韓国に持ち出された仏像のお話とか

日本ではいろいろと議論があるし、韓国内でもいろいろな議論があるようだが、要するに今回の韓国の裁判所の判決では、「対馬から窃盗団によって韓国に持ち出された仏像はもともと倭寇が韓国から盗んできたものだから韓国の寺に返すのが適当」という判決だったわけで、韓国内でも、韓国政府は「昔の話はともかく、悪い韓国人が盗みを働いたのだから日本の寺に返すべき」という主張をしているのだが、韓国民も韓国政府と同じ主張の人もいればそうではない主張の人もいる、ってことなんだな。少なくともこの記事を読む限りにおいては、韓国の政府としては、「慰安婦像の釜山の日本領事館前への設置」も、今回の「対馬から盗まれた仏像」にしても、日本の政府と主張は同じである、ということだね。

韓国の政府の役人としては、「外交」を考えれば、日本だけでなく、他国とのトラブルは望まない、という姿勢なんだな。当たり前といえば当たり前。ただし、日本とは状況が違うのは、日本は「政府の言うことは基本的に国民の同意があるから、国の政府の言うことには日本国民はみな従う」という常識があるんだが、韓国をはじめとした諸外国では、それは常識ではないんだね。

たとえば、ぼくが韓国の大学教授をしていたときに経験したことなんだが、ある日、ぼくは職場の大学に行ったら、なぜか事務室もみんな鍵が閉まっていて、入れない。学校もなんとなく静かだ。おかしいな、と思って韓国の友人に電話したら、「今日は今年から公休日になっています」とのこと。しょうがないなぁ、と思って宿舎に帰ってテレビを見ていたら夕方のニュースで「今日は初めての公休日だったが、休んだ企業と休まない企業があって、国中が混乱していた」というニュースをしている。韓国民は韓国の政府の言うことなんか聞いちゃいないのだ。「それは政府が勝手に決めたことだから」という感じなんだな。日本であれば、政府が公休日を決めたら、共産党だって休みにする。しかし、韓国をはじめとした諸外国のほとんどは、政府なんてものはもともと信用されていないんですね。それが民主主義ってもんだよ、といえばそうなのかもしれないが。いやもう、あのニュースを見てその意味がわかったら、椅子から落ちそうになったよ。それくらい「常識」が違うのだ。

で、話を今回の仏像の話に戻すと、要するに韓国の政府は「あれは日本から悪いやつが盗んだものだから日本のお寺に返すのが筋じゃないの?」ってことだ。しかし、韓国の政府を全く信用していない韓国民のある部分は「あれは倭寇が朝鮮半島から盗んでいったものだから、韓国のものだから返す必要はない」という主張をしている。そして韓国の裁判所は韓国の政府の主張とは別に「仏像は日本のお寺に返す必要はない」と言う判決を出したんだな。

ここまでの経過でわかるだろうが、韓国という国と国民は「政府と国民の考えていることは違う」ということ。そしてその国民の中も意見が割れている、ということ。「韓国」という地域を代表する政府がすべての韓国民に信頼されて韓国の人たちが同じ主張をしているわけではない、ということだね。ここが日本とはまるで違う。

2年ほど前に、産経新聞の某部長さんと一緒に飲む機会があったので、そのことをお話したのだが、このことが全然理解できていないらしく、ポカーンとしていたのを思い出す。実際、産経新聞だって、韓国政府とあれこれやりあっているように見せてはいるが、朴槿恵大統領が娘時代によく東京が好きでお忍びで遊びにきていたのをエスコートしていた人たちの中に、産経の方もいらした、ってのは聞いたよ。

ちょっと考えて見ればわかるが、イギリスの大英博物館にはエジプトから略奪してきた物品が堂々と「エジプト・フロア」に飾られている。でもそれをエジプトに返すと言う話は、あまり聞かない。数百年前の話とかはもうどうでもいいんだね。だいたい、英国は世界をまたにかけた海賊みたいなもんだった時代があったわけですよ。「大航海時代」なんていうけど、そのかっこいい言い方は「略奪するほうから見た言い方」だしね。略奪されたほうは「泥棒」って言うわけだよ。口の悪い人は大英博物館のことを「泥棒博物館」って、昔から言ってたんだから。

今回話が出てきた「倭寇」ってのも、韓国側から見れば日本から来た海賊のことでね。仏像どころじゃない略奪をいっぱいしていて、それにほとほと困った当時の朝鮮の王朝は、ルールを作って日本とのまともな貿易を始めたんだね。それに使われた「正式な港」が釜山だったわけだ。その時代は日本だって今の日本政府じゃないし、韓国だって今の韓国の政府とは違う政府なんだな。だから、何百年も遡った話をするんだったら、北朝鮮にだって「その仏像はおれのだ」って言われてもしょうがないわけですよ。そこまで話を複雑にしたら、それこそ整理もつかないし、お互いに困った話になるわけで、現在の韓国の政府だって、そういうゴタゴタは避けたいと思うのは当たり前だよね。

実際、日本と韓国は数百年前に遡れば、今の東京と関西圏くらいに近い仲だったわけで、しょっちゅう船で行き来していて、そこには悪いやつもいっぱいいた、ってことだよね。

ということで、日本の政府の主張も韓国の政府の主張も全く同じ。でも、韓国の政府は日本の政府ほど国民に信頼されていない。だから、韓国の政府にとって見れば、日本政府からの「抗議」は、「言われていることは正しいけど、ぼくらじゃ収めるのは無理」って感じなんだな。政府ってものの重さがもともと違うのね。

ところで、日本の政府の役人は終身雇用だけど、韓国の役人はほとんどが契約社員で、1年とか2年の契約の雇われなんだな。だから、成績が悪いと、来年は同じ場所に同じ役人はいない、ってことになる。政策の継続性なんてほとんど日本ほど保証されていない、と思ったほうがいい。実は政府の役人が終身雇用である日本みたいなところは世界では少数派なんだよ。日本政府も今や1/3くらいの人は非正規になってきているらしいけどね。そういうこともあって、韓国の政府は日本の政府が考えているほど「重い存在」でもないんだな。

文化とか社会制度の違い、ってのは大きいよ。特に外国となにかするときはそれを考えに入れておいたほうがいいよ。日本自身がもう「アジアで一番」じゃなくなったからね。

 


「5年以上前の情報は役にたちません」

現在70歳を超える経営者とか技術者の方、退職した方などとお会いすることが多いのだが、なぜか自慢話ばかりが多い。他の話をしているはずなのに、突然それが自慢話になっているのに、自分でも気がつかない。その方々は自分がスーパーマンみたいになんでもできる人間で完璧な人間で、自分以外はバカばっかりだ、みたいな言い方をするんだな。どう考えても、そんなことはないだろう。

その方々の自慢話の中では、「自分が優れた人間であるから結果が出せた」と言う話に終始するんだけど、それ、周辺の環境が良かったから、ということは話さないか、あるいはそういう認識がないんだね。つまり、歴史をちゃんと勉強していないから、自分が歴史のどこいらへんにいるのか?ってことがわかってないのね。それでいいと思ってるんですよ。

戦争ばかりでどうしようもない環境ってのも昔はあって、その時代にいくら頑張ってもダメなものはだめでしょ、ってことをわかっていないんだな。日本はその昔、間引き、姥捨て山、そういう話がゴマンとあったところですよ。特に日本の歴史を見ると、日本の戦後1960年代から1990年代までは、日本という地域の歴史の、おそらく最初で最後の素晴らしい発展があった時代なんだね。これは世界経済の歴史を見ても、ほぼおなじ頃に「先進国」の礎がみなできている。日本はその先進国の端っこに偶然にいたに過ぎない。

そこでがんばったことは、おそらくかなりの確率で成就したわけで、そういう時代に生まれた幸運というものは必ずある。でもその幸運に感謝の言葉の1つもなく「おれはすごかったんだ」という人の醜さは、自分を映す鏡がないとわからないものなんでしょうね。その鏡は「歴史」にあるわけだが、その歴史を知らないんだね。

だから、そういうおじいちゃんには、幻滅する。でも、その人が高齢だから幻滅するんじゃない。自分が生きてきたこの幸運な時代の環境についての客観的な認識が無いから、その幸運に感謝する、ということなしに、自分の自慢話を無自覚に始めるから、幻滅するんですよ。そういうおじいちゃんたちを見ると、「あぁ、人というのは愚かなものだな」と言うつぶやきが漏れてきて、「自分はもっと勉強して幸運に感謝して生きよう」って思うんだね。

この前、韓国の話をしてくれ、というので、お話に行った。ぼくは直近で韓国の大学の教授をしていたから、軽い気持ちで行ってきた。最初に「皆様も韓国でお仕事をしたりしたときがあったでしょう。でも、5年以上前の情報をお持ちなら、それはいま一切役に立ちません。だから、そういう話は最初から頭から消してください」と言ってから、韓国の話を始めたんだな。最初に言っておいたにもかかわらず、ぼくの話が終わったら「俺が行ったときはこうだった」みたいな自慢話がしたくてしょうがない、不良老人がいっぱい湧いてくる。だから、最初に言ったでしょ?って言っても聞いてないんだな。耳が遠いのかも知れないけどね。人間は自分が見たいことや聞きたいことだけ見たり聞いたりする、ということだね。そういう人たちを見て醜いと思ったよ。

一方、私が他のところで付き合っている高齢の方の一部の人は、謙虚で、「ぼくらの時代はそういう時代だったんです、ってこともあるんでしょうね」と、必ず付け加える。「私は生きているのじゃなっくて生かされている」とか、自分のことをことさら偉く言わない。でも、ぼくは知っている。その人が米国の仕事から帰ってきたときに、なんの受験勉強もせずにTOEICの試験を受けてみたら、満点に近い成績だった、ってことを。それだけじゃなく、日本の某企業で大きな仕事をいくつもこなしてきていて、でもそのことは多くを語らない。在職していたときの役職も言わない。でも、その人がそこにいるだけで、それが具体的なものではなくても、よくわかる。そして、今を楽しんで生きている。

優秀な人とはそういう存在なんだな、というのが、近くにいてよくわかる。そういう人は多弁ではない。偉ぶらないし、自分の仕事は「当たり前のことをしてきただけ」というだけで、多くを語らない。前にいるだけで、自然と自分が素直になるのがわかる。ウソをつけない。自分を大きく見せる必要もない。安心して近くにいられる。

高齢者といっても、いろいろな人がいるものだな、というのがぼくの思いだが、自分はやはり、しっかりと歴史も勉強して、この先を楽しく生きていたい、と思う。人生の師はぼくにはいない。でも、目標となる生き方をしている人には会った。それは貴重な体験である、とぼくはいつも感じている。

 


訪日外国人の真実

訪日する外国人観光客やビジネスでの訪日客は日増しに増えており、日本政府としても、「観光日本」の名に恥じないその数を誇れるようになるまで、もう少し、という感じだ。ところで、2016年の訪日外国人では、中国人が一番多いのをご存知だろうか?訪日外国人客の統計は日本政府の観光局にそのデータがある。2017年1月17日に発表されたこのデータには、訪日外国人客の国籍のデータもある。この2016年のデータによると、ダントツに多い外国人客は中国人で6,373,000人。約640万人。次いで多いのが韓国人で、5,090,300人。約510万人。つまり2016年の中国と韓国からの訪日客数は、1千百万人を超える。訪日客数の総数が2400万人だから、おおよそ訪日外国人客の半分が中国と韓国から、ということになる。最近東京のJR各線や私鉄各線では駅の表示に中国語や韓国語が目立つが、むべなるかな、という感じである。

この2国に次いで多いのが、台湾からの訪日客で、4,167,400人。おおよそ420万人。台湾という地域にいる人たちはおおよそ2300万人だから、リピータがない(ってことはないとは思うが)とすると、実に台湾人の20%近くが日本に来ている計算になる。次いで香港からのお客様は1,839,200人で約180万人。

ここまでで、1750万人になるわけだから、訪日客総数2400万人のうち、なんと7割以上が、中国、韓国、台湾、香港からのお客様、ということになる。ここまでで白人はいないわけだ。であれば、テレビでよくやっている「訪日外国人」を相手にした番組などで出て来る「白人」は本当に少数派だ、ということになる。私たちは「外国人」というと、ついつい米国人や欧州人を思い浮かべてしまうが、実際はそれは幻想だ、ということになる。

ちなみに、米国からのお客様は白人だけではもちろんないわけだが、1,242,700人だから、全体の5%くらいになる。かなりの少数派ということになるのだ。

数字は正直である。

 


グローバリズムと映画:「沈黙 – サイレンス -」

キリスト教の本義は他の宗教と同じく、そのカルト性にあります。救済だけでなく献身を要求する。いやむしろ、献身のご褒美として救済が語られる。そうでなければなぜ「信じるものは救われる」なのでしょうか?「救ってくれたから信じます」ではなぜないのでしょうか?なぜ「慈悲」が最初に来ないのでしょうか?

あるいは、「沈黙」のテーマであるようになぜ一番必要なときに神は「救ってくれない」のでしょうか?

逆を言えばわかりやすいでしょうか。「信じないものは救われない」のです。信じても救われる保証はないのです。これは「神との不平等な契約」なのです。つまり、まず「献身」があり、その献身の結果としての「救済(リターン)」がある。しかし、そのリターンは保証されていない、という契約です。Give & Takeはまず神が献身による恩恵を受け取ってから、神が慈悲を下し人を救済する。これが「神との契約」ということです。この順番は、この順番だから「宗教」が「宗教」たり得るのです。当然ながら、国家政府も似たようなことをします。国家政府も宗教も本質的に「多くの人を集めて同じ方向に向かわせる」のが、これらの人間の作った社会の有り様なので、だいたいにおいて、似たようなものにならざるを得ません。ときによっては、宗教や国家だけではなく、企業も同じようなものである、と感じることもあります。それは現代の日本ではときどき「ブラック企業」と呼ばれるようですが。

しかし、国家政府は税収で成り立つので、国民を締め上げれば税収は減り、国家政府が成り立たなくなる。反対運動も起きます。また、企業は目的が「お金を儲けること」です。非常に明確な目的を持っており、Give&Takeもはっきりさせている。会社と社員の契約に不満であれば、最後には会社を出る、という選択もできます。それらは有限の囲いなのです。国家政府はかつては無限の囲いのように見えていましたが、今は違います。だから、宗教だけが現代に残された「最後の人間を縛る囲い」ということになります。その宗教が自分を救ってくれない、ということがわかったとき、「背教」が起きます。

神が救ってくれない以上、自分で自分を救うしかありません。そして「信じた」自分も救わなければなりません。つまり矛盾の中にいる自分を、心理学で言うところの「(自己の)合理化」でなんとかするしかない。それが「信仰をより深めて、悟りの境地に達する」ということです。人間は神を創り、神との不平等な契約に苦しみ、その不平等な契約に自分をあわせて生きていくことを強いられ、それを達成した人を「悟った人」と言うわけです。

だからこそ、キリスト教には、「家族よりも神を愛せ」という根本がある。キリスト教における「愛」は「男女の恋愛」でもなければ「家族愛」でもありません。あくまで「神への愛」だけです。だから、こういうこともあるわけです。これはかつてのオウム真理教からキリスト教に至るまで、宗教と名のつくものはすべて同じです。そして、この行為は「慈悲」とは違う側面を持っているがゆえに、宗教自身が矛盾をさらけ出すところでもあります。

「沈黙」に見るように、宗教の矛盾がさらけ出され、それに多くの人が「No」を言うのが、現代です。それは過去の時代と現代の「環境の変化」によって顕在化したものです。

宗教とは、もともと地域に根ざすもので、その地域から出られない人たちを前提とします。同じ地域にいる限られた資源としての「人」を奪い合う。そこに他宗との争いも生まれる。しかし安価で速い航空機と一瞬で地球の裏側でも情報を安価にやり取りできるインターネットの出現によりグローバリズムが表に出てくると地域性は当然揺らぎます。「生きてここにいられないのであれば他の地域がある」という風穴が地域の閉塞を破ります。そこに従来の地域に根ざした国家や宗教の重さが減っていく因みがある。多くの難民は、自分の土地とは違うところにどういう土地があるか、という情報を得られることによって、今いる地域から、他のより住みやすいと思われる地域に移動をするための行動を起こします。それは他の地の情報があるからです。過酷な条件で仕事をすることを強いられている人は、転職サイトで転職先を探して転職します。情報があり、それが手の届くところにあるからです。企業は転職を簡単にされたら困るので情報を遮断しますが、現代では完全な情報の遮断は無理でしょう。この変化は後戻りできない変化です。地域を越えた情報の流通をいま阻止したとしても、既に情報は人々の頭の中に大きくどっしりと根を下ろしているからです。

「沈黙」はかつて篠田正浩監督が一度映画にしています。両方を見るとわかりますが、スコセッシの時代の宗教解釈と篠田と遠藤の時代の宗教の重さが違います。ここに着目すると、スコセッシの旧時代性はむしろ宗教が元気だった時代へのロマンでありノスタルジーであることがわかります。つまりスコセッシにとってのキリスト教(の苦悩)は「過去」であり遠藤と篠田のキリスト教は「目の前の現実」なわけです。だから、拷問の場面などのむごたらしい映像がなくても、篠田版のほうが迫力があるのです。むしろ、だからこそ、スコセッシは拷問の場面などのリアリティの追求で、話題になるように映画を作らざるを得なかったのだろうと私は思います。

ぼくがインターネットを始めたとき、その変化はぼくが目指したものである、当時そういう世界を明確に意識していた、と言っておきましょう。実際そうであったからこそ、ぼくは渾身の力を込めてこの仕事をして来た。それが戦争を減らす手段の1つである、と思ったからです。これはぼくがインターネットを仕事にしてきた大きなメインの理由です。そういう意味でスコセッシの現代における新しい解釈の「沈黙」の軽さを作ってきたのは僕らであった、と言っておきます。そしてそれは、ぼくにとって、とても望ましい変化です。


朝のコーヒーチェーンで実験

朝、よくチェーン店のコーヒーショップを使う。ドトールの恵比寿のお店でちょっと実験。注文するとき、まず最初に「こちらでいただきます」と言う。次に「このカードで払います」と言って、最期に注文メニューを言う。こうすると、マニュアルとは順序が違うので店員さんは混乱する。最初に言ったこともまるで覚えていない。

つまり、アルバイトの店員さんは機能ごとに考えてものを言うわけではないから記憶に残っていない。「で、お持ち帰りですか?」って後で聞いてくるから「さっき言ったよ」って言ったら、「聞こえなかったのでもう一度」って言うわけですよ。で、「覚えてないの!?!」って言って挙げるわけです。つまり、機械が店員しているのと変わらない。数秒前の短期の記憶も消えてるのね。まぁ、アルバイトだから、仕事にそんなに精を出しているわけでもなく、頭を使う仕事だとも思っていないでしょうし、この日本の仕事がほとんどない状況でなんとか少しでも稼げるからやってるんだよ、ってことだし、店員さんを悪く言うつもりはないんだけどね。

ニワトリは三歩歩くと、三歩前のことは忘れている、って言って「とりあたま」って言うんだけど、まさにドトールの恵比寿の店員さんは「とりあたま」なんだね。いや、そのほうが管理はし易いわけですよ。でも、そういう人に高い人件費を払う必要はないです。機械でいいから。

ドトールにはもっと儲かる方法を教えてあげると、ドトールは店員のアルバイトやめて、タッチパネル式の端末で注文を受けるようにすると、すごく人件費の削減になるんじゃないかと思うのね。で、もしもの問題が起きたときに、マシンの監視をしている店長さんだけがお店にいるようにするの。話題にもなるし、儲かると思うよ。調理はバックヤードでやるわけだから、こちらもロボット化すると、人件費の大幅削減になる。既にある程度はセントラルキッチンでできるものは半完成で持ってきているから、ロボット化はけっこう簡単じゃないかと思うのね。

こういう「合理化」は、そのファーストプレイヤーだけにメリットがあって、後続のプレイヤーは逆に客を減らして淘汰されていくものだし、できるだけ速く、こういう合理化はすべきだと思うんだな。

数年前だったら、ファーストフードチェーンの店員さんでも少々この順序を違えても、ちゃんと対応できたんだけど、最近は対応できない。そういう時代になったんだな、と思うわけですね。つまり、人間が機械になってきた。このサービスを受ける側も自分が機械であることに文句を言わなくなってきた、とも言える。だから、サービス業はもう人間をなるべく使わないで、機械にすると、もっと利益があがる。売るものも安くなるから、お客様も増やせる。これがいいんじゃないかと思うよ。ただし本当に利益をあげられるのはファーストプレイヤーだけなんで、そこは間違えないで欲しいと思うんだけれども。

みんなもこういうのを実験してみるといいです。

 


日本の「危機」の姿

この数年で日本人の価値観や働き方は急激に変わって来た。非正規労働の常態化、製造業の没落、一流と言われる大企業の存亡の危機の到来、日本が最高に良かった時代を知る人たちの高齢化、世界の中での日本という地域の立ち位置の変化。この変化は20年ほど前から始まっていたのだが、恵まれていたがゆえに気がつかなかった多くの大人は要するに頭が悪く、訓練もされていなかったため、この変化を受け止め新しい時代を築くことができなかった。

思い返してみればこの変化に気がつく人は少なく、この変化に対応できる頭の良い人はさらに少なかった。大多数は結局変化をなかったことにして見ることをやめた。その結果の衰退は当たり前といえば当たり前の結果である。かつてのローマ帝国もこうやって滅んでいったのだろう。地域やその政府やその地域にある人間の組織は病に侵されたように内部から腐っていくが、誰もその腐敗に立ち向かうことができず滅びの道をひた走る。自らの身を守ることばかりで自らの身を切って全体に奉仕して命をかけるノーブル・オブリージェが美徳である社会は地上からなくなった。日本もその一つらしい。それを知る老人の寿命もそろそろ尽きるだろう。

小さなことかもしれないが、道端にあるゴミを拾う。こんなことの積み重ねがほんとうは必要なのだ。そのゴミがあることで誰が不快になり、誰が困るのか?自分がその「困る人」だったら、どうしたらいいのか?そういう想像力がなぜ働かなくなったのか?

自らと自らの属する人間の社会の変化は常にある。その変化を感じ取ることの大切さを結局は誰も教えようとしない。人間社会とは他人への想像力を基盤に作られている。その想像力が働かないのだ。

これが本当に我々自身に訪れている危機そのものである。と、私は思っている。

 


我が師

思い出してみれば、ぼくにはこの人と定めた「師」はいない。いままでに一人もいなかった。「人につく」のじゃなくて、「ファクトにつく」感じだったから、たしかにそのときそのときにいろいろ教えてもらったり、恩を受けた人はいる。「一生の恩」というのは、親に対してはもちろんある。ただ、親以外となると「人に心酔する」ということはなかった。自分も完全な人間ではないし、他人も完全な人間はない。そう思っていたから、古い形での「師」というのはいない、とずっと思っていた。今でもその感じは持っている。

深町純のピアノで「仰げば尊し」をCDで聞いた。

小学校、中学校、高校、大学と進学したが、どこでもその卒業式に歌われていた歌だ。だから、よく覚えている。「仰げば尊し、我が師の恩」というやつである。ピアノ演奏を聞きつつ、つい口に出る。しかし、同時に違和感がある。「自分には心酔するような師」というのはいなかった。だから、違和感があるのだ。そういうことが普通なんだろうか?たとえば、あるひとが「師」だとしよう。しかし、師も人間である以上、周囲の環境によって変わるはずだ。であれば、昨日まで「仰いで、尊かった」師も、今日は「ただの人間のクズ」かもしれない。其の逆だってあるだろう。人間は変わるのだ、と、ぼくは小さい頃からそう思っていた。その変化が当たり前だと思っていた。結果はぼくはこの年齢になるまで「師」を持たなかった、ということになる。

この人間認識は間違っていたのだろうか?と思い出すと、やはり間違っていなかったと思う。「師」はいない。変転し、変わっていく人間がそこにいる。それだけだ。

「仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも はやいくとせ」

よく覚えている歌である。それを歌わされたときの違和感とともに。