「火の用心」の声が聞こえる

拍子木を打って「火の用心!」の声がする。懐かしい、というよりも、それは日本のなにかが終わった音に聞こえる。

ぼくが生まれたとき、日本は高度経済成長という、日本の歴史で見ればそれまでに経験したことのない「好景気」が始まったときだった。今日よりも明日という日が良くなることを誰もが疑わなかった。

その経済成長は、田舎から多数の都会への人の流入を産み、ぼくの父母もまた、そういう地方から出てきた男と女だった。東京で結婚してぼくが東京で生まれた。

やがて石油ショックあたりから、経済成長の成長率が鈍化し、その後、札束が舞うバブルの時代。そのときはぼくはもう社会人だった。毎月のように仕事でアメリカに行った。やがて経済成長の時代は終わる。「失われた10年」がいつのまにか「失われた20年」になった。

私だけではない、全ての日本人が、思えば立ち止まることも許されない毎日が連続し、ただただ前に進んでいた。

「火の用心!カチカチ!」

子供の頃、聞いたその声と音は、耳に残っている。それが高度経済成長とともに、しぼんでいき、聞くこともなくなった。私が住んでいた東京の郊外には田舎から出てきた人たちが多く住みはじめ、小学校や中学校ではプレハブと呼ばれる簡易建築の教室が増えた。子供が増えたからだ。そして、「よそ者」が増えると、「火の用心」の声の代わりに、若者の飲み会帰りの歓声が聞こえるようになった。

いま私は東京の山手線の内側に住んでいる。その名前らしからぬ、庶民の街。戦災で焼け残った地域。ここも高齢化が進み、たくさんあった町工場も今は数えるほどしかない。その街の年末。静かな住宅街のこの街。シャッターで閉ざされた小さな商店街に再び拍子木の音が蘇る。

「火の用心!カチカチ!」

2016年師走の夜に響くその声と音は、日本という地域の狂乱の高度経済成長期という、日本の歴史はじまって以来の、束の間の繁栄の期間の終わりの音のように、私の耳に響いている。暗く寒く静かな、東京都心の住宅街の夜である。

「火の用心!カチカチ!」

 


正月は4次元の寂しさ

子供の頃から、毎年の年末年始は今ひとつ好きになれなかった。いつもの街の活気が大晦日に最高潮となって、正月開けて7日くらいまで助走期間みたいにだらだらと新しい年の最初の日々が始まる。

気がつけば、正月3が日はなにもかも休んでいて、その数日だけ、東京都心もゴーストタウンになる。誰もいない。やがて戻ってくるであろう喧騒が、永遠に戻らないものであるかのような、そういう錯覚を起こしたら、もう気持ちはパニックに近い。「みんなどこへいったのだ?」「ぼくはなんのために生きているのか?」そんな気持ちが沸き起こる。「この先、社会を失った自分はどうなるのか?」そういう不安も覆いかぶさる。人混みが恋しく、喉の渇きを覚える。やがて返ってくるであろう喧騒のときを信じられない自分がいる。まるで世界核戦争の後の廃墟ばかりの世界に一人降り立ったような、そういう底の深い虚しさを感じるのだ。

正月とはぼくにとってそういうときだった。だから、ぼくは正月が嫌いだ。今日と同じ明日が、明日にはやってくる。そういうことを無邪気に信じられる人たちがとてもうらやましかった。

このテンションの弛緩を楽しむ、という人も多いのだろうが、ぼくは一年中突っ走っていたいほうなので、この弛緩が好きではない。しかもクソ忙しくなる時期に年賀状を書く。正直なところ、このSNSやインターネットの時代に年賀状なんて必要ないと思い、昨年は一気にやめた。

多くの人は「生きている寂しさ」を社会を構成している自分のまわりに他人がいないことで感じ、他人と一緒にいることでそれを癒やすだろう。ぼくは「生きている寂しさ」を「時間」で感じている。そういう違いはきっとあるんだろう。ぼくはこれを「4次元の寂しさ」と呼んでいる。

周囲には亡くなる方も多く、いただいた喪中のはがきを横に置いて、年賀状を書くという行為そのものが、なんだか悲しみを増す行為にさえ思えてきた。しかし、「生き残る」ということはおそらく、その寂しさに耐えて生きることなんだろう。いや、生きるとはおそらく、確実にそういうものだ。

時代は移り変わっていく。その移り変わりには、そうあってほしい、というものもあれば、それはいやだ、というものもある。しかし、一人ひとりのそういう「希望」とは全く別のところで、時代は変わる。

年末年始とは、私にとって、そういうことを感じる時期なんだろうね。もう一歩上に自らを置いてみて、今年は年末年始の変わりようを生きてみたい、と、そう思うのだ。

 


「ママ、ご飯まだ?」を見てきた

一青妙原作の、映画「ママ、ご飯まだ?」を見てきた。ちょうど、ぼくなどの年齢の幼少の頃の家庭の雰囲気も出ていて、懐かしい感じがする映画だった。ストーリーは、簡単にまとめてしまえば、一青妙、一青窈さんの姉妹のこれまでの半生が、その母親を中心に描かれた、静かな映画である。妹が生まれたときのこと。父親の死、そして母親のもとで姉妹は育ち、母親もまた、若い姉妹を残してがんで旅立ってしまう。どこにでもある、と言えば言えるが、それぞれがそれなりに喜び、悲しんでその日を一生懸命生きてきた記録である。派手なアクションとかとんでもない場面が出てくる映画ではなく、一青妙さんのエッセイの静かな雰囲気をそのまま映画にしたような感じだ。1960年代あたりの高度経済成長期に日本で生まれて育った人には、懐かしい場面がいっぱい出てくる。一青妙さんご自身も、ちょっとだけ出てくる、という演出も面白い。あぁ、うちの家庭もこんな感じだったよなぁ、と思い出す。

台湾料理もたくさん出てくる。大根餅、台湾風ちまき、豚足、などなど。映画が終わると、腹が減る映画だが、帰り際、上映された場所にほど近いところに台湾料理店を発見してしまったが、そこに足が向かないようにするのに苦労した。大きなスクリーンに豚足を煮ている鍋が写ったりするのは、いくらなんでも目の毒胃に悪い。

実は私のFacebookの友人の中に、この一族の方がいる。そういう意味でも、個人的にとても身近に感じられる場面の多い映画だった。その場で、台湾の関係の懐かしい方々にもお会いできた。

日本映画に、こういうものもあっていい、と言わせるほどに、ある意味「よく出来た」映画である。高度経済成長期の日本とはこういうところだった、そして台湾とはこういう関係だった、ということが、肌で感じられる、そんな映画。この「エッセイを映画にする」試みは、元のエッセイの持つ雰囲気の心地よさをほとんどそのまま出している、という妙によって、成功している、と、私は思う。

日本の高度経済成長期の「家族」。その成長が終わる。変わる新しい時代には、こんな家族はもういないのかもしれない。そういう懐かしさも、またこの映画に漂っている。


人工知能の未来っていうのはあるのか?

たとえば、冬の寒い朝一番でクルマで仕事に行かなければならない、というとき、あなたのスケジュール帳を誰かが勝手に調べてくれて、車庫にあるクルマのエンジンを、あなたがクルマに乗るであろう10分前にアイドリングしておいて、クルマの中の暖房もONにしておいてくれる、ということが、もうすぐできるようになる。これを「人工知能がやっています」というと、商売的にはすごく良く聞こえるんだが、この程度のことは人工知能がなくてもできる。ちょっと気の利いたプログラマなら、さっさとハードウエアを買ってきて組み合わせ、自動車も車庫も改造してプログラムを書いて試験するのに、2日間もあれば十分だろう。

熟練したプログラマやハードウエアをやったことがある人なら、ここまでの話を聞いて、「あれとこれを組み合わせて、プログラムはこうやって書いて。。。」と、すぐに「答え」が頭の中に出ることだろう。

当然、外気温を取り出す温度センサーをつければ、気温が温かい場合はこういう動きはしない、などの設定をするくらいは、なんでもなかろう。雨が降っているかどうかもセンサーでわかるから、そういうときはどうするか、という動作も加えられることだろう。朝、車庫に自動車がなかった場合はどうするか?それだって、超音波の測距センサーがあれば簡単になんとかなる。

あなたの仕事がなんであるか。それはコンピュータは知らなくてもいい。あなたのスケジュールと行き先だけ知っていれば、こんなことは今ある技術とかで簡単にできてしまう。

実は人間がICTとかIoTに求めていることのほとんどは人工知能を使わなくてもできる。人間臭い動きをマシンにさせることができる。そういう意味で、今流行りの「人工知能ブーム」がどこまで続くか、ってのは、興味がある。

 


シリア後の「情報戦争」

12月12日、基本的にシリア全土はアレッポの勝利で政府軍の手に。反政府軍の防空壕からはNATO元幹部がぞろぞろでてきたとかいう話もでてきた。私が現地にいるわけではないから、当然又聞きのネット情報であって、真偽は確かめようもない。

結局、かつての東西冷戦の時代のベトナムに、シリアはなっていたのだ。いままた、そのアレッポでの住民の扱いなどの「人道的な情報」を元に、情報戦が始まっている。「非道なのはあっちだ」という情報戦である。つまり、情報戦は「世界」が戦場であって、その中でいかに多くの人心をつかめるか、という「目に見えない陣取り合戦」が始まっているのだな、と思うわけですよ。マスコミもネットのニュースも、要するにその道具でしかないんですよね。悲しく、かつ残念で悔しいことに、ネットやニュースで見る悲惨な子供たちの姿でさえ、そういう「情報戦」の「武器の一部」なんですよね。こういうときは。

そういう意味では最近話題のDeNAのキュレーションメディアの問題みたいに、ネット広告産業とやっていることはそう変わらない。なにせ私を含めた「普通の人たち」は、現地で戦闘しているのかしていないのかの真偽さえ、現地に実際に出向いて確かめる以外は、メディアを通してしか知ることはできないから、メディアが虚偽の情報を流せば、「そういうものなのか」と言うしかないわけなのだから。本当のところ、「戦闘をしている写真や動画」さえも本物の現地の映像であるかどうか、ぼくらは疑ってかからないといけない、ってのが今のぼくを含めた「一般人」のいるところなんだな。

ベトナム戦争が米国の敗北で終わったとき、米国のジャーナリスト、デイビッド・ハルバースタムが「ザ・ベスト・アンド・ザ・ブライテスト(The best and the brightest – 選ばれた最も聡明な人たち)」というルポルタージュを書き、それが世界的なベストセラーになった。この本は「なぜ最も頭が良いと言われた人たちが集まったのに、ベトナム戦争に敗北したのか」ということを真正面から扱ったルポルタージュで、多くのインタビューと物語で構成されており、日本でもサイマル出版会の翻訳で日本語訳がある。しかし、まぁ、なんというか、皮肉なタイトルの本ですこと。

今回のシリアはベトナム戦争の現代版と言ってもいいだろうな、と、私は思っているが、ベトナム戦争当時と今が違うのは、かつては第2次大戦を引きずった「領土拡張の戦争の延長」であって、今回は「知の領土拡張の戦争」であった(今もそうだが)、ということ。そして、なによりも「武器」としてマスコミのみならずインターネットなどの新しいメディアが加わったこと、などじゃないかとぼくは思っている。

「情報戦争」であるという側面から見れば、まだシリアでの戦闘は終わっていない(いや、始まったばかりかも?)、という見方もできるだろう。今後はどのようにこの「情報戦争」が推移していくのか?ハッキング、サイバーセキュリティなどもからめて、多くの「バーチャル戦闘」がこれから世界で始まる予感がするのだ。いや、実際には戦闘中からそれは始まっていた。

いま、私達は「情報戦争」の第三次世界大戦の中にいる。それゆえに「セキュリティ」の必要は、いよいよ人間社会に現実のものとなってやってきた。しかも、現実の武器もITなくしては考えられない武器ばかりだ。これからはITを制するものが、この世界戦争に勝利することだろう。

第三次世界大戦。それは情報戦でありサイバー戦である。

 


手軽な360度カメラの登場は従来のジャーナリズムの終わりを意味する

とにかく、どこでも360度カメラの映像 – 特に動画 – が見られる世の中になった。問題のアレッポの街を歩く映像などは、まさに自分がそこにいるかのような臨場感だ。遠くに聞こえる爆撃の音。顔を上げれば硝煙で真っ白い空。下に目を向ければ瓦礫となった町並み。左や右に視線を向けるのも自由自在だ。まるで自分がそこにいるかのようだから、「臨場感」はこれに勝るものはない。

映画もニュース報道の映像も、もう信用できない。それは情報の発信者が見せたいものだけが切り取られた映像でしかなくなった。目の前に戦場で泣いている子供がいても、振り返ればそこには映画のセットがあり、笑顔の子役の親とかカメラマンが見えるのであれば、その映像はフェイクであることがすぐにわかる。しかし、360度の映像ではそういうウソはつきようがない。このカメラがあの学生運動の時代のデモの真っ只中で使われたら、ぼくらはどんな映像を見ることになっただろうか?360度カメラはfakeを拒否する。

私達は今まで、テレビなどでは「情報発信者の見せたいものだけを見てきた」わけだが、360度の映像はそういう撮影者の意図は完全に無視され、現場のそのままが映る。言葉の世界でもそれは始まっている。DeNAの騒ぎでキュレーションサイトが続々閉鎖しているが、「まとめ」なんてのはある方向を持った意図的なものであって、そのまとめさえ必要ない。

言葉も映像もジャーナリズムはもう必要ないのかもしれない。360度カメラとネットがあれば十分。心地よく響く言葉もいらない。検索エンジンがあれば十分。今はその2つの時代のちょうど間に、ぼくらはいるのかもしれない。

360度カメラとはそういう存在なのだ。

 


オスプレイ落ちた。アレッポも落ちた。

 

なんというか、12月15日はさんざんな日だったなぁ。という感じ。アレッポは結局はシリアが制圧。これで平和は戻る可能性がある。そして、沖縄ではなにかと話題のオスプレイが落ちた。で、そのときの会見で、沖縄海兵隊のなんとかって偉い人が、謝罪したとかしなかったとかで、その中で「地域住民は感謝すべき」なんて言ったとか言わないとか、っていう話で炎上。どうも、英語の表現がちょっと違っていて、日本語での解釈では、この「Thanks」の意味とかその向く方向が違うみたいだね。元の表現は「Should be thankful that there was no damage 」ってことだったらしい。そうであるとすると、意味としては「皆が(米軍、乗組員の軍人とその家族、地域住民とその首長、その他関係者全員)」が、「幸運」「目に見えない力」(だから、神と言い換えても間違いではない)に、感謝すべき、という、そういう感じだね。日本には「唯一神」はいないので、感謝すべき相手がもともといない地域なんで、誰に対して「thanks」を言うの?ってのが曖昧であるので、こういう「言語と文化」の齟齬も大きな問題になる、という例ですね。経済も政治も「グローバリズム」の破綻の時期に来ている、そういう予兆をこの騒ぎから感じるね。

アレッポの陥落は「The best and the brightest」がフラッシュバックして見えたよ。