「発達障害」は個性を抹殺するためのキーワードとして使われている。

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「発達障害」は昔は「個性」と言われていた。しかし、その当時は、いわゆる「学校の学習についていけない人」にも、仕事があった。世界的に景気が良かったのだ。そういう人でも必要とされていた。しかし、これからの世の中はそうではない、と思われている。周囲の環境も変わったのだ。しかし、これからも「発達障害」はどんどん増えていくことだろう。

しかし、自分が発達障害であった、と診断された場合は、それを自分の「個性」と考える必要があるし、実際「個性」なのだ。世の中がどうあれ、流れて移ろっていく世の中とは違う道を自分は自分の個性と一緒に人生を歩む必要がある、と覚悟することだ。人間一人ひとりは、それぞれに個性があって、それぞれに生きる道がある。「世の中に生きる人間には一律の普遍の価値があって、その価値にあわなければ生きている意味はない」という言い方をするのは、人間全体に対する冒涜である。今でこそ「発達障害」という「言葉」ができたが、私が子供の頃にはそういう言葉はなかった。だから、学校の成績の良い子供と悪い子供はそれぞれがそれなりに生きていた。今は「発達障害」という言葉で差別をされる。人間の世の中の価値観にも流行り廃りがあるのだ。普遍のものはない。

有名な画家、写真家、企業の管理職、会社の社長、政治家、といった人たちにも、実際に近くに寄って話をしてみるとはっきりと「発達障害」と言っていい人たちがいる。それでも、その人達は個性と自分のちからで、人並み以上にこの世の中を生きている。「個性」があって、バラエティがあるからこそ、人間の社会は生きていて面白い。それは「例外」なんかではなく、もともと人間の社会は「例外のかたまり」なのだ、という認識が必要なのだ。

この話は「東京都民でないと日本人ではない」という話と似ている。実際、東京都民であるいくつかの条件に1つでもあわないと、「東京都民ではない=日本人ではない=人間ではない」というように解釈されたりする。だから、多くの人は東京に集まって生活することを考える。結果として、東京は「東京都民以外の人の集まり」となるから「東京人≠東京人」という、よくわからないことになる。現象としては、それが連休やお盆・正月の「帰省ラッシュ」になるのだ。つまり「発達障害」というのは、現在の学校教育でやっている教育に「あわない」人をひとくくりにして、社会から抹殺するためのものである、と言ってもいい。日本の学校教育の基準にあわない「個性」を切り捨てるための方便に使われている言葉が「発達障害」である、と言ってもいい。

必要なのは「発達障害」と診断されても、「それは今の世の中だから」と、大きなことと受け止めないことだ。そういうものを大きく受け止める時代ではない。自分に自信を持ち、自分の個性に自信を持って、明るくこの世の中を生きることだ。よく国際化というが、本当の国際化というのは、多様な価値と個性を認めることであるとすると、それは「発達障害」などという言葉で個性を一刀両断してその人から生きる自信を奪うことではない。この「発達障害」という言葉が罪深いのは、それが「その人に生まれつきのもので生涯変わらない属性」という言い方をされ、本人の根本から、その人の生きる力を奪うことによって、社会の中の競争を自分に有利に働かせたい、という人たちがいる、ということだろう。

ぼくの子供の頃、ぼくは「学校の勉強に向いていないのではないか」という、今で言う「発達障害」という言い方を親がされたことがある。実際、好きなことしかしなかったし、学校の成績もあまり良いとも言えなかった。大学も入れる大学に入った、という程度だ。しかし、ぼくは20冊以上のIT関連の本を書き、韓国で大学教授もした。それが結果だ。

人は「個性を生きる種」である。その個性が集まって「社会」を作る。いかなる理由があっても、この社会の中の多様性を否定することは、そのまま人間を否定することと同じだ。