ハロウィンの翌日の月曜日の朝

Busan/KOREA

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昨日の夜、有名な漫画で今度映画で公開される登場キャラクターの「悪魔」の格好で渋谷の交差点で騒いだ君は、昨日よりは少し暖かな朝の日差しに顔を照らされて、歯磨きもせずに着替えて仕事に行くために外に出た。終電も終わった渋谷から酔って歩いて恵比寿に帰った。恵比寿の路地裏の交差点のゴミ置き場に、悪魔のマスクを捨てた。来年同じ格好はできない。流行りはきっと新しいものになってるだろうからね。でも衣装は高かったし、また直して使えるかも知れないから、部屋に記念に置いてきた。

昨日の夜の自分。今日の朝の自分。全然違うけど、世の中が新しくなったようには思えない。テレビで芸能人が「渋谷には集まらないように」って言ったらしいけど、そんなことは普段は仕事のオレは忙しくて聞いちゃいない。そんなこと考える時間があったら、眠りたい。テレビもそんなに見てるわけじゃない。でも、渋谷、楽しかったよ。

結局、昨日の渋谷にはぼくらみたいなのがわんさかいたよ。警官もさすがに昨年よりもいっぱいいた。でも、それだけのことさ。騒ぎたいんだ。誰位迷惑をかける、ってことでもない。そして、月曜日の朝。空は薄曇りでちょっと青空が見える。もう東京は冬だ。そういう寒さになった。にわか作りのきついピンク色のカツラがやっぱり路地に捨てられていた。それをどこの人ともしれないおじちゃんが拾い上げて、ゴミ箱に入れた。

本当のハロウィンは月曜日31日。でも月曜日は仕事だからね。

見上げた空に、真っ黒い小さな影。カラスが一羽飛んでる。

 


なぜ韓国の大統領は晩節を汚すことが多いのか?

 

 

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「先進国になりきれない国・韓国」という記事を、韓国の朝鮮日報記者が書いている。この方の文章を読むと、政治制度などの変遷など、韓国のみならず世界の歴史に対する深い教養を感じさせる。

韓国という地域の政府では歴代の大統領が退任後はほとんど密告されたりして、司直の世話になる。自殺することもある。韓国では漢民族と同じ「同族助け合い」の原理があるので、家族や親戚で成功した「社長」などがいると、他の貧しい親族などを助けるのが義務なのだ。大きなお金を持っていて他人を助けられる財を築いたものは、同族の他の人たちを助けるべき、という「規範」がある。これはこれで、ある意味「美しい不文律」と見る向きもあることだろう。

当然、「大統領」ともなれば、韓国という地域の朝鮮民族の頂点に上り詰めた「国の社長」である。少なくとも同族の人たちには、それなりのことをしなければならない。たとえば、大企業の社長に抜擢するとか、なんとかの官庁の長官にするとか。その人の生活を助けることは同族としての「義務」である。

とは言うものの、韓国の国の政府は「近代国家」の仕組みを持っている。近代国家を目指し、「豊かな国」になるべく、韓国の国の政府を西欧と同じ近代のかたちにしたのは、韓国民その人たちだ。当然のことながら「韓国的な同族助け合い社会の仕組み」と「近代国家の仕組み」は矛盾する。後者にとって、前者は「汚職」などになる場合も多い。ここに齟齬が生まれ、近代国家・韓国の大統領は「国のシャチョー」として同族のしがらみの中に沈み、それに従って近代国家にあらざることが行われ、大統領の人気が終わるころには、その矛盾が一気に大統領その人に襲いかかる。結果は「失脚」や、退任後の惨状となる。

世界を見渡すと、韓国だけが「先進国になりきれない国」じゃないんだけどさ、とは思うのだけれども。

 


GalaxyNote7発火事件でサムソンの世界シェアはどうなったか

p1130718韓国の朝鮮日報(日本語版)が伝えたところによれば、最近のGalaxyNote7の発火事件で、大量のリコール、販売停止などが行われたが、世界でのサムソンのシェアトップは、そのままで、現在世界シェア20%超を維持している、ということだ。この米国の調査会社の調査によれば、Appleはシェアをぐいぐいと落とし、その減ったぶんを中国のHuaweiが持っていった、という感じだという。

世界のスマートフォン市場はそのほとんどが日本円にして数千円からせいぜい1万円台の「低価格機種」であり、数万円の高級機種は当然「その他」扱いだ。Appleの凋落の元はこの「低価格機種」の市場を拡大できなかったことにあるのは明らかなのではないか、と私は思う。サムソンはたしかに韓国に本社を持つ優良企業だが、既に株の半分以上を外資が持つ「世界企業」であり「韓国」はその出自だけ、と言う感じだ。だから、グローバルな投資家を相手にするためにより効率の高い投資を行う必要があり、どの価格帯の機種をどの市場に投入するか?ということは非常に大きなテーマであることはいうまでもない。今回のこの「結果」は「世界ではスマホ購入の決め手は価格である」ということが、図らずも証明された、ということだろう。サムソンは早くから「低価格機種」に多くの力を集中してきた。同時に、日本ブランドがこの世界の競争についていけなくなったのも、「価格」が主な原因だろう、と私は思う。

ところで、最近のサムソンのスマートフォンを裏返すと「MADE IN CHINA」ばかりだ。同社の中国工場が主力だからだ。実はサムソンのスマートフォンにかぎらず、最近のこういったハイテク電子製品の部品は日本製、中国製、メキシコ製、など「多国籍」はあたりまえ。加えて製造ロットごとに部品が変わるのも当たり前だ。

よくアマチュア崩れのIT業界ライターなんかの記事で「新製品のXXを分解してみたら日本製部品が。。。」みたいな記事があるが、それはそのとき分解したものがそうであるだけで、その部品が日本製であるかどうかはどんどん時間とともに変わっていく。iPhoneのカメラ部分はここしばらく日本のSONY製だったが、既に台湾企業二社の中国工場のものがiPhone7の多くのものに使われており、日本SONY製のカメラはその一部に使われている、という情報が聞こえてきている。これもまた、時間の経過とともに、他の企業の作った「部品」に変わっていく(変わらないかもしれないが、それはコストによる)。これが当たり前の今の製造業なのだ。

もしも、「新製品のXXを分解したらXX製のXXが使われていました」なんて記事を書くとすると、同じ製品の製造ロットの違うものを時期を変えて購入し続け、さらに販売地域も一箇所ではなく、世界中の地域で買いまくって、そのすべてで分解を常にしていないと、全く実情はつかめない、単一機種でもそうしなければならないだろう。今の製造業は部品や工作機械などの世界的なサプライチェーンの上に成り立っている、というのは具体的にそういうことだ。アマチュアのハイテク記者はしょせんアマチュアなのだ。

 


「死ぬくらいなら辞めればいい」がなぜできないかというと。。。。

090807_062851組織で仕事をする、その組織の有形無形の規範の中で仕事をする、というのはその組織の支配者のものを考える枠の中で仕事をする、ということだから、その構成員はそれが自分の心身に害を及ぼすものであっても、組織の支配者の思想や哲学の枠の中でものを考えさせられているものだ。

別の言い方をすればその組織には支配者の「ワールド」があるのだ。ディズニーランドではディズニーキャラになりきっていないとその世界が楽しめないが、それと同じようなものだ。ディズニーの世界を冷ややかに斜めから見るようだと、ディズニーランドは楽しめない。だから、その「支配者ワールド」の広さや深さが組織の規模や仕事の質を規定する。

「ブラック企業」というのは、そういう支配者の世界の奥が浅く広さも狭い場所のことである。だから、その世界に適応して生きることは自分の視野を狭くしてしまう。結果として、自殺に至ったり体を壊したりする。かといって、その「ワールド」に適応した人間はそこでしか生きる道を知らない。組織の長から見れば、これは「素晴らしい人材」に見える。

しかしそうやって組織の長の枠の中で組織に染め上げられた人材は、組織に自分をあわせることに多くのエネルギーを使っていることを忘れてはならない。なぜならば、人間には個性というものがあり、組織に属する人間は、普通はその自分の個性を曲げて組織に適応しているからだ。

だから組織の長の作る「ワールド」が奥深く広いものであれば、組織人は自殺などするようなことや体調を壊すこともなく、業績もあがり、人数も増え、組織も安泰となる。組織の長の持つ他人の個性を包み込む奥深さが組織を安定させる。

「ブラック企業」というのは、この組織の長に広さも奥深さもないがゆえに、構成員本人の本来持つ「個性」を抑圧してしか生きていけない組織のことである。組織の長というのは常に教養を高め、奥深い人間洞察を持つ必要がある、というのはそういうことだ。

金解禁の時代の日本の財務大臣であった井上順之助は、まさに「本の虫」と言われるほとすごい読書家で有名であったが、彼は本を読む理由を「人をリードするため」と言っていた。この「リード」とは、不遇な時代に米国留学などが長かった井上にとって、本来の英語の意味での「リード」である。つまり「他人に勝つ」という意味ではなく「巨大組織の長として多くの人を引っ張っていく」という意味である、と、私は思っている。彼は巨大組織を引っ張っていく役割にあたり、それが不可欠だと感じたのであろう。

井上は財務大臣になってからでさえ、自分の人間としての教養や広さ、奥深さを求めて読書をしていたのは、単なる習い性ではなく、巨大組織を「リード」しなければならない、という重責を自覚し自分の人間性をより大きく深くしなければならない、ということを考えていたからだったのだ、と、私は思う。

日本には集団主義で個人主義をねじふせて組織を維持する、という伝統がある。日本はもともと貧しい国だったから、組織の長に無能で無教養な人間を持ってこなければならないことが多かったからだ。「ブラック組織」は、そうやって生まれた。日本は高度経済成長期を経験し、ブラックではない、大きな優れた組織の長たるにふさわしい人材を多く出したが、その時代の記憶がまだあるため、ブラック組織を「当たり前」と思えず「ブラックである」と意識できる感性が残ったのだ。これは、私達日本人にとって、未来を拓く大きな財産である、と、私は思っている。

「死ぬくらいならやめれば」ということがなぜできないか。その現象を客観的に見て「なぜそうなるのか」を意識し考えたこういったマンガの存在は未来の日本人の頭の中に記憶されていくことだろう。私達日本人は無教養で粗暴で奥の浅い昔には、もう戻れないし、戻ることもない。それが日本という地域の高度経済成長というものが産んだおおきな未来の日本への遺産である。

それがいくら、ある人たちにとって「懐かしいもの」であったとしても、私達はそこには戻れないのだ。

 


今こそ「フリーOS」「フリーOffice」の時代かもしれない。クローズな世界にオープンソース。

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この20年、PCではOSにWindows、OfficeスイートにはMicrosoft-Officeという時代だったし、今もそう信じている人は多い。ところが、OSのWindowsは強制に近いかたちでWindows10にアップデートされそうになる事件が昨年起きた。さらにMicrosoft-Officeは、どのバージョンもオンラインでの販売のみで、クラウドを使うのが当たり前になった。ライセンス料金は年間利用だと安くなるものの、パッケージの時代のように、一度買えばあとはずっと使って安心、という時代ではなくなった。しかも、最近のこういったオンライン製品では、最初の設定で、作った文書ファイルなどをMicrosoft社のクラウド上に置くことになっていて、それ以外のところに(たとえば自分のPCのHDDに)それを置こうとすると、ちょっと違うオペレーションが必要になる。

当然のことながら、セキュリティの問題が出て来る。最近は大企業ユーザーでなくとも、こういったセキュリティには十分注意していて、特にクラウドが盛んになってからは、クラウド上に自社の社外秘以上の秘密が含まれているファイルは置かないように、という通達が出ている組織もある。

こういった時代に、一昔前の「パッケージソフトウエア」の時代のようなスタンドアロンで動くOSやOfficeソフトウエアスイートが求められる場面が多くなった。自分のデータを他人にこっそり見られてはたまらない、という、当たり前の動機によるものだ。そこで、かなり大きな組織でも、WindowsやMacなどのポピュラーなOSは使わないように、とか、Officeソフトウエアはフリー(無料)でネットから取ってこられるパッケージソフトを使うように、という通達が出て来る組織も増えてきた。

私が普段使っているのはOSにUbuntu、そして、Windowsでも動く「Libre Office」をOfficeスイートに使っている。私の周辺ではこれが標準になってきた。どちらもオープンソースで出来ており、ソースコードを調べてバックドアがないかどうか、なども専門家が調べることができる。そのため、欧州では国の政府がそれを使うところも出てきた。

ちょっと前までは「無料だから」という理由でこれらのソフトウエアが使われてきていたのだが、昨今は事情が変わり「セキュリティのため」に、これらのフリーソフトが使われる場面が多くなったのだ。

リーマンショック以上と言われる世界的な不況期に入り、国の政府や地方自治体、企業はハリネズミのように自組織の守りを固める必要が出てきた。この流れがITで行き着く先は、周辺との「コネクティビティ」の危険性をできるだけ減らすことだ。そのためには、インターネット接続を切ったり、限ってもかまわない、という考え方である。

本来は「オープンな環境のために」作られたオープンソースソフトウエアがクローズな環境を作るために使われる。これがこの時代の皮肉でなくてなんだろう。

MicrosoftのOSやOfficeスイートのプロダクト、Apple社のMacOSなども、クラウド化&オンライン化のために、インストール時も利用時も常時インターネット接続は必須である。しかし、UbuntuやLibreOfficeといったオープンソースソフトウエアはインストール時のみインターネット接続が必須で、利用時にはインターネット接続は必要ない。どちらがより安全かは、言わずもがなだ。

オープンソースソフトウエア。それはいま、セキュリティのために、クローズな環境を守るために使われだした。時代の変化というのは、こういったものなのだ、と思わざるをえない。

クローズな世界にオープンソース。

 


ボブ・ディランのノーベル賞騒ぎって古い時代の権威の失墜が目に見えた感じがするよね。でもこれ、演出かもしれないね。

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WAIKIKI/WAWAI

ディランのノーベル症騒ぎ。結局、ノーベル症委員会はいま、もっとも嫌われる、その権威的な態度を最も嫌われる形で表出し(おそらくマスコミの記者にひっかけられたんじゃないかとぼくは思うけれども)、今後はもっと権威を失墜していくことだろうね。結果として、ノーベル症委員会はディランに手玉にとられたんだね。

【ここ追記】と、言う話はみんな好きだから、どうやらこの話は記者がそういうことをノーベル症委員が言うように、話を持っていってインタビューして、委員もそれにのっかった、という話みたいだね。「記者にノーベル症委員がはめられた(ことにしよう)」って話らしいね。実際のインタビューではその委員は「彼らしくていいんじゃない?」と、この状況を楽しんでいる。まぁ、ノーベル症の価値も下がってきたことだし、ここは一つ、こういう「事件」でも起こして、世間の注目を集める「炎上ビジネス」にして盛り上げよう、って気持ちがあって、記者の人に対して「そういう記事にしやすいように」、老獪な委員の人は話をしたんでしょうね。いわゆる「魚心に水心」ってやつですね。どっちもやるねぇ。

ここまでしなきゃならん、ってことはだ、これはオリンピックも同じ。オリンピックももう世界には必要ないんでしょうね。このところ、オリンピック後の国家財政がいかに大変か、とか、オリンピック後の競技場の廃墟の写真ばっか見せられてるよね。あのネガキャンもそっちの方向を向いているんでしょうね。

でまぁ、私に近いところでは、PCのMicrosoft。このところ、毎回Windows7にWindowsUpdateのお知らせが来るんだが、みんなUpdateに失敗してる。もう数十回やったよ。「PCといえばOSが必須。そのOSのシェア一番だから、なにをユーザーにしてもOK」と思っているとしたら、それも権威の失墜の大きなきっかけになる。なにせ、WindowsUpdateの時間がかりすぎ、結果として「失敗しました」が繰り返されるが、客が欲しいのは時間の節約であって、時間の無駄使いではない。OSを使いたいのではなく、OSの上に載っているアプリケーションソフトウエアが使いたいのである。一部のトシのいったマニアだけが、古い時代のOSサマサマの時代を引きずっているだけなんだな。

Microsoft社自身の売上を見ても、ほとんどがOfficeソフトウエアであって、OSではないわけでね。その意味をちゃんと考えていないんでしょうね。

自動車で言えばさ、みんなエンジンが欲しいんじゃないわけですよ。自動車で速く楽にどこかに人やモノを運んでくれればいいわけですね。あと、乗り心地がいい、とか、ドライブが楽しい、とかってのもあるとうれしいわけで。でも作る側は「良いエンジンでしょう!すごいでしょう!」ってやりたくなる。そりゃマニアは気にしますよ。「オレのPCのCPUすごいだろー」みたいなもんだね。でもそういうのに喜ぶ人、がっかりする人はごく少数。「普通の人」は自動車が大事なんじゃない。CPUが大事なんじゃない。自動車でなにができるか、それが自分のやりたいことの役に立つか?ってことのほうがはるかに大切なんだよ。「モノ」中心の時代じゃなくて「ソフト」中心の時代、っていうのはそういう意味だよ。

ノーベル症の権威がなぜできたかといえば、その賞を取った人の業績をすごい、とみんな認めていたからであって、ノーベル症ってのは後から来て、「あんたすごいじゃない」って、褒める、って程度の役目だからさ、「すごい」のはもうみんな知ってるわけ。そこに後付けで「すごいねー」って言いに出て来るのは、コバンザメみたいなもんでなんか「いかがわしい」。それって、ある意味「どうでもいい権威」なんだな。賞が大切なんじゃなく、業績とその効果が大切なんですよ、ってことね。いまはそういうことがみんな裸になって世の中に広まる世界なんだよ。

【追記もう一個】さらに言えば、だ、こういう賞というのは突然決まるんじゃなくて、なにかとその人やその周辺にインタビューに来たりして「予兆」を演出するもんなんですよ。ディランも賞を取ることはおそらく事前にわかっていて、「オレの場合、こういう演出で行こう」なんて考えてるんでしょうね。ショービジネス、っていうのはそういうもんだからね。だから「授賞式に予定しなかったディランが突然ギター片手に現れて云々」なんていう下手な演出もあるんじゃないのかね?だいたいこういうものはみんな事前に予想がついてバレてるもんですよ。

あ、ごめん。「ノーベル症」じゃなくて「ノーベル賞」の間違いだったわ。ごめんね。

 


「タウンWi-Fi」はセブン-イレブンの「7SPOT」に接続できない、という件

pa022675アプリの「タウンWi-Fi」は、日本の各地にあるフリーのWi-Fiスポットに自動的に接続してくれる、という便利なアプリだが、セブン-イレブンの「7SPOT」にはこのアプリでは接続ができない、ということらしい。イタチごっこみたなもんだが、「タウンWi-Fi」だろうがどんな輩だろうが、セブン-イレブンも企業である以上、特定のアプリとかで接続できなくする、というのは、結局はアリなんじゃないだろうか?と思う。

日本では無料Wi-Fiの接続が増えているが、実際には、無料のWi-Fiスポットは、その裏側でなにをしているかわからない。良心的なところでも、必ず「暗号化されていない通信は傍受され思いもかけないところに使われる危険がある」ということを、ちゃんと定款に書いてある。その定款を読まないで接続すつのは危険だ、ということだから、当然、その定款を読まないで接続するユーザーの通信をrejectする、というのは、むしろ良心的なんじゃないか、と私は思うのだが。

「タダで使えるものは使わせろ」というだけの話であれば、むしろセブン-イレブンのような私企業が無料Wi-Fiを運営するのではなく、地方自治体とか国とかがやれば良いことなんではないだろうか、と思うよ。

「無料」のものには、必ず「無料」になる理由があり、それを「定款」には書いてある。

まぁ、世の中というのはそういうものですよ。

 


「ハロウィンはやめよう」「クリスマスはやめよう」「バレンタインデーはやめよう」ついでに「正月もやめよう」ってのはどうかね?

ea101205最近の日本のネット言論界(と呼べるほどのものがあれば、だが)では、迫り来るハロウィンの時期に関して「ハロウィンはやめよう」という話がいっぱい出てきているが、同じようなのは昔から「キリスト教徒でもないのにクリスマスはやめよう」とか「もてない人間のためにバレンタインデーはやめよう」ってのは、まぁ、いっぱい出てきている。一方で「正月はやめよう」とかって話はない。しかし日本の「正月」なんてのはそもそも新暦であって、本来であれば旧暦で行われるべきものであって、現在の日本の正月なんてものがそもそも邪道なのである。日本を離れればどこでも新暦の正月を日本みたいにたくさん休みを取ってやっているところはどこにもない。グローバルスタンダードからすれば(←いや、それがキライって人もいるんでしょうが)、日本の正月なんてのは異常なんですよね。

だいたい、日本では現在使われている太陽暦が本来のものではなく、太古の時代は漢歴の太陰暦みたいなものが本来のもので、日本の伝統を遡ると古来の正式な暦は、漢暦・太陰暦なのだ。あるいは、江戸時代に変更された日本独自の「和暦(太陰太陽暦)」に変更するのが、日本古来の伝統にあったものだろう。現在私たちが使っている太陽暦は、明治6年というごく新しい時期に、西欧の暦を真似て導入した、という程度のものに過ぎない。

それはともかく、ハロウィンのときに渋谷で若者が集まる、なんてのは「禁止」になったらしいし、いまの若い人はつまらないだろうなぁ、飲んで騒いで群れるところもないわけでね。若い人間は飲んで騒いで群れるのが楽しいんですよ。そういう場を「危ないから」って取り上げるんだったら、村の祭りだって同じようなものなんで、みんなやめればいいんだよね。正月もついでにやめるといいと思うよ。日本古来の伝統を持つものでもないし、なにかと休みは危ないからね。

 



ダムの仕事をした話

060811_084343その昔、ぼくが駆け出しのシステム屋だった時代、インターネットはまだなかった。当時の国土交通省の仕事で、ぼくらは山形の雪深いところのダムに入れるコンピュータシステムを作っていた。工作機械も多く、電気ノイズも半端ではなく、ぼくらがメインのコンピュータにしたNECのPC-9801(最初のやつだったから、後ろの型番はナシ)と、暗いトンネルの中のある機械の間を通信でつながなければならず、当時はまだ発売されたばかりの光ファイバーを通信に使った。しかも数台その工作機械があるから、自分たちでプロトコルを作って、LANを組み、PC-9801のいわゆるCバスの通信ボードを作り、そのハードウエアはぼくが設計してプリントパターンも書いた。当時はまだTCP/IPがなかった。光LANのシステムだったのだ。今から30年以上も前のことだ。

そのCバスの通信ボードは、PC-9801のメインメモリ空間の一部を共有メモリとして動き、ボード上にある通信専用のCPUには、Intelの8748を使った。Erasable/WritableのP-ROMがくっついているCPUで、同じCPUを工作機械側の小さなコンピュータボードにも使った。

人間の背丈の数倍ある深い雪の中。正月1月1日・元日・その日に、設置したシステムのトラブルを調べに行ったことがあった。あまりに雪が深すぎて仕事場近くのスキーロッジは閉まっていたんだが、無理をして開けてもらって、そこに泊まった。そこしか泊まるところがなかったのだ。ロッジに取引先の人のスノータイヤを履いた三菱パジェロで連れていってもらって、除雪されている道はともかく、その道から10mばかりのロッジの玄関まで、かんじきを履いて行った。道端には深い積雪の中に埋もれた電話ボックスがあった。

夜中にロッジに着いたのだが、その道すがら、真っ白い雪の中の除雪された道路のクルマの前を真っ白いうさぎが横切った。夜の真っ白い世界の中でヘッドライトの前を横切る真っ白いうさぎの姿は幻想的でさえあった。

当時のインターネット以前の「システム屋」は、こういった思い出がいくつもあるんじゃないだろうか?

そして、その仕事も終わりに近くなったとき、突然アタマを背後から殴られたようなショックを受けた出来事があった。

そのダムはコンクリートで作る「アーチ型ダム」ではなく、山を積み上げて水を止める「ロックフィルダム」だったのだが、その山を作る予定のその場所の真っ平らな岩盤の上で、たくさんの人達が座ってなにか仕事をしている。ぼくらはそれを、作業が一望できる高い事務所があるところから見ていた。

「あれ、なにしてるんですか?」

ぼくが下を指差して聞いたら、現場のおじさんはこう言った。

「石を拾ってます」

要するに、これから水をせき止める山をそこに築くわけだが、そのとき、「水も漏らさぬ」山にしなければいけないため、粗い石、細かい石、と、計画的に積み上げていく。そのとき、人口的に築く山の下に、計画とは違う大きさの石があると、岩盤の割れ目から水が漏れたりするので、まずは山を築く前に、その底部にころがっている石を取り除く、という作業が必要なのだそうだ。

ショックだった。ぼくらコンピュータの仕事というのは、基本的に一人でやる仕事。一人が一日、ここまで仕事が進んで、明日は、ここまでやって、と計画をする。それをみんながやる。今日一日の仕事は自分のものだ。しかし、この工事現場では「石を拾う」という、ある意味えらく単純な仕事があって、それは一人の人間が一日がんばっても、全然進まない仕事なのだ。だから、大勢の人が一斉に少しずつやって、やっと全体がなんとかなる。そういう仕事が世の中にはあるのだ、ということに、その当時のぼくはえらくショックを受けた。未だにトラウマである。

それまで、光ファイバーがどうしたとか、それが世界でも稀な実用例であったとか、後で考えて見ればLAN作っちゃったんだよな、とか、そういう世界とはまるで違う世界が目の前にあった。一人の人間が一日頑張っても1mmも進まない仕事ってものが、この世にはあるんだ、ってことだ。

夜中の真っ白い世界のヘッドライトの前を横切るうさぎのこの世のものとは思えない静寂と美しさ。それとともに、ぼくの脳裏には当時の「石を拾う人」の姿が、いまだに、目に焼き付いて離れない。

 


なぜ「いじめ」をしたくなるのか?その構造について考えてみた

ea101265このtogetterのまとめを見ていろいろ考えることがあったんだが。Facebookに書いたものに加筆したんだけどね。

大人の世界のほうがいじめは陰湿だよね。子供はその真似をしているに過ぎないよね。ではなぜ、いじめる側はいじめをしたくなるのか。

大人の世界でのいじめ、特に日本でのそれに限って見ると、それは社会ヒエラルキーの流動と大きな関連がある、と、ぼくは思うのね。セクハラ、パワハラ、いずれを見ても社会ヒエラルキーの上から下に向かってのものばかりで、下から上に向かってのものはないよね?つまり、現状の社会のヒエラルキーを絶対として守るべきと思う側が、つまりそれで利益を得ている側が、そのヒエラルキーを壊す人間を暴力やその他の手段を使って「圧力を加える」わけですね。それを「いじめ」というのね。

子供の社会を見るとわかるが、子供の社会での「いじめっ子」の類型は暴力で他人をねじふせる力を持った子供だからね。わかりやすいね。大人の世界では、それは暴力というわかりやすいものじゃない、というだけでね。いじめの動機というのは、現状のその場の社会秩序の破壊者に向けられる暴力、あるいはそれに類するものなんですよ。弱いものいじめというのは、その破壊者を萌芽の段階で察知して大きくなる前に摘み取る作業なんですね。いじめとはそういうものなので、ほとんど、どんな社会にもある。

しかし、皮肉なもので、いじめを受けた側はいじめによって萎縮して現状の社会の破壊をいちどはやめる。しかしそこが人間のおもしろいところで、実際にはより強力な意思をいじめによって得る者もいるわけです。いじめをしたくなる側は現状の社会ヒエラルキーの守りの役目を負っている、組織の周辺にいる武器携帯を許された防人なんだな。概念的な意味でね。だから、社会の内部から見て、人間的に見て非道なことでもやってしまうんだね。人間が社会を作り、群れで生きていかなければならない以上、ヒエラルキー、力関係、というものはついてまわる。いじめはなくなることはないんです。いじめる人間になぜその意思が芽生えるかというと、そういうわけなんだな。

だから、いじめられる側が悪い、というその「悪」とはつまり、現状の社会ヒエラルキーを壊す意思のことなんですね。それがもやもやして普通は言葉にできないから、細かい所作をあげつらうことになる。結局、いじめられやすい人間はどこにいってもいじめられるのはそういうわけですよ。その組織社会の防人は鋭敏な感覚でいじめるべき人=ヒエラルキーでできている社会の破壊者、を嗅ぎ分けていじめを始めるんだな。だから、いじめられている人は、その社会の同調者ではない、という自覚を持って、いじめる人そのものをターゲットにして自分のやりたいことを推進するのではなく、現状の社会ヒエラルキーを作っている価値観をいかに破壊するかを明確に考えたほうがいいんですよね。いじめる側の存在価値というのはその程度のものだからね。

だからいじめられる側が意志を持って強力な存在になったとき、「革命」が起きる。社会ヒエラルキーの別の価値観による「置換」が起きるのをそう呼んでいる、ということだな。

まぁ、そういうことだね。