぼくも当然すごい」とかいうのはもう通用しない。自分がすごくない人ほど、そういうものに頼るよね。でも頼れるものは会社でも国でもなく、自分しかいない。だから、組織に頼るあなたは全然すごくない。

今、世界はそういう時代になっていて、やがて日本人の「同胞幻想」も終焉を迎えている、という時代なんだと思うのですね。それが「格差社会」だから。こんな格差社会でまだ組織や国を信じる、ってことが本当はばかばかしいことだ、ということは、冷静に考えればわかることだよね。

でも、そんな「すごくない自分」を直視できないから、「なにかに頼っている自分」が美しい、とか思わざるを得ないんですね。そろそろ、目を覚ましたらどうか?

「こんなものができてしまったら….」で自分を変えろ – ScanSnap SV600 FI-SV600

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昨年の富士通の企業のプライベートな展示会で出ていた「書籍向け非破壊スキャナ – ScanSnap SV600 FI-SV600」が話題を呼んでいる。いよいよ7月に発売、ということで、予約も殺到しているとのことだ。ぼくはこれを昨年の展示会で見て、いろいろと試作品を前に質問したことを思い出した。

A3まで見開き3秒でスキャンして即電子化。価格は6万円台。製品を作る側から言えば、当たり前となった画像処理技術を、当たり前に製品化しただけのものだが、デジタルとしての出力までの精度やスピードを上げるのに、製品化まで時間がかかったのかも知れない。実にタイムリーで意味のある製品だ、と展示会のときは思ったものだ。いつ出るかと楽しみにしていた。

おそらくこの先、これが富士通だけのものではなく、中国メーカーなどがこれと似たようなものを、さらに安価に作って普及する、ということも考えられる。それは視野に入れておいたほうがいい。展示会のときにその作りを聞いたが、スキャナの動作などはハードウエアの中のファームウエアに依存していないから、このスキャナの本当に大切な「肝の部分」は、接続されたPCのソフトウエア部分となる。ここに使われている光学読み取りセンサも特殊なものではなく、特殊なのはその卓上スタンドみたいな「形状」だけだ。実は模倣はけっこう簡単にできるものだろう、と推測した。だからこそ、富士通も商品として出す時期をいつにするか狙っていた、とも言える。

こういう機器は出版業界にとっては「悪夢だ」という人もいる。が、私はそうは思わない。「無形の知財」を、「有形のメディア」の流通などで独占する、というやりかたのほうが時代にあっていないのだ。目の前の利益や利権ばかりを追ってきた業界にとっては、まさに「一大転換」を促進する「理由」ができた。旧態依然とした社会体制や利権構造をひっくり返すトリガーとなるものの出現は、新しいビジネスの創出のまたとない機会だ。いや、ビジネスとは「利権」ではなく、本来が時代の流れにあわせて人間やその組織のほうが変わっていく、というものだ。そのやりかたのほうが「本流」であって、ビジネスを変えないために社会の効率を落とすのは「傍流」「インチキ」である、と言ってもいい。日本の産業はそうやって衰退し、ガラパゴス化してきたのは、見ての通りだ。

知財とか著作物とはなにか?という根本的な問題を考えなければならないこの時代に、これまた旧態依然とした著作権法のままでいいのか?という難しいが当たり前な議論をほったらかしにしてきた「ツケ」がこうやってまわってくる。

「インターネットが普及を始めたとき、IP電話というものができますね。そうなったらどうします?国際電話が無料でできる時代が来ますよ」(当時はまだSkypeなどは無かった時代)と、言う質問に対して、日本の某巨大電話メーカーの役員はすぐに答えて「それは法律で規制しなければならない」と言った。が、米国のAT&Tの役員は、同じ質問に即座に答え「それは新しいビジネスチャンスだ」と言った。ビジネスとはそういうものだ。

時代の流れを感じ、時代の流れに乗った人や組織だけが生き残る。そのために必死にみんな働く。アタマを使う。これが正しいビジネスのあり方ではないだろうか?

「こんなものが出来たら困るのだ」はビジネスではない。人間の未来にも貢献しない。人間は環境の変化や時代の変化にアタマを使って真剣に考え、自分を変えて新しいものを作ったり、自分の姿を変えてきている。この程度のブレイクスルーをちゃんとした新しいビジネスにできない日本の出版業に携わる人たちの脳みそはサルと一緒である。

日本の出版業は「環境の変化」を感じ取り、自らを変えて「人間」になれるだろうか?それとも淘汰されるサルのまま消えてしまうだろうか?これからが楽しみだ。