SIMフリーで毎日スマートフォンを取り替えると、SIMフリーであることがファッションになるから、新しい生活も見えてくる、かもしれない。

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最近は「格安スマートフォン」「格安SIM」など「SIMフリー」は、「安い」に焦点が当てられて語られることが多いのだが、実はファッションとしてのスマートフォンを「着替える」のではなく、毎日毎時間でも「取り替える」ということができるようになるから、スマートフォンの楽しみを増やす、ってこともとても大きいと思うのですよ。

ぼくは2013年からSIMフリーのスマートフォンにしている。理由は日本と外国を行ったり来たりする仕事が多かったので、日本では日本のSIMを使い、外国ではその国のSIMを使う、という使い方が普通だったからなんだよね。でも、昨年3月に東京にずっといるようになってからは、ずっと日本のSIMを使い続けることになるわけだ。しかし、今や秋葉原にはファストファッションみたいに、安価な様々なSIMフリーのスマートフォンが並ぶようになって、ぼくもいま使っているスマートフォンは5台、タブレットは2台ある。これを毎日、いや、毎時間でも、とっかえひっかえ、そのシチュエーションに応じてSIMカードを入れ替えて交換しまくっている。

「あれ、三田さん、それ、昨日のスマートフォンと違うじゃないですか。新しいのにしたんだ。いいなぁ」って言われることもあるんだけど、実は幾つものスマートフォンをもっていて、SIMカードを入れ替えて使っているだけなんだな。いまや、電話帳とかの共通データはクラウドに入れておくのが当たり前になったし、SIMカードを他のスマートフォンに入れ替えるだけで、その日の用途や気分で「変身」できちゃうわけですね。これ、まだ、このBLOGを書いてる現時点では、ネット上でも言ってる人は少ないんだけれども、持ち物の外見を気にする若い女性にも、とても受けるSIMフリーの機能なんだと思うのですね。

ぼくの場合は、普段の普通の仕事では、基本は5インチ画面の黒いスマートフォンにしているんだよ。台湾なんかの中華圏からのお客様が来ると、金色の5インチ画面のスマートフォンにする。中華圏の人たちはその人の持ち物で人を判断する、というところがあるから、できるだけ目立ったキンキラキンのスマートフォンをもっていると、受けがいいんだね。で、休日には画面の小さな、従って大きさが小さくて重さも軽いスマートフォンをポケットにぽんと入れて持って遊びに出る。仕事でプレゼンが多い、ってときには、SIMをタブレットに入れ替えて、タブレットを持ち出す。それでも機能不足でPCを持ちださなければいけないときは、PCと一緒にモバイルルータにSIMを入れ替えて持っていくか、スマートフォンのテザリングを使う。

冒頭にも書いたように「SIMフリー」というと「格安」にばかり目が行くけれども、実際にはこういった「ファッション」というか、「見栄え」「用途」でも、いろいろ使い分けができる、ってところも、実は大きなスマートフォンの使い方のトレンドになるんじゃないか、と、ぼくは見てるのですね。今は「安い」ばかりに目が行ってるけれどもね。


OSは「最先端のおもちゃ」という時代はとっくに過ぎてて「ちゃんと裏側で必要な仕事してくれればいいんだよ、っていう「裏方」の存在になったんだよね。

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Windows10までのピンバッジ入のWindows10パッケージが出たそうだ。こういうもの作られても、WindowsというOSに思い入れがあるわけじゃない。じゃ、他のOSに思い入れがあるのかといえば、そうでもない。だいたい、OSなんてのはぼくにとって道具だからね。インフラの1つとして、ちゃんと動いていればいいのですよ。思い入れがあるとかないとかじゃなくて、ね。Windows10の最大の問題は「インフラとしてちゃんと動かない」ってことだね。ぼくにとってはね。

ドライバの不備とかで今まで使えていたデバイスが動かない、とか、そういう問題。Windowsだろうがなんだろうが、OSとかコンピュータは仕事で使う道具。だから、思った通りにちゃんと動いていればいいのであって、趣味で時代とともに変えていく、なんて気はさらさらない。最先端のもの(新しいもの)が無料ですから、使ってください、って言われても、そんなことはどうでもいい。目の前の業務が時間通りにトラブルなくちゃんと終わればいい。そういうものだよ。

Windowsに限らず、米国のIT企業は、新しいもののリリース時のプレスリリースに「Leading Edge(最先端)」なんかの「煽り言葉」を今でもよく使うんですよ。時代錯誤だねぇ。かつてPCを使う「アーリーユーザー」が、開拓者のように(子供の遊びみたいに)新しいければ、最先端と言われれば、一も二もなく食いついた、って時代の名残だよね。でも、いまそれが「新しいから、素晴らしいらしいから、新しいものを使おう」って人はほとんどいなくなった。ITそのものは当たり前であって、人よりも先にすごい体験をしてドヤ顔をするとか、ってものでもなくなった。いや、そういう時代はあったけど、今はもうそういう時代は通りすぎて、ITはインフラとして当たり前のものになった。

特にOSなんていうドがつくくらいインフラでいいものはね。それが便利だから使う。便利なものが使えないという噂を聞けば使わない。それだけのこと。それが今という時代のPCのユーザー像であって、ことさら「新しい」ものはOSに求めていないんですよ。OSの役目は「確実に動く」ってことだけで、それ以外じゃない。

当然だが、今でもIT業界の「成功者」は、業界のあちこちで活躍しているだろう。ぼくもそうじゃないの、って言われればそうかもしれない。自分じゃそれほどじゃなかったと思うけどさ。毎日の朝のゴミ出しは自分でやらなきゃならんしね。だから、その時代のマーケッターとかが業界に居残って大きな顔してるんだろうね。違うんですよ。時代は変わったの。昔話はどうでもいいの。今の時代はITがインフラとして動く時代。例えて言えば、すげぇハイテクを使っていたとしても、あって当たり前、自動車のエンジンみたいなもんですよ。作っている側はすごい人をたくさん高給で雇って作るすごいハイテクなのに、使うほうは当たり前と思って使う。動いて当たり前。動かないときだけ文句言われて大ブーイングの嵐になって、どこでもDisられる。そういうものをインフラというわけですね。

だからさ、OSが新しいものになれば、物好きがすぐに飛びついた、っていう時代じゃないわけですよ。でも、作る側は旧態依然の感覚が抜けないのね。それ、成功体験だからね。だから、こういう「ユーザーの思い入れ」に期待する、バッジのコレクションみたいなもの作って売れると思うんでしょうね。売れないよ。これじゃ。

 


「すべての人」にプログラミング教育をすべきかどうか、って言うとそうじゃないと思うんだよね。「好き嫌い」もあれば「向き不向き」ってのもあって、要するに人間には「個性」ってものがあるわけだからね。

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最近は、オバマ大統領の「プログラミング教育必須」みたいな発言に、IT教育業界の人が色めき立って、コンピュータプログラムへの公教育への導入の話がどこでもされている。ネット上でも、「コンピュータ」「プログラミング」「教育」というキーワードで引くと、それはもう、たくさんのネット上の記事がヒットする。言い換えれば「盛り上がっている」と言っていいんじゃないかと思う。

ぼくは1980年代の終わりごろから、請われてプログラミングの教育をいっぱいしてきた。おそらく、その当時の他の同業の人の何倍もやったんじゃないかと思う。でも、そこで得た「大事なこと」ってのは、実にシンプルで当たり前のことだった。つまり、プログラミングの教育、といっても、通常の公教育の科目である「算数」とか「社会」「英語」とかにも「向き不向き」があるように、プログラミングにも「向き不向き」があるんだな、だから、不向きな人にいくらプログラミングの教育をしても、全然身につかない、ってこと。当たり前なことなんだが、要するにそういう当たり前のことを目の前にしたんだね。これは、他の教科がそうであるように、まぁ、時代を超えてそういうことってあることなんだな、ということね。

たとえば、ある「生徒」は、自分のプログラムの悪いところを指摘されると、「あ、こりゃいかん」って、全部消して、全く新たにプログラムを作ろうとするのね。いや、あなたのプログラムはここだけ直せばOKだから、って言っても、「いや、最初からやります」って言ってさっさと自分のプログラムを消して、一から書きなおそうとするわけ。これね、その人の「性格」で、「潔癖」なところがどうしても出てる、ってところなんだよ。悪い性格じゃない。他のことでは「良い性格」って言われるところかもしれない。でも仕事で、制約のある時間の中で、なんとかして動くプログラムを書かなきゃいけない、という場面って当然多いわけだが、そんなところで小さなバグ1つのために、いちいち最初から全部のプログラムを書き直す、なんてのは、そりゃ、あなた、永遠に完成なんかしないわけですよ。仕事にならないよ。でも、その人の性格が悪いってわけじゃない。「向いてない」ってことなんだな。これは「個性」だね。その人の「個性」。その個性にはその個性にあった仕事とか生きる道、ってのがあるんだよ。だから、それを否定するんじゃなくて、肯定して「この仕事はあなたには向いていない」ってことを、その人が自覚する必要があって、むしろそういう性格が向いている他のことで生きていく道を探すのがいいと思うのですよ。人間って、それくらい、みんな違うの。これだけじゃないけど、ぼくが教えた大勢の人の中にはそういう人もいて、そういう性格を変えようとしても変えられなくて、そういう性格を変えてプログラミングできるようにしなさい、とも言い難くて、まぁ、しょうがないわな、それは君の性格だからな、だから、あなたの人生の時間を無駄にしないように、違うことをしたほうがいいよ、って言うのが、ぼくができる精一杯のことだった。で、いろいろ教えてきてわかったのは、こういう「個性」もさまざまで、それを一律になんとかしようとしても無理、ってことなんだな。

今の日本の「公教育でプログラミングを教える」に限らないんだけど、人間一人ひとりには、それぞれの個性があって、それぞれに違っていて、だからそれぞれに向き不向きがあるんだよ、そういう一人ひとりがいかに社会を作って、みんなが気持ちよく生きていくか、ということを、やっぱり真剣に考えるべきだし、それをするのが「近代国家の条件」だと思うんだよね。なんのかんの言っても、また、マイナス成長とはいえ、世界の10本の指に入るGDPを持つ「先進国」である日本は、そういう「人の個性」ってのをちゃんとわかったうえで、社会を作ることがいいと思うのね。無理な人に強制するんじゃなく、無理なら無理でその人の個性で生きる他の場所がある、ってのが、本当の「豊かさ」じゃないか、とぼくは思うんだな。

思うに、日本の教育ってのは、ひとり残らず工場の工員を作ろうとしている、って感じがある。いや、私の「感じ」だけですけどね。だから、人間を機械のように個性の無いもの、っていう前提があって、その無個性な機械になにか都合の良い機能をつけていく(=教育していく)という、それが教育だと思ってるところがあるんだろうね。でも、工場の工員は「ロボット」という本物の機械になっちゃうし、事務も経営もコンピュータがやっちゃう、という世の中になるよ、って言われているわけでさ、じゃ、どういう人間を作っていけばいいの?ってところに、戸惑っていて、なにもできてない、ってのが本当のところなんだろうね。「これまでやってきたことと違う。どうしよう?」ってね。

で、プログラミングの教育、というのもあるんだけど、それも向き不向きってあるんだよ。「算数」とか「英語」でもそうだしね。ぼくは中学校では「数学」「国語」「社会」は良かったけど、「英語」はだめだった。高校生のときなんかアマチュア無線に夢中で、英語は赤点とったこともある。いや、さすがにそのときは青くなったけどね。だから英語で人を教える仕事をすることになるなんて(昨年と一昨年、ぼくは韓国の大学でコンピュータ学科の教授をやっていたんだよね)、全くもって自分でも意外だったし、ま、そういうこともあるんだよね。「不向き」でも、なにかのきっかけや必然でやることになっちゃう、ってこともあるわけでさ、人間ってのはわからないもんだなぁ、ってことなんだわ。

今でも「ぼくは学校のときは数学とか算数はまるでダメでして」って言う人、いるよね。普通に何十年も歴史がある公教育でさえそうなんだから、プログラミングの教育なんてのも、そういう個性を考えて、一律にしないで、まずはSPIの簡易版みたいな適正検査からやって、その生徒に「自分は向いているか向いていないか」という自覚をさせるところから、こういう教育は始めるべきだと思うんだな。で、向いていないに人は無理して成績あげよう、なんてしないで、「できない」ことに卑屈にならずに「どういうもんか一度は触ってみてね」で終わってもいいと思うんだよ。

教育は特にそうだけど、教える側は「優等生」のことばかり考えている。でも、本当に大切なのはそこから落ちこぼれる人も絶対にいて、ほとんどの大多数は「教えてもらったからといって身につくわけでもなく、好きになるわけでもない」ってことだね。つまり、落ちこぼれの人のほうが多いわけ。つまり、そういうマイナスの面が出ちゃった人に、卑屈にならずに、そういう個性を自覚しつつ、楽しい人生を送ってもらう、ってことはけっこう重要なことなんじゃないの、ってことね。日本の教育にはそういう「落ちこぼれた人」は「自己責任」とか言っちゃってその人から生きる自信を奪う、ってことをしちゃう、って面があると思うんだよね。でもさ、誰でも「向き不向き」ってあるんだよ。体育をやる、ったって、全員をスポーツ選手にするわけじゃないんだからさ、プログラミングも、まずは「向き不向きの自覚」っていう、そういうところから入っていくと、それが国民の本当の幸せにつながると思うんだよね。ぼくはね。

 


 

IoTもクラウドもこういう「バズワード」で踊ってる割には、なんだかやっぱ虚しいところがあるよね?なんでだろう?

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最近のIT関係の「バズワード」はまさに「バズワード」で、全然キーワードって感じがしないんだよ。ぼくはね。なんでかというと、その「ワード」が世界を変えるほどのインパクトが全然なくってさ、結局なにも変わらないのね。たとえば「クラウド」と一言で言うけれども、いろいろな種類があって、でも結局はインターネットにつながっている各種アプリケーションサーバーとかデータベース・サーバーがマシン仮想化しているだけだよ、って言う感じがあって、「クラウド」の必然性がないんだよね。それ、スタンドアロンのサーバーとどう違うの?そろそろ出てきたARMをCPUとしたサーバーのほうが、結局安くない?って感じなんだな。昔から、デバイスのコントロールやセンシングを遠隔地とやりとりするときに、そのデータはちゃんと蓄積していたわけで、それを統計処理もしていたわけで、ビッグデータといい、クラウドといい、もうやってることだよなぁ、どこが新しいの?って感じがするのね。いや、こういうソフトウエアが新しいんです、って見せてくれればいいんだけど、それ見ても「それ、前にやったよなぁ」って感じがどうしてもするのね。機能的に同じだし、仕組み的に新しいもの、ってまず見てない。

じゃ、最近の「IoT」ってなにが新しいのかといえば、昔と完全に違うのはその仕組を構成するハードウエアの価格が格段に安くなったとか、通信回線がインターネット経由になって、これもかなり安くなった、ってことだね。これは実は大きな変化で、低いコストで高い成果が得られるようになって、IoTは大企業でやっていたものから、中小企業や個人ができるようになったんだね。この変化が一番大きい、と、個人的には思うのですよ。

それから、ここが重要なんだが「IoT」の本当の新しさというのは、エンジニアリングの問題じゃないのですよ。今のIoTってのは「IT業界とそうでない業界の橋渡し」なんだな。そういう動きを具体化したものが、現代における「IoT」であって、技術要素が特に新しいわけではないんですよ。これまでIT化されていないさまざまなものが、コンピュータと結合され、そのコンピュータどうしが通信を行い、IoTになる。ときにはセンシングされたデータや遠隔オペレーションの記録の統計処理も行い、ビッグデータって名前のデータになったりする。そうすることによって、産業全体の活性化をはかりましょう、って感じかね。いや、でも、いままでやってるよなぁ。新しくないなぁ、という感じで。

だから、IoTにはクラウドで統計処理しようがなにをしようが、あまり新しさはなくて当然なんだね。技術要素は今までと同じものの蒸し返しだからね。結局、「IoTってなにに使うのさ?」ってことで、それが儲かるものじゃないと将来にわたってこのシステムは生きて行けませんよ、なんてことが始まるわけでね。