ぼくらはなぜ「スマホ依存」になるのか?

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スマホ、やりすぎ。じゃ、なぜみんな中毒になるのか、ということを考えたほうがいい。それは「弱い人間ほど他人とのコミュニケーションを求める」からだ。ガラケーの時代も同じことを言われたのを覚えているだろう。

ぼくも高校生のとき、アマチュア無線にハマって、よく近くの同じようなアマチュア無線をしている人とつながっていて、それを楽しんでいた。あまりにハマりすぎて、高校2年のときに英語で赤点をとった。今となっては、それもいい思い出ではあるが。当時は無線機も自分で作ったりした。買ってきたのを使っていても、「自作」の楽しみがあった。アマチュア無線の友達は、社会人だったり、学生だったり多種多様で、高校生のぼくにはそれも新鮮な経験だった。

「それ」をぼくは、世の中に「ケータイ」が流行るはるか前に体験した。その体験があって、体験した自分を見つめた。これは今は名前がついていないが、他人との過剰なコミュニケーションを常に求める、ということだから「コミュニケーション・シンドローム」と命名しても良いだろう。

もともと、人は他人とのコミュニケーションを求め、他人との共感の中に自分の生きる場所を求める動物なのだが、特に社会的な立場として弱い人間(例えば学生)が過剰なコミュニケーションの中毒になりやすい。若い人が夜コンビニでたむろする、というのがそれだ。つまり弱い人間ほど他人とのコミュニケーションを求めるのだ。今はコンビニにたむろしなくてもスマホがある、というだけだ。大人になっても、社会的な存立基盤が脆弱で自立できない大人は、「異業種交流会」にハマる。若い時は社会経験も少なく、立場も弱い。だから友人とのコミュニケーションに頼って自分の力の少なさをカバーしようとする。だから、スマホ依存から脱却するには、若い人間に自分の力を信じて自分の足で立つことに自信が持てる場を提供することだ。それは小さなことでもいい。その場こそが「教育の場」だ。そうすれば、スマホの中毒、などという現象は自然となくなっていく。自分の人生の主人公は自分である、という当たり前のことを教える大人が今はとても少なくなった。自分の周辺にいる人間をいかに利用できるか、ということだけを考える、偏った人間観に大人もまた侵されているからだ。

そういう人間観を持った人間は精神的な自立ができない、未熟で危険な人間である。そういう人間はさらに社会で居場所をなくし、今よりもさらに弱い立場に追い込まれていく。そのため、さらに今以上のコミュニケーションを渇望するようになる。しかしそのコミュニケーションには自立できる実力という核がないから、しょせんはその人は弱い立場のままである。いや、自立のための実力を得る努力をする時間をスマホに取られているのだから、自立はいっそうできなくなる。

スマホ中毒は、こうやって拡大再生産される。昔から言うだろう。しょせんメダカは群れたがる、と。