日本に移民は必要か

 

Busan/KOREA

Busan/KOREA

内閣府の発表による日本の未来像は、外国からの移民を毎年20万人ずつ受け入れる、ということが中心となっている。日本の人口1億人を100年後も維持できるとすると、世界第3位の経済規模を維持、国際社会における日本の発言権も一定に保つことができる、ということのようだ。

ネットだけではなく、多くのところで議論が始まった。「日本は移民を受け入れても無駄である」とか、反対論が多い。みな、文化や習慣の違いを言うし、現在の日本の社会の構造を崩したくない、という思いが見て取れる。要するに「現状維持」しか、自分が生きていく方向を考えられない、ということを表現しているにしか過ぎない。あるいは、ほかの文化を受け入れる、なんて面倒なことはしたくない、という、世界的に見れば「怠惰」としか表現しようのない、後ろ向きの気持ちが透けて見える。

第二次大戦前後から戦後と言われる時代と、今が決定的に違うのは、人の流れ、物流、お金の流れ、情報の流れが非常に安いコストと非常に速いスピードで国境を超えることができるようになった、ということだ。この流れは「鎖国」以外の方法では止めることができないとしたら、鎖国では経済が成り立たない日本という地域にとって、この流れに乗って、これからの国の行く末を考える他はない。

世界的な大きさで見れば、よりお金が得られる地域に向かって人や情報、ものは移動していくので、日本が成長をマイナスにしはじめた時点で、それがどん底という経済ではなくとも、人は離れていかざるを得ない。成長しきった日本はこれから低成長とマイナス成長を経験するが、それを逆のベクトルを持つ「プラス成長」に変えていくためには、政府の構造から民間の会社の構造まで、あらゆる構造的な痛みを伴う大きな変化を短期間に行わざるを得ない。

しかしながら、この20年、日本は構造改革などの掛け声があれだけあったのに、結局は「現状維持」が選択され、結果としてなにも変わっていない。政府と日本の地域に住む人たちは「マイナス成長」「東洋の一小国としての日本」に向かって、社会の舵を自ら切っているのだから、そうなるのは当たり前と言うことだ。

移民についても、これまで議論が忌避されてきたところがあるが、それさえしなければならないほどの状況に、日本はなってきているのだ、ということでもある。私たちの目の前から、大型テレビが消えていき、豪華な家具が消えていき、大きなマンションが小さな場末のアパートに変わり、毎週末家族で行くファミレスもグレードを落とし、持っているクルマもなくなり、休日の暇つぶしには遠出はなくなり、近くの公園の散歩で済ませ、多くの人はいつも雇用の不安におびえ、若者は定職に就けずこれから先の賃金上昇もない。

これが今の日本の姿であり、現状、そして未来なのである。英語ができる、外国語ができる人材は日本から出ていかざるを得ないし、日本も「普通の国」にならざるを得ないだろう。

もっと日本以外の世界への目を広げ、今の日本人が置かれている状況を体で受け止め、そこからなにをするかを考える想像力を養うことからしか、日本の次の成長はないだろうし、このままではマイナス成長はこのまま続くだろう。そういう意味で「移民」の大量受け入れは、日本人にショックを与え、今という時間が明日には続かないことを直視させてくれることになるだろう、と、私は期待している。

 

PM2.5の空

2014年2月25日・馬山の空

2014年2月25日・馬山の空

こちらのサイトには、PM2.5の現在の値が出ている。みな中国大陸のほうから飛来したものだ。私がいまいる韓国・馬山は東京などよりさらにひどい。朝から青空が見えているはずなのに、全体にPM2.5を含むと思われる靄がかかり、いつもは見える馬山の湾の対岸の山が見えない。韓国はいろいろな意味で、中国の最大の被害者ではないかと思う。

テレビではオリンピックの終了、金妍児の活躍、朴大統領の発表、などなど、多くのニュースがあるが、その1つに。PM2.5飛来のニュースもある。

写真は、25日の午前中に韓国の昌原市、馬山の私がいる宿舎の屋上から撮影した湾の様子だ。日本の放射能ももちろん問題だが、韓国の海産物は大丈夫なのか?日本海の海産物は大丈夫なのか?ということも、大変に気になるところだ。

 

「あいさつおじさん」を問題にする人たち

 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

「あいさつおじさん」というのが、いる。朝から「おはようございます」というのを日記代わりに書く人はFacebookに多い。特に高年齢の人になるとその割合は増えるようだ。その人の一日にぼくが興味があるかといえば、まず、ない。「孫が生まれましたかわいいです」ああ、そうですか、てなもんであって、自分の親族であればともかく、そうでなければ他人ごとである以上の意味はない。目の前を通りすぎて行くだけだから、目の前の道路に自分とは関係のないクルマが行き交うような、そんな感じだ、と、今は思っている。自分でも以前はこの記事の筆者と同じように「うざいやっちゃな」とは思っていたが、最近は考え方を変えた。

世慣れしている「おじさん」だからこそ、読むほうが全然読んでなくて無視していても、別に構わない、と思って書いている、ということもおそらくあるだろう。書く方は自分の日記代わりなんじゃないかと思う。この筆者のように「SPAMと同じだ」というのであれば、別に無視しても構わない。今のFacebookには、特定の友達のタイムラインを表示させない、というオプションを設定できるのだから、朝の挨拶くらいしか見た事の無いような「友達」で、かつそれが自分にとって面白くもないと思えば、それを使えばいい。

現実の対人関係は、その人が目の前にいれば、どんなつまらないことを言われても、なんとか答えなければならない、という場面が多くなるが、Facebookでは誰が読んでいるかわからないし(あえて調べればわかることはわかるが)、書き込んだ向こう側の人が、自分の書いたことを読んでどう思うかも、「いいね!」さえ押されず、表明されないことも多い。PCの向こう側にいる人の意見は反対意見かも知れないし、それでもいい。

おそらく、この記事の筆者は「人がなにかを表現する」ということは「表現に対するレスポンスを必ず期待しているものだ」「だから表現する人には目的がある」「表現を受けたからには受けてこちらもなにかしなければならない」という思い込みがあるのだろう。人の関係というのは、そういう関係もあるのだが、そうでない関係もあるよな、というところには思い至らないのだろうと思う。

あくまでなんとなく、だけどそれは「命令されて行動する」人の感性であって、「自分で自分を律する」という生き方を知らないから、そうなるんじゃないかな?と、勝手に思ってみたりする。小さい頃から、「言われたことはする」というように育てられていて、精神的に自立していないから、自分の行動を促される「コトバ」である、命令とか指令ではない「コトバ」というものがこの世にはあるのだ、ということが、まだわかっていないから、こういう記事を書くのかもしれない。悪く言えば「奴隷根性がしみついている」ということじゃないか?。いや、あくまで「悪く言えば」だけれどね。

そういえば、ネットを見れば「鈴木なんとか馬のクソ」くらい存在する、匿名でねちねちと絡んでくる「俺を無視するな」系のコメント書きと、それは似てる感じも、根本的なところで、する。

あなたは他人の表現を無視していい。他人もあなたの表現を無視することだってある。かならず自分の周辺の全ての人とかかわらなければならないわけでもない。え?それが不安だって?寂しい?それは自立していない証拠だよ。

「道具としてのIT」が終わる

E3096219

ITというものが「道具」である時代は、そろそろ終わるのではないでしょうか?

音声入力にしても、キーボード入力にしても、あるいはタッチスクリーンにしても、「使いやすい」とは言うものの、どれも「訓練」「慣れ」を必要とする以上、健常者にとってもそれを使うには多少なりとも準備に負担が必要になります。ましてやこれからは日本をはじめとした先進国では「高齢化」の時代に突入し、2014年の現在でさえ、65歳以上の人口が全体の1/4となる時代です。訓練やスキルアップのための負担に耐えられない人が増えていくのです。

現在のIT機器は道具であるからこそ、それを使う人に訓練やスキルを求めます。たとえば、Facebookはそのアイコンをタッチしたとたん、Facebookを使う訓練をした人しか使えない世界になります。そして訓練で獲得したスキルでIT機器を扱うことができること、それを所有することが、これまでは「人としてなにか高級な感じ」がした。だから、人から良く見られたい、という願望のある人は、こういう機器を使いこなすことに一種の優越感とか達成感をも感じた。

いかしそういう時代は、そろそろ終わろうとしているのではないでしょうか?

外出のときも部屋でくつろいでるときも、電池で24時間動いていて、身に付いているデバイスが胸のポケットにある。しかもその機器だけでは能力不足の巨大な記憶容量や高度で複雑な仕組みは、24時間接続されているオンラインでクラウド上に置いておける。いま、そういう時代になったのに、私達はなぜその機器を苦労して「道具として」使おうとするのでしょうか?

ユーザーインターフェイスを根本から変える、新しい試みが必要な時代に、そして、その試みを達成できるハードウエアやネットワークの環境が揃った時代に、私達は本当は立っているのではないでしょうか?

「道具ではないIT」が、次の時代を作るのではないでしょうか?

 

9―3÷1/3+1=?

ある部品メーカーで、表題の問題を出したら、正答率が低かった、ということで「嘆かわしい」と、問題になっている

ぼくは思うのだが、この正答率が低かった、というのは、出題者が悪い

9 – 3 ÷ 1 / 3 + 1

という式は、レベルは低いながらも「意地悪な引っかっけ問題」であって、実用にはまるで役に立たない。むしろ有害だ。これは人の能力を見るための試験ではなくて、「いかに意地悪をかいくぐるか」という試験。こんなことばかりやっていては、日本をダメにするのは当たり前だ。そしてダメにする張本人はこういう問題の出題者その人だ。仕事で成果を上げるためには仕事に必要な勉強をしなければならない。しかし、こういう問題は受験者にとって「試験に合格するためにする試験の勉強」、出題者にとっては「合格者を減らすための出題」になっている。はっきり言って仕事とは関係がない。こんな試験そのものが、仕事ではなく、単なる陰湿な出題者のいじめだ。

ぼくらは小学校の低学年で分数を習うとき、

「1÷3」と「1/3」の結果は同じです、と習う。つまり、「1/3」は計算式として習うのが最初だ。後になって、「1/3」は「計算式」ではなくある数値の「表現」である、と習いなおす。つまりぼくらは、最初の計算式を、

9 – 3 ÷ 1 ÷ 3 + 1

と、読みなおして計算することを覚える。四則演算の規則では、

  1. 積・商を求める計算と和と差を求める計算が混在したときは積と商の計算が優先される。
  2. 積と商が重なった計算の場合は左側から計算する。

と言う規則を習う。つまり、この計算の答えは「9」となる。しかし、「1/3」が、1÷3という計算の結果ではなく、1/3と表現される「値」の表現であるとすると、この式は、本当はカッコを使って書き換えられなければならない。「値」は演算ではなく演算の前に「あるもの」だから、演算よりも優先されて値をもとめなければならない。これをあえて計算式に書き直すと、カッコを付けて誤解の無いように書く必要があるから、以下のように書き換え、計算して値を求めることことになる。つまり答えは「1」である。

9 – 3 ÷ (1 ÷ 3) + 1

仕事の現場で、こういう「意地悪」をすることは許されない。仕事の現場では仕事で係る人間にも様々な教育レベルがあることも考慮しなければならず、それでいて、その人の間の情報の受け渡しに誤解があったりしてはいけない。だから、最初の式のように、分数と整数を混ぜた式でわざわざ教育レベルが違う人間を混乱させるような「表現」は、本来はしてはいけない。

だから、正答率が低いのは、こういう仕事になにも役立たないような意地悪なことを出題して得々としているバカな出題者のせいである。本来であれば、ちゃんとカッコを使い、だれでもわかる表現で正答が求められる式をどうやったら書けるか、ということを教育することのほうがはるかに大切だ。仕事場で行われる試験は「仕事をスムーズに行うことに資する試験」でなければならないからだ。この冒頭の試験問題を出した出題者は「試験のための試験」にしか興味がないから、おそらく仕事なんてどうでもいい、と思っている人生の敗残者みたいな人なのだろう、と想像できる。

「なんのための試験か」が忘れられているいい例である。

なぜこういうことになるのか、というと、日本では暗黙のうちに「こう考えるのが正しいのだ」と理屈抜きに教える、というやり方が「勉強」だと思われてきたからだ。正解は先生の言う1つしかなく、生徒が自分の頭で考えて違う答えを出すと、ちゃんとした理屈も言わずに(実は先生自身がわかっていない)「こうだからこうなのだ」と言う。それを当たり前だと思って長い間日本人は「教育」されてきたからだ。自分の頭で考え、自分の正解を持つ、ということは「悪」とさえ考えられてきた。しかし、世の中は変わり、日本の中で外国人を見ない日はなく、外国に行くのも当たり前になった。いま、そんな時代には、日本の常識だけで物事を考えることが非常に危険な時代になった、と思って良い。もしもまだ、日本の常識はこうなのだから、それはそれで良いのだ、と思っているとしたら、それは日本人の死の前兆である。自分の頭で考える、ということは、それほど大事な時代になったのだ、と、私は思っている。

 

「PC選び」はビデオの編集がキー

最近はいろいろなところから、「PCを買い換えたいのだが」という相談が来る。もうすぐサポート終了となるWindowsXPからの買い替え、ということなんだが、必ずぼくが聞くのは「ビデオの編集します?」ということ。

というのは、CPU/GPUの性能で、Core-i3,i5,i7のものであれば、なんとかFull-HDのビデオ編集に耐えられるが、それ以下の性能のCPUだと、かなり辛い、という現実があるからだ。動かないということはないが、サクサクというわけにはいかない。なにがなんでもゲームで最高性能を求める、という人はだいたいぼくのところには聞いてこないので、こういう答えになる。

逆に言えば、Webとワープロと表計算、メール、ときどきYouTube閲覧、という程度であれば、最近はタブレットやキーボードつきのタブレットでもなんとかなるし、Core-i3以上のCPUのPCでは、逆にオーバースペックなんじゃないかと思うのだ。

そして、その後は画面の大きさとかキーボードの打ちやすさとか、そういう話になっていく。こういうものは外部からは目に見えないCPUなどとは違う外観の問題なので、買うその人がある程度判断できるから、ここは本人の判断に任せることになる。

最近のPC選びは、あれこれをPC系の雑誌がうるさいくらいたくさんの記事を書いているが、それを読むとかえって混乱する。まずはシンプルに「動画編集するかどうか?」を最初に聞くのが一番手っ取り早い。

 

「外交官」は普通の仕事になった

東洋経済オンラインに掲載された記事。外交官ってそんなに軽い職業になったのか?ってことが事実としてあちこちに出てきている。おそらく、表沙汰にならないことはもっとたくさんあるのだろう。

まさに、世界はグローバル化している。お金、情報、そして物流や人の流れ。すべての流通コストが劇的に引き下げられた結果、「国」の地位が下がり、多国籍企業の地位が相対的に上がる。そして、国境が溶けていく。

外交官という職業が天の上にある職業ではなく、少々他人よりも勉強した人がなる職業、という程度のものになった、というのは、その時代の変化を表に垣間見せる事象の1つでしかない。かつては外交官が「間違い」を犯したとしても、相手国での外交官の逮捕は完全に治外法権への侵害であるとみなされ、場合によったら戦争さえ辞さない、というくらいのものだったが、今は騒ぎはするものの、本国では逮捕された外交官のクビを切って終わりだ。外交官とはその程度のものになったのだ。

グローバルなカネがすべてを支配する世界が「国」という単位を蹂躙しているのが今である。とは言ってもこの新しい時代の「アナーキズム(無政府主義)」はより広域に広まっており、国を単位としたアナーキズムではないがゆえに、国際テロ組織の掃討よりもさらに厄介なことになっていて、誰もそれを倒そうとはしないばかりか、その存在に気がつかないだろう。

ぼくはインターネットの時代が始まる前後にそれにかかわってきたが、当然、こうなることは確信していたし、「これは世の中が変わって楽しいな」と、思っていた。単なる技術的な興味ではなく、ミクロな技術がマクロな世界を変えていく、という快感をそこに覚えた。多くの技術者はそういう興味の持ち方はしなかったようだが、ぼくはそれを明確に志向した。

いまや、個人にあまねく行き渡った「ワイヤレス・コミュニケーション」の時代。かつての「家庭」はいまやカタチだけが残り、子どもたちは夕食の食卓でスマホをいじってどこにいるとも知れない自分の気に入った連中と、目の前にいる親よりも濃密なコミュニケーションをとる。韓国から無料の電話で明日の東京でのアポを簡単にとれる。長時間のテレビ電話で会議が簡単にできる。

かつて25年前に関わった小さな技術が、外交官の簡単な逮捕につながっているのだ。そして、それ以上の変化を、これから世界は経験する。そんな予感がしている。いや、確信している。