腹が立つ最近のPC

Enoshima

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正直なところ、かなり腹が立つ。と言うのは、最近のWindows10についてだ。あれこれとアップデートが裏側で行われているから、とにかく重い。なにがされているのだか、さっぱりわからない。重いから、かんたんに動くものも動かないことが多い。たとえば仕事のデータをPCで他のドライブにコピーしたいだけなんだが、その都度、PCを立ち上げると、「最新機能が云々」の青い画面になって起動しない。マウスもキーボードも動かない。ただ「電源を切らないでください」「素晴らしい機能が付加されます(全くそれ以外の情報もない)」が表示されているだけだ。そして数十分待たされて、やっとコピーができる。コピーなんてのは数秒である。それだけがしたいのであって、アップデートされる機能がいくら素晴らしい機能であろうと、それを使いたい、というわけではない。

これが普通のPCの利用者の声である。より素晴らしいOSにするとか、そういうことはどうでもいいのだ。その機能だけが使いたい。そのための最短のパスをぶっ壊して、必要があるのかないのかさえわからない機能をあれこれとアップデートでつける。こちらのやりたいことをすぐにさせてくれない。腹が立つのだ。最近のPCは。

多くの人はPCのOSの新しい機能なんてどうでもいい。セキュリティなんて専門家がやってくれればいい、と思っている。なんでやりたいことをすぐにさせてくれないのだ?というのに腹が立つだけだ。PCのOSに一体何が起きているのか?

 


「Welq」炎上中だが

p1150674ネットでの健康情報を扱う「Welq」が炎上中だ。いろいろあるようだが、要点は

  1. 安い外部ライターに書かせた質の低い記事
  2. そのため外部サイトのパクリなども発覚

というところだという。これがなぜ「発覚」したかといえば、Welqが「今後は専門家の意見聞いてから記事にします」というメッセージを同サイトに掲載したからなんだとか。

まぁ、それはともかく、当Blogなんてのは、あまりアクセス数もなく、こういうところに「パクられた」なんてのは、半分は勲章みたいなもんだが、というのんびりしたことを言うほどぼくは優しい人間ではないので、それはそれで怒るとか訴えるとかすると思うんだけれども、そもそも健康の記事なんてのは、このBlogに一つしかないので、ここにあることはないんでしょうね、とか思っちゃうわけですけれども。

とにかく、ネットはコンテンツ系企業が増えすぎた。で、コンテンツ不足。当然、パクリも横行する。日本人はもともとマナーを大切にする国民性だと思っていたのだが、どうやら違うらしい。日本に来る外国からの観光客はお気をつけください、などと日本語で書いておく。いじわる。かもしれない。とにかく、「YOKOSO JAPAN」であって「OMOTENASHI JAPAN」である。善良な人たちを悪いところに誘い込むには、やはり騙しというものが必要なのである。

 


「人工知能」には「五感」「環境」が必要なのね

人工知能って言うけれども、人間にできるだけ近く、って考えてるのはいいんだけれども、人間とどこが違うか?ってのは、考えておいたほうがいいのね。人間は脳だけじゃなくて身体があって、なにかに触れたり、握ったり、その感触があって、誰かのところに行って話をしたり、殴り合いをしたりして(←穏やかじゃない表現ですみません)、経験を積んで「人間」ができていくわけですね。だから、そういうものをいかに作って「経験を積ませるか」ということが、非常に重要なんです。そうしないと「人間と同じ」にならないわけですね。こういう「外部の環境への働きかけ」「外部の環境からのフィードバック」の繰り返しが「人間」というものを作っていくわけで、それがまだいまの人工知能には、中途半端にしかくっついていないんだね。

ぼくは国の遺伝子の研究所にいたこともあったんだけれども、遺伝子のテクノロジーを使って、人間の臓器を作る、ってことでも、実は非常に難しい。その臓器が形作られる周囲の環境を作ってやらないと、その臓器が完全なものにならないんですよ。つまり、この世にある「いのち」とかそのいのちを形作っている部分というものは、その周辺の全体の一部でしかないわけです。周辺が整っていないと、それがいびつなものになってしまう。「いのち」というものは、そういうものなんですよね。

 


毎度言うようだけどIoTって

P1020364IoTの話を聞かれる度に、毎度言うんだけれども、だいたい25年くらい前までに、日本の製造業の大企業はだいたい導入が終わっていて、いまはそれから何代目かの入れ替えをやっている感じなんだよね。毎年どこか新しくしていくんですよ。こういうものは、当然のことながら、できたときは「社外秘」であって、一般の目に触れることはほとんどなくて、密かに企業の「秘密兵器」として、生産性の向上に寄与して、その企業の競争力を高めてきたのね。当然「秘密兵器」だから、IT系はじめジャーナリズムには載ることはまずなかったわけです。だから、一般の人が知らなくて当たり前。

ただし、それがなぜ大企業でしかできなかったか、というと、すごくお金がかかるものだったからなんだね。いまは、かつて毎月数百万円かかった海をまたいだデータ通信網の利用料金が数千円になったし、コンピュータ機器の価格も劇的に下がった。だから、中小企業でも使えるようになったわけです。だから、今頃になって騒いでいる、ということかもしれないわけですよ。

普通に考えて見ればわかるけどさ、これまで、カネが有り余っている巨大企業が、いまどき工場で人手だけに頼ってモノを作っているわけがないよね。これからIoT化だって?おとといおいで、てなもんですよ。

で、そういう当たり前の、誰でも想像がつくようなことを無視して、「これからは製造業のIoT化だ!」ってなんでいまさら騒ぐのかねぇ?って、ぼくは思うのね。ぼくは実際に25年前とかにそういう工場のコンピュータと通信の仕事をいっぱいやってきたから、いまさら、って言う違和感いっぱいあるんだよ。

今日も誰とは言わないけど、某大学の某IoTの専門家、って言う先生の話を聞いたんだが、その先生も、ぼくよりトシが若いんだけれども、やっぱそういう昔からそういうことがされていた、ってことは知ってた感じね。でも、政府の役人とかはもう過去のそういうことは知らないか、あるいは、聞いたことがないんでしょうね。だから、今さらIoTって騒ぐわけですね。

IoTはこれから、っていうところはまだ多いとは思う。でも、それがすごく新しいか、というと、そうではない、ってことくらいは知っていて欲しいのね。そして、それがいま騒がれるようになってきたのはあくまで「コスト」の問題だということ。そして、これからのIoTは基本的に大企業ではなくて、中小零細個人企業に持っていくべきもの、ってことね。その広がりを作らないと、今回のIoTブームも間違えちゃうと思うんだよ。「お金の話」を正面から、ちゃんとすべきなのね。

 


It’s A SONY展に行ってきたんだけど

15095003_10211285420912356_1121444695535317793_n銀座SONYビルの建て替えに伴って、そのクローズ前の「It’s a SONY展」に行ってきた。子供の頃に馴染んだオープンリールのテープレコーダー、カセットテープレコーダー、トリニトロンブラウン管のテレビ、などなど、古いものがたくさん出ていた。が、なぜかぼくには「懐かしい」という感情は浮かばなかった。当然ではあるんだが、みんな過去のものばかりで、懐かしいというよりも、みんなぼくが過去に置き去りにしてきた製品ばかり、という感じなんだな。いまどき、アナログ系のものがいい、という感性はぼくにはなくて、とにかくデジタル化というのが、過去のものを本当に過去のものにしてしまった感じがどうしてもあるんだね。

実はあまり長い時間見ていたわけではなかった。ネットで昨日見た、オープンリールのテープレコーダーの「おかしい画像」が本物であるかどうか、見に行きたかっただけなので、その部分以外は流して見る程度で、10分も展示は見ていない。他のものは知っているものもあったが、興味はなかった。唯一、入り口のところにあった「電気炊飯器」が、ヒノキのお櫃の下に電極がついているだけの面白いもので、中身はともかく、このデザイン、現代に受けるんじゃないだろうか?なんて思って出てきた程度だ。

つまり、そこでぼくが感じたのは、連綿と続く技術とブランドや商品の歴史ではなく、デジタル化で断絶された、まるで違う社会の前の世代を見てきた、という感じなんだな。たしかにそこにぼくはいて、そういうものに浸って生活をしていたはずなのに、なぜか今はそれらのものがすごく軽いものに見える。そう「懐かしい」んじゃない。懐かしさというのは、現在の自分となにかつながっているものだから、そこに親しみが出るものだ。しかし、ぼくが銀座で見てきたのは、「世代の断絶」というものだったように思えるんだよ。

デジタル化によって、テレビはブラウン管を作れるかどうか、ということではなくて、いかに安く液晶パネルを作れるか、駆動回路などの電子回路が作れるか、ということであって、それはコモディティ化して、立ち上げて数年のベンチャー企業でもテレビはできる世の中になった。

ぼくがSONYビルの中でみた「昔のSONY製品」。それは、まるで石器時代の日本を見るようで、そこになんらかの感情が沸き起こる、というものではなかった。今やXperiaも中国で作っており、SONYのブランドで売っている。これはAppleのiPhoneだって同じだ。テレビは60インチ超で1Kのハイビジョンなら10万円以下。「またSONYがこんなものを作った。すごい!」という感慨は今やない。それは日本がそういう地域になった、ということ以上に、技術のすべてはデジタルに収斂され、ハードウエアからソフトウエアに製品の機能実現のほとんどのノウハウが移り、世の中がまるで変わってしまった、という、そういう感慨だけが残った、という感じだろうか?洪水の後でさえない。

ぼくは技術者&研究者として、長い時間をこの業界で過ごして、SONYの仕事もやったことがある。NTTの仕事、誰もが知っている某巨大メーカーの仕事。みんなやってきた。でも、デジタル化で仕事の内容がすべて変わった。ぼくはその最先端を走っていたが、それだけに、虚しくもなった。この大きな時代の変化はぼくからウェットなものをすべて奪い去って、ドライな新しいフィールドにぼくは放り込まれた。それでもなんとか生きているけどね。SONYというブランドは輝ける日本の時代を象徴しているブランド名であったと同時に、アナログ技術の世界の最後に君臨したブランドでもあった。そして、それはもうなくなったのだ。懐かしいのではなく、今はそれがまるで役に立たないものとなったのを、じっと見ていると、こちらも虚しくなる。SONYビルの外に出て、銀座の街をちょっと歩いてきた。日本という地域の繁栄を象徴した街「銀座」も、過去のものになっていた。

 


サイバー戦争の基本とセキュリティの話

img_6265サイバー戦争の時代であるという。効果としては、たしかにICTを使った攻撃は、非常に効果が高い。まずはサイバー戦争になる以前の「普通の戦争」について考えてみよう。これまでの「普通の戦争」はいかにして起きたか。かんたんに言えば、それは「感情」で起きるものではなく、今でいう「国」という「企業単位」の規則なき競争がその発端であった。戦争で感情を煽るのは、個人的な死を予感しながら、それでも戦場に行かなければならない、という人間にとって、それが必要なものだからである。「戦争はなぜ起きるか」。この答えは「経済」であって、それ以外ではない。

第二次世界大戦以前の戦争は、そのすべてがかんたんに言えば「植民地争奪」のための戦争だった。植民地を得られれば、「国」という、現代で言えば「企業単位」のようなものの持つ「冨」を増やすことができると信じられていた。ということは、戦争にかかる費用や植民地経営にかかる費用が植民地が生み出す冨を上回るものであった場合は、戦争そのものが無意味になる。無意味になるばかりでなく「国」という経済単位の破綻を招く。しかし、いわゆる「戦前」は「植民地の生み出す冨」がその「奪取の戦争にかかる費用」よりも、必ず上回っていたし、上回るものだと信じられてきた。

ちょっと考えて見ればわかるが、植民地の財を増やさないと植民地を持つ本国の財も増えるわけがないから「植民地経営」をしなければならない。従って、植民地を得たあとにしなければならないのは「植民地への投資」であり、その投資があって、初めてリターンが得られる。軍隊というものが「金食い虫」であったのは、そのコストに勝る「リターン」が期待できたからでもある。そういう意味で、戦争とは基本的に「経済原理」によるもの以外ではない。

しかし、現代においては、「戦争」は「戦争をしない戦争」であった「冷戦(実際の全面戦争はしないで睨み合うだけ)」の時期を経て、現代は「ドンパチをしない戦争」に行き着いてきた。つまり、「戦争をせずに戦争をする」という時代に変わってきたのだ。これは、戦争による破壊で植民地を得たとしても、その経営にも多大な投資が必要になるため、現代では従来のかたちの戦争が「割に合わないもの」となってきたからにほかならない。核兵器による破壊は放射能汚染を伴い、その土地は数十年は使えなくなるし、よりお金のかからないABC兵器でこれを奪取したとしても、その後の影響はどうなるか計測し難い。戦争によって、植民地ターゲットとなっている土地の人々を「資源」として必要な労働に従事させ、土地を活用して冨を得る必要がどうしてもある。植民地支配者に対するレジスタンスもあるだろうし、それらに関わるコストもまた計算しておかなければならない。しかも現代を見渡せばわかるように、現代の戦争は「テロリズム」という名前の「ゲリラ戦」が当たり前になってきた。市街地であろうが森の中であろうが、敵はどこに潜んでいるかわからないし、それが味方の仲間内にいてもおかしくない。それらを掃討するためのコストが計り知れなく上昇しており、はっきり言ってそのコストは計測し難い。

結果として、第二次大戦ごろまで行われていた「古典的な戦争」は、勇壮に見えたとしても、コスト的にあわないものとなっているのが現代という時代なのである。

しかも、食料から製造する兵器、前線だけではなく大量に使われる電子機器などは、そのICチップから筐体、ソフトウエアに至るまで、現代では「多国籍」であることが当たり前であり、しかも複雑で不可視なものが多いうえ、「味方の地域」だけで作られているものとも限らない。グローバルなサプライチェーンが網の目のようにあって、その中ですべての国の政府なども暮らしているのだ。その国だけのものというものは今やどこにもない。国や地域どうしの「戦争」というものが無意味な時代になっている。

現代の「戦闘」は国や地域の境目を境界線として行われるものではなく「企業」という単位どうしでの戦闘にならざるを得ない。なぜならば、現代という時代は冨を持つ単位が「国」ではなく「多国籍企業」に移ったからだ。むしろ「国の政府」は多国籍企業の下請けである、と言って良い場合も多くなった。そこで、企業どうしの「戦争」は軍隊に頼らず、よりコストが低く、かつ相手に与えるダメージの大きい、それでいて、相手を打ち負かしたら、相手の人間を含めた資源をしっかりと収奪できるものとしてあらねばならなくなる。結果として、「サイバー空間の奪取」が大きな意味を持つようになったのだ。

そこで重要になるのが「サイバー空間の制空権」を防衛したり、敵のサイバー空間を破壊したり奪取できるようにするためのICTシステムなのだ。具体的には、それはセキュリティ機能に特化したアプライアンスサーバーであったり、それを自在に繰れる技術者であったり、ICTソフトウエア攻撃兵器の研究であったりする。前者も後者も、それがこれからの戦争の要となることはいうまでもない。

戦争というものの原点に立ち返り、それがなぜ起きるようになったかを考えれば、この流れは必然のものである。サイバー空間の防衛ができないものは現代では軍隊とは言わないのだ。

 


結局、3大キャリアのメールアドレスしか登録できないの?都営バスFree-Wi-Fi

pa102344毎日、都営バスを使っている。はっきり言って、ファンである。都営バスFree Wi-Fiは非常によく使う。これも開設当時からのユーザーだ。しかし、最近内部で改変が行われたらしく(運営はNTT系の会社らしい)、新しい端末をメールアドレスで登録しようとすると、仮登録から本登録にするためのメールが届かないのだ。前に登録した端末では、ちゃんとこちらの端末を覚えていて、すぐに接続ができるから、開設時の仕様を変更したのだろう。しかし、そのように改変されたことは、都営バスFreeWi-Fiの登録時のページには一切出て来ない。結局、日本の三大キャリアのメールアドレス、あるいは日本でよく使われているメールアドレスしか受け付けないみたいなのだ。

ぼくは日本で暮らしていて、生まれたときから日本人なんだが、日本のレジストラから、日本ではないドメイン名を買っている。だから、メールアドレスも、末尾が「.jp」「.com」など、よく見るものではなく、違ったものだ。しかし、このメールアドレスでの接続登録は、都営バスFreeWi-Fiではできない。仮登録終了のメールが待てど暮らせど帰ってこないのだ。

しかも、登録ページには、英語や中国語、韓国語の表記もあり、明らかにインバウンドで日本に来た旅行者などの便も考えたものになっているつもりでいるらしい。しかし、その人が持っている他国のメールアドレスでは、都営バスFreeWi-Fiは登録できない。仮登録メール受信のために、10分間だけインターネット接続が「開く」のだが、その10分間だけ使える、という感じになってしまう。まぁ、長い時間バスに乗るってこともないだろうから、それはそれでOKなのかもしれないが。しかし、そういう説明は日本語でも一切ない。

このトラブルは、あきらかにサーバー側での仮登録返信メールアドレスの発信制限をしているから出てくるものだ。要するに、サービス提供会社が設定でメール発信制限を途中で課したように変更したんだな。まぁ、SPAMメール送信に使われたりするのを防ぐとか、けっこう気を使っているのはわかるが、説明が一切ない、というのはやはり問題ではないだろうか?とか個人的には思うのだが。でも、まさかと思って、上記ページからのリンクにある先のホームページとPDFファイルも見たのだが、使えないメールアドレスがある、という説明は一切ない。いまの時点では。

まとめると、現状での「都営バスFree Wi-Fi」の問題点は以下になる。

  1. 日本の三大携帯電話会社のメールアドレスや日本でよく使われるメールアドレス以外では「メールでの利用登録」ができない。
  2. そのため、インバウンドの外国人観光客や外国人ビジネスマンなど外国のメールアドレスを持っている人がメールで利用登録をしようとしても、10分しか使えない。
  3. これらの改変は設置当時の状況から変更されているが、変更されたむねのアナウンスは一切ない。

東京都の問題ではなく、運営会社の問題だとは思うが、それにしても、困ったものだなぁ、というのが正直なところだ。

 


宮崎さんも川上さんも役者やのぅ

P1180715現在、ネットのちまたでは「NHKスペシャル」の番組で、「宮崎vs川上」のバトルが話題になっている。この「バトル」では、ネット企業の創業者・ドワンゴの川上氏が作った「誰が見ても気持ち悪いアニメCG」を「宮崎が見せられて(人間的ではない、と言って)怒る」という、まとこに「わかりやすい」ドラマが出来上がっている。ネットでは拍手喝采、みたいな人が多いんだが、これって、企画者とか製作者がいるものだから、つまりハプニングでもなんでもなく、そういうことを意図して「作られた」映像ですよね。ってことだなぁ。

だって編集した映像で見せられてるんだからドラマみたいなもんです。川上さん、宮崎さん、ともにそれぞれの「役者」の役割をよくわかっていてアドリブで「演技」した感じだね。お二人ともそういう「見せ方」がうまいね。それぞれのキャラクターの自分の立ち位置を咄嗟に理解して、それを演じることに徹しているのね。こういう人が出世するんだよ。

そしてこのドラマのテーマとして「人間(臭さ)」というのを持ってくる。これもうまい。これはこの企画を立案したプロデューサーの力だね。世の中の移り変わりは激しい速さなんだが、人間一人はその速さについていけない。だから、どうしても、人間には「ノスタルジー」が生まれるのね。現代というものに対する不満も生まれる。そしてついていけないスローなところを称して「人間的」って言うわけです。新しいものは「人間的」って言われない。新しいがゆえに。そこを突いた番組なのですよ。言い方を変えれば「昔は良かった」っていうことですよ。そこを、このドラマはノンフィクション仕立てにして、それぞれ、それっぽいキャラクターに、よく知られたわかりやすいことを言わせて、全体ができてるわけですね。まぁ、プロレスみたいなもんだ。悪役のやられ役と正義の善玉のわかりやすい対比。鉄腕アトムとかもそういう感じだな。

ついでに言うと、川上氏みたいに若くしてのし上がってきた、って感じの人に対するオジサンの反感ね。これはホリエくんに対してもそういうものってある人が多いだろうけど、ホリエはもう叩かれまくって、最近はわかってきて自ら悪役に徹しはじめてわかりやすすぎて使えない。だから、ここには出せない。これをたたきのめすのが旧世界の権威のおじいちゃん。これ、いろいろなドラマで使われている「感動」パターンの1つなんだね。

で、このドラマの行き着く先は「旧世代・人間的」な宮崎おじいちゃんが「新世代・非人間的」な川上さんと一緒になって「最新テクノロジーで人間的アニメを作る」みたいなところに落ち着くと、まぁ、予定調和といいましょうか、なんといいましょうか、予め敷かれたレールといいましょうか、それで視聴者はハッピーエンドを見ることになるわけですよ。ここで決裂してもうお互い口聞かない、なんてなったら、先が続かないからねぇ。これ、視聴率上がると思うよ。これ考えた人、なかなかの知恵者だなぁ。

こういうドラマの作り方やテーマの選び方は、学びたいものです。

というかね。あくまでぼくの想像だけどさ、「ドワンゴ」がお金出して、「宮﨑駿」「ジブリ」の看板でアニメを作りたい。で、ドワンゴがやる以上は「CGをバンバンに使ったものをやりたい」。でも、世間一般ではこの組み合わせはなんとなくしっくりいかない。そこで、一計を案じて、NHKエンタープライズあたりも巻き込んで、NHKの番組で「バトル」をやってその物語の行き着く先は「和解と共同作業」に持って行けば、世間の多くの人たちも納得するよね。その過程をNHKが「映像で物語にする」ことによって、前評判を煽る。視聴率も取れる。視聴者は「なるほど、この組み合わせはこうやってできたんだ」と納得する。それと同時に、新アニメのプロモーションにもなる。なんてことがあったんじゃないかねぇ、とか思っちゃうわけで。お金は有効に使おうね。てなもんで。

もともとジブリもけっこうCG使ってるわけでね。そういうテクノロジーがあることを知らないわけでもないしね。


銀座SONYビル終了

img_6153ネットの記事を読むと、銀座のSONYビルのリニューアルに伴う終了で、いろいろな「懐かし話」に花が咲いているところもあるみたいだ。ぼくも子供の頃に、親に連れて行ってもらったことがある。たしかに、銀座の近代を飾るハイソな空間だったよなぁ、と思う。

その後、長じて仕事でSONYとも関わって、いくつかの仕事をした。SONYには特機というのがあって、要するに一般の目には触れない製品がけっこうあったんですよね。ぼくらはその一部をやっていただけなんだが、そうなると、いまどきのそこらの中小企業のIoT事業部のようなものなので、その時点で「夢のような製品を作るSONY」という消費者目線は外れてしまったように思うんだな。だから、古いSONYの消費者向け製品を見ても、懐かしいともなんとも感じない。「あぁ、そういうものもあったよな」程度の話だ。

昔と今が違うのは、コンピュータ製品や部品の価格だ。昔は数百万円したものが、今は数千円で手に入る。IoTもそうなんだが、ファンクションとしては昔からやっているもので、25年前には日本の大企業はほぼ今で言うIoTをやって工場をIoT化していたわけですね。でも、今はそれが劇的に安くなった。だから、今のIoTのターゲットは大企業ではなくて、中小企業にする、ってことになるんだな。ここに注目したところがIoTの勝者になるよ。

 


「本当はこういうことなんじゃないの?」っていう米国大統領選挙のお話

090812_193920ひょっとすると、トランプ自身も自らの「当選」にびっくりしていたのかもしれんね。今回の大統領選挙では、ヒラリーがメインでトランプは当て馬役、という役どころだったように見せていたはずなのに、いざ舞台に上がると、それがひっくり返っちゃった、って感じかね。予定調和が崩れたんだな。「主役」と「脇役の悪役」がいつのまにかひっくり返ったんだな。それが多くの米国人に望まれた、ってことがね、どちらにとっても、驚きなんだよね。

トランプ自身もそれをわかって「当て馬役」を引き受けた、ってこともあるのかもねぇ、と思うわけです。わざと嫌われるような「暴言」を吐きまくって、自分の役をしっかりこなそうとしたのかもしれないね。彼も米国の上位0.1%の高所得エスタブリッシュメントには違いないわけでさ。だから、トランプがこれからなんらかの圧力とかでいなくなったとしても、「なぜ彼が多くの票を集めたか?」という根本のところは、結局残っちゃうわけでね。その「なぜ」が解決されないと、これから米国の社会は大変なことになるんじゃないかと思うわけです。

その「残ったもの」が次の新しい時代を切り開いていくものなのかもしれないしね。いや、次の時代への予兆かも知れないけど、良くない予兆である可能性もあるね。そういうものが米国のみならず、世界の地表の下でうごめいている。

だから、ぼくにとっても、そしておそらく誰にとっても、トランプそのものへの評価なんてのはどうでもいいんだな。彼がいてもいなくてもいい。それが当て馬役の荒唐無稽な過激発言であっても、それを許し、肯定するか、許容する人が非常に増えた、ってことなんだな。なぜそれが増えたのか?そこが一番の問題だよ。なぜそういう人が増えたのか?力を持ったのか?ってことね。

たとえていえば、舞台で主役を張っているエリートくんを目立たせるために、「どうせ消えていくにきまっている」「当て馬」として、意味もなんにもない過激な台詞を吐く明らかな「バカ役」とか「悪役」を配しておいた、というのが全体のキャストだったんだが、いざ蓋を開けてみれば、その「悪役」のほうが人気が出てしまった、みたいな感じかね。

その昔、「ジーザス・クライスト・スーパースター」の劇団四季版を見たんだが、イエス・キリスト役の鹿賀丈史なんかよりも、ユダ役の欧州の舞台を数多く踏んだ寺田稔がとにかく深みも迫力もすごくて、明らかに寺田の演技や歌の迫力に、鹿賀が完全に飲まれてしまっていた、ってのを思い出した。あのミュージカルは、結果として、寺田ユダのための舞台だったといっていい。なにせ寺田ユダが最初に歌う場面を聞かせると、聞いた誰もがその歌が終わるまでじっと黙って聞き入る。聞いた誰もが、終わるまで息もせず、終わると「はっ」と正気に返り「はぁー」と息をする。そういう緊張感が溢れていた。あの言い知れぬ迫力は、明らかに鹿賀のイエスを食ってしまった、と言っていい。今でも寺田ユダの歌声は細部まで耳に残っているが、鹿賀イエスの歌はまるで耳に残っていない。

自分が見るに、イエス役の「ヒラリー」より、ユダ役の「トランプ」のほうが、上手だった。だから、一般的に聞けばあれだけの人種差別的「暴言」を吐きながら、多数に支持されたのだ、と私は思う。簡単に言えば「脇役」の配役を間違えたのだ。なぜ配役を間違えたかというと、トランプを凌ぐ人間的迫力のある演出家がいなかったからだ、と、私は思う。

まぁ、どの世界でも「正義」ってのは迫力はないものではあるんだけどね。