「弱腰外交!」

ま、その、なんですな

ま、その、なんですな

政治・外交ってのは、考え方もまとまりも、「一枚岩」では全然意味がない。そして、そういうことはやりたくてもできない。

あるところでは喧嘩腰、あるところでは友好。しかも、それを主導しているのは「大統領」とか「首相」という「個人」ではなく、その裏側にある有象無象の官僚組織。だから、ある場面では手をにぎり、ある場面では戦争も辞さない、というようになる。「一枚岩」の態度になることは、まずない。

簡単に言えば「国」ってのはいまやいろいろな考え方とか方向性を持った人がたくさんの組織を使って動かしているものだから、「安倍首相が」とか言ってみたところで「国」がその方向に動かないものなんですね。

首相とか大統領なんてのは数多くいる利害関係者の調整役、というほうがあたっている。

つまり、現代に「ヒトラー」は出ようがない。同時に「ヒーロー」も出てこない。

人間ってのは、、自分の体の外側にあることを理解するために、どうしてもそれを単純化して考えがちだ。「日本」とか「日本人」という「くくり」になにか意味があるかといえば、実は「その地域に住んでいる人」以上の意味はない。

たとえば「中国」とか「中国人」というのも「1つ」だと思いたい。でも1地方だけでも数十の多民族がいる中国というのが「国家」であるためには、その内部でのきりのない調整が必要になる。その複雑さと広さと多様さは、そういう「単純化思考」の中で失われてしまう。あの狭い韓国だってその歴史を見ると、さまざまな民族が入り乱れてこれまでもさまざまな国家や利害がぶつかってきたところだ。いろいろな立場や考え方の人が増える。

結果として、「安倍首相のお考えはすごいです」と言ってみたところで、その通りに物事が動くかといえば、動くこともあるし、利害の調整に失敗してできないことも数多い。というか、できないことのほうが多いものだ。

ウヨクだろうがサヨクだろうが、それぞれの考えにあった夢をみんな見ているだけ。現実はこうやって複雑な利害調整の中で政治は動いていく。どちらかに極端に動くことを夢想する人たちは数多いが、意味は全くない。どうがんばっても、現実はそういうわけにはいかず、首相でさえ強権発動できるわけがない。自衛隊でさえ、そうだ。

もともと、政治ってのは少ない資源をその地域のみんなでどのように分け合うか、という仕組みだったわけだ。最初の政治や権力はその分配を司るから、権力が持てた。つまり資源分配の仕組みが政治だ。であれば、よくできた現在の国際政治というのは、こういう形にならざるをえない。

だから「弱腰外交だ」などと言って見たところで、強腰がいいかといえばそうでもなく「弱腰」も「強腰」も、時と場合によってうまく使い分けてこそ、物事はうまく動いていく。

今日送ったものが明日には太平洋を超えて地球の裏側に届く、というロジスティクスの劇的発達や、インターネットなどで安価・瞬時に国境をやすやすと超える情報。こんなことが当たり前になった「国際社会」では、単純なアタマで国や国家を語ることは、そのまま死を意味する、と言っても言い過ぎではない。

こういう世界の流れから置いてきぼりにされる人たちが、「国」に対して「なにか」についての強権を期待する。古い社会の中で苦しみあえいでいる。でも、その人たちはそこにいる限り、どこにも行けない。そして、本当の世界は見えない。そして、さらに貧しくなっていく。

だから、それがウヨクであろうがサヨクであろうが「安倍首相にお聞きしたい!」「安倍首相に物申す!」などというのが、いかに馬鹿げた言い方であるか、ということがわかるだろう。政治を変えるには、あなたがその利害関係者の一員となって、国という単位での他の人たちとの調整を行う立場になるしかない。

iPhoneで日本はまた「ガラパゴス」になる

Cluster Amalilis

Cluster Amalilis

ついこの前にiPhoneの新機種が1年ぶりに発売になった。私にして見れば、1年という長い期間を経たにもかかわらず、新しいところはほとんどなにもなく、800MHzのLTEが加わったとか、iOSのバージョンが7になって随分Look & Feelが変わったとか、根本的なところはあまりたいしたアップグレードではないので、昨年iPhone5を買った友人のほとんども、「今のままでいいや」という人も多い。

「日本では」iPhoneの記事ばかり。でも良く読むとどの記事も「新しいiPhoneすごいよ!」の記事なのに、中身は「iPhone5とあまり変わらないんだけどね」みたいな記事ばかりだ。それこそ記事でどこが変わったのかを教えてもらわないと、なにが変わったのかさえわからない、というと言い過ぎかも知れないが、だいたいそんな感じの記事ばかりだ。

世界の大きな流れを見ると、現在Androidのスマートフォンがだいたい8割を占め、iPhoneのiOSは後の2割の中に入っているにすぎない。加えて、各アナリストの予想でも、この比率はさらにAndroidに有利に働くだろう、という。Appleの株価も、「将来性の無さ」から、かなり売られた。少々戻してきた感じだが、かつての勢いはない。

例えば原発の問題1つとっても、外国での報道と日本での報道はかなり違う。日本の国内で日本のテレビと新聞を見ている限りにおいては、日本の情報しか入らないが、外国の報道や様子はかなりの危機感がある。

原発事故報道ほどではないにしても、このiPhoneの話題もネットの話題をさらったものの、やはり一時期で終わりそうな気配がある。Appleに期待されていた「革新的な」ものがこの1年、ほとんどなにもなかった、という事実があるからだ。

しかし、世界、特に中国13億の人口のパワーはすごい。いま、話題となっているスマートフォン専業の企業、中国のXiomiはたった2年で数百万台のスマートフォンを売って短いあいだに大企業の仲間入りをした。日本にもそろそろ入ってくるようだが、安価な上、性能は現在の最高のものを追求していて、使い勝手も見劣りするどころか素晴らしい出来となっている。それだけではなく、こういった「Android勢」が世界では非常に多くなっており、iPhoneのシェアをどんどん下げている。Appleにしてみたら、脅威以外の何者でもない。

そのため、Apple側になんらかの妥協があって、DoCoMoもiPhoneを扱う条件が整ってきた、というのが、DoCoMoがiPhoneを扱うことになった「状況の変化」だったのだろう、と想像できる。

日本ではなんだかiPhoneがまだ多いが、これも時間の問題ではないか、と囁かれている。別の言い方をすると、日本はiPhoneが売れれば売れるほどまた「ガラパゴス地獄」に落ちていく、ということも考えられないわけではない、ということだ。

このドッグイヤーと言われるITの世界でほぼ1年、イノベーションと技術で足踏みをしたAppleは日本とともにまたガラパゴスの仲間入りをするのかもしれない。

バスの中で「携帯止めてください」と言われた

Ice Creaaaaaaaaaaaaam!

Ice Creaaaaaaaaaaaaam!

今日、都バスに乗っていると、おじいさんに声をかけられた。

「ペースメーカーをつけているので、携帯をとめてください」

なるほど、ぼくはスマートフォンでメールをチェックしていた。

なんというか、「懐かしい」感じがした。

そういえば、、ペースメーカーに影響があるから、混んでいる電車の中では携帯電話は使わないように、というステッカーやアナウンスがあったし、今もどこかに残っているだろう。しかし、スマートフォンである。「はいはい」と、ぼくはスマートフォンの上にある電源スイッチをおして、画面を真っ暗にし、そのご老人がバスを降りるまでスマートフォンは使わなかった。

が、もちろん、ご存知のように、スマートフォンは電源を消すということはほとんどなく、ずっと電波を出しっぱなしだ。電源を切る、という動作も、電源を切るのではなく、あくまで画面を消しているだけだ。操作していないときでも、いつも電波を出しているが、これはなにもスマートフォンより前からあるガラケーでも一緒だ。加えて、バスや電車自身もいまや位置情報をセンターで把握するための装置がついており、これも電波を出している。そのほか、いろいろな機器が「電波」を出して動いている。それが今の「乗り物」だ。

だいぶ前、DoCoMoがやった実験でも、だいたい22cm以上携帯と電波の影響があると言われているペースメーカーなどの機器を離していれば問題はない、という研究結果がアナログの時代に出ている。今はデジタルなので、電波はアナログの時代よりも弱いはずだから、ほとんど影響は無いし、そのおじいさんはバスのシルバーシートにいて、ぼくはその向かい側の席に座っていた。混んでいたら、声さえかけられないような距離だ。

ご老人にこういう説明をしても、あまり意味がない。おそらくわからないだろうし。
そう思って、ぼくは画面を消した。しかし、電波は出ているのだ。

そういえば、最近は「ペースメーカーが。。」という電車の中のアナウンスを聞かなくなったように思う。実際、携帯とペースメーカーの干渉が起こした事故は全然聞いたこともない。少なくとも、そういうアナウンスを電車の中などでするようになったそのときに、そういう事故は聞いたこともない。

誰が考えたのだか、おそらく「ペースメーカー」は、電車の中で携帯電話を使わせないための口実でしかなかった、と、そういう疑いをぼくは持っている。「ペースメーカー」という理屈はもともとが根拠の無いバカバカしい理屈なので、おそらくそれで最近はなにも言わなくなったのではないかと思う。これからは音楽プレイヤーを聞いても、クラウドであれば電波は出っぱなしになる。

それにしても、みんながスマホの時代になりつつある。通話はしない。懐の中にそれを入れていれば、なにもしなくても電波を出す。メールなどは静かで、誰の迷惑にもならない。いくらなんでも、電波を出す機器はもう規制はしようと思ってもできない時代に入った。

むしろ、そのおじいさんに「携帯電話を使っていると電波が出て、それが自分のペースメーカーを狂わす」という罪作りな思い込みを作らせてしまったことのほうが、はるかに罪が重いのではないか。誰もこのことには責任をとらないのか?

そのおじいさんの心臓には、こういう根拠のまるで無い思い込みのほうが、よほど心臓に悪いのではないか?

公共の交通機関ともあろうものが、バカなことをしてくれたものである。

【この記事を再録】

「鉄ヲタ」の最期

昔から「筋金入りの鉄ヲタ」というのを、友人とか間近に見ることが多かったのだが、どうもぼくの趣味とは違うので、自分ではそうなれなかった。それこそ「ヲタ」という言葉そのものが無かった時代からだ。

そのぼくの目の前にいた「筋金入り」の人たちは、ほとんどその系統の仕事について、それで食っている。幸せな人生とはこういうものを言うのだ、と、尊敬ではないにしろ「ああ生きられたらきっと幸せなんだろうな」と、侮蔑とも羨望とも見えるような、そういう目で彼らを見ていた。

子供の頃から変わらないその姿は、やはり幼稚に見えることもあれば、いや、こういうのが本当に人生を生きるってことなのかな?と思ったりもした。バカにしているわけではないが、尊敬しているわけでもなく、ただただ、その人の人生の軸になるものを、子供の頃から持っていたがゆえに、白髪が混じる(あるいは白髪さえ少なくなる)年齢になってさえ、どこか大人になりきれない悲哀みたいなものを、あるいは大人になる必要のないその幸せの強さを、そこに感じたのだ。

そのため、そういう「(筋金入りの)鉄ヲタ」の人には、いまだに独身、という人もいるし、おそらく一般人とはかなり違う感性の女性にめぐりあって結婚した、という人もいる。世の中はさまざま、蓼食う虫も、と言いたくはなるが、本人の前ではじっとこらえている。ぼくも歳をとったものである。居酒屋でビールをかけられるような発言はやはりできない年齢になったのだ。

しかしながら、自分としてはどうしてそういう人間になりきれなかったのか、という思いもある。いくら奥が深く人間の歴史としてもたかだか300年程度のものでしかない「鉄道」の趣味というのは、逆に言えば300年の深みしか無い、とも言える。そんな程度のものにのめり込みたくない、という思いが自分のどこかにある。

また、子供の頃から鉄道が趣味という人にほぼ共通しているのが、「保守性」だ。政治の話はほとんどしないから、その系統の知識は鉄道に絡むものが多く、そこから時代背景を考える。でも、それはあくまで他人ごととしての興味であって、自分がその歴史の中でどう動くか、ということには、まるで向かない。結果として、日本の戦後の「(筋金入りの)鉄ヲタ」は、歴史に残るような人が誰もいない。歴史には興味が湧くものの、要するに、自分の命を張ったことができないから、歴史の傍観者ではあるが、それ以上には絶対になれないのだ。

考えて見ればわかるが、鉄道が趣味といっても、正式な鉄道員になればその仕事が好きであっても、あらゆる鉄道に乗る、ということはできなくなる。自分の職場をしっかりとまもらなければならなくなるし、仕事になれば好き勝手なことはできない。組織の歯車として、また鉄道というシステムの一部として人生の多くの時間を生きなければならない。だから「鉄道趣味」は、いつまでたっても、「外野」でしかありえず「傍観者」にとどまる他はない。「鉄道趣味が高じてプロになる」ことは、永遠にありえない。「鉄道の趣味」そのものを仕事にすることはできるが、それはあくまで傍観者の立場でしかない。「趣味の世界」から永遠に抜け出せない。

しかし、子供の頃から、ITとかソフトウエア、模型が趣味、映画を見る・作る、ということになると、その趣味が高じてプロになる道がある。模型であっても、モノを作るノウハウをためることができる。作ったものが世の中に認められれば、それが事業として大きくなることもある。子供の頃から、ぼくはそういう予感があって、面白そうだとは感じても、どうしても鉄道趣味には行けなかった。もっとはっきり言えば「鉄道趣味」には、それに一生をかけてのめり込んでも、得るものが少ないのではないか、と感じたのだ。子供のくせに計算高い自分ではあった。

しかも、高度成長期などという時代がいつまでも続くとも思えなかった。そうなったとき、なにをして食っていくのか?という思いもあった。趣味の人生を生きるということは、食い扶持を自分の好きなこと以外にする必要があるわけだから、いやなことでも耐えなければならない。その仕事に全身全霊を打ち込めないから、仕事がおろそかになる。そうなると、永遠に続くはずもない高度成長期が終わりリストラの時代になったら、すぐに趣味さえできない境遇になることも考えられる。また、どう考えても「生産的な趣味」でもない。いや、趣味だから生産的である必要はないのだが、誰のなんの役にも立たないことに、集中がなかなかできなかった。のめり込むなら、そういうことを考えたものにする必要がある、と子供ながらに思っていたのだ。

ということで、ぼくは「鉄ヲタ」になりきれず、またなる気もなく、近くにいたそういう友人をどちらかといば「将来のことを考えないアホ」みたいに下げずんでいた。というところもありながら、一方ですごくその「子供の無邪気さ」で、日本のインフレ利潤のおすそ分けを十分に謳歌しているその人生を羨ましく思ってもいた。

ひっくり返せば、「鉄ヲタ」はだから保守的にならざるを得ない。職場ではひたすら目立たないように給料をもらい、休日になれば趣味の時間をしっかり作って趣味に励むその自閉的とも見える姿は、羨ましくもあり、また、哀れにも見えた。

それでも、鉄ヲタは永遠である。その微笑ましい趣味を人生とする保守的な人生に対する姿勢が、彼らを長くこの世に生き延びさせるからだ。前線にいる敵の銃弾に晒される兵士の人生を拒否し、かっこ悪くはあるものの、ひたすら銃後のずっと手前で息を潜めて子供の頃の夢を見る、その人生が永遠でないはずはない。

自然とはなにか

A sound of water

A sound of water

あまりみんな話題にしていなくて、私も気が付かなかったのだが、米国の自然科学の専門誌「Nature」がこれまでにない厳しい口調で、日本政府の原発事故対策を批判している。「Nature」は一般の人にはあまり馴染みはないかもしれないが、科学全般に関して、世界で一番権威があり、かつ研究者に知られている雑誌として超・有名な雑誌だ。この雑誌に論文が載る、ということは「世界の研究者に認められた」ということに等しい。それだけ掲載される論文は精査が厳しく、一般記事もそれに準じている。

その雑誌で日本政府が批判されているというのは「ただごとではない」と考えていい。日本の中にいると、日本のマスコミが出す日本語の情報しか入ってこないからこういうことにはなかなか気が付かないと思うが、「Nature」の記事は大きなインパクトを世界の研究者や企業に与えていると言っていい。

覚えて置いてほしいのは、人間や人間のやることとは、しょせんが「自然の一部」にすぎない、ということだ。

人間は人間どうしで社会を作る。その社会が大きくなると、自然を自分たちでどうにでもできる、という「おごり」が自然と生まれる。世界は自分たちのものであり、誰の命令も受けないし、誰からも影響されずに、自分の好きなことができる、とついつい思ってしまう。また、組織が複雑化し、トップは現場を知らない、という状況も増えていく。

福島の原発事故だって、なんと緊急炉心冷却装置などは取り外されていたという。「こんなものなくても大丈夫」ということだったらしい。どう考えてもこれは「事故は起こるはずがない」「起こってほしくない」という「願望」であって、自然の法則とは無縁だ。

「人間(社会)の都合」が「自然の法則」に優先されてしまった。

原発事故はそのために起きた悲劇なんじゃないだろうか?

「1+1」はどうがんばっても「2」にしかならない。でも人間の願望は「3」にしたい。だから、「3」ということにしておこう。みんなそう考えるんだ。いいな!と、権力は言うのだが、それは「1+1=2」という自然に反しているから、結局はクライシスがやってくる。そして、人間系が強すぎる社会では、このクライシスに見舞われてさえ、まだ「1+1=3」と言い続け、社会はさらなる破綻に突き進む。しかも、それは「人間どうしの合意」の世界なので、誰も「人間より大きくて怖い自然」を忘れても、なんとも思わない。

我々は本当は破綻の崖っぷちにいる。「人間系」を大切にするあまり、私達をとりまく寄り大きな「自然系」を忘れ、人間より大きな力を持つ自然を見くびったために起こった悲劇を抱えたのだ。

「自然」というと、緑がどうした、太陽がどうした、ということを言うが、そういうものではない。冷厳な「法」が支配するのが「自然」である。その本質は「1+1=2」ということだ。これ以外の答えがなく、これ以外の答えは、どこかの国の主席だろうが、天皇だろうが、総理大臣だろうが曲げられない、ということだ。人間系をはるかに超え、全人類が束になってかかっても、「1+1=2」以外の答えは認められない。これが「自然」の本質だ。

人間の社会は、その自然の法則に逆らい、人間系などという小賢しいものを大事にすべきではない。人間を自然よりも優位に置いたとたん、ぼくらは殺される。人類の未来をなくす。風の渡る音に耳を澄ませ、自然に帰る、ということはつまりそういうことだ。それは私達のいのちに直接かかわっている。それが「自然に耳を澄ます」ということだ。

だから「科学者」は、現代の「司祭」として、自然系と人間系の橋渡しをする重要な役割を負う。人間の社会の存続を司る存在である。そういう自覚が必要だ。「Nature」の記事にはそういう「意味」が根底にあるのだ。科学者は自然の言葉を人間に翻訳し人間社会が自然に逆らうとまたたくまに自然の逆襲を受けて崩壊することを、人間の社会に警告する役割を背負っているのだ。

http://www.huffingtonpost.jp/2013/09/07/nuclear_error_nature_n_3884364.html

◆よろしければ、こちらの記事もどうぞ:
「科学者や研究者はなぜ頑固で扱いにくいのか」
http://report2.mita.minato.tokyo.jp/article.php/20110413074055765
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