韓国にも「パラサイト・シングル」

朝鮮日報のこの記事を読むと、いろいろ思い出すことがある。つい最近まで私は韓国の大学に2年間教授としていた。そのとき、学生と以下のようなやりとりがあったのだ。

私 :「ところで、君は卒業したらどうするんだ?」
学生:「サムスンに行きたいです」
私 :「でも君の成績じゃ無理だろう?そのときはどうするんだ?」
学生:「そのときは、親が家にいろ、って言ってます」
私 :「(ニート一丁上がり!か。。。。)」

そのとき、韓国は景気が悪くなってきたとは言うものの、それでも日本よりははるかに景気がいいと感じた。親の世代は裕福で、就職できない子供が一人いてもなんとかなる状況ではあった。それくらいはなんとかなったし、子供が就職しているところが名もない企業であることを、親は嫌う。世間体が悪いからだ。日本の社会よりも、韓国の社会のほうが、こういうことを気にする。かつての日本と同じように、韓国は「ロッテ」「サムスン」「現代」と言った大きな企業がこれから100年先も500年先も大丈夫だ、という顔をしていた。

日曜日になれば、親子でロッテデパートに行き、家族の服をUNIQLOで買って、デパートのレストランで家族で食事をし、クルマのトランクをいっぱいにして家路につく。そんな生活をしている人がたくさんいた。週末のデパートは歩くのも大変だった。まるで日本のバブルのときを見るようだった。

いま、韓国の大企業が軒並み揺れだした。それでも、大丈夫だ、とまだ思っている。日本ではかつての大企業が潰れるかもしれない、という話があちこちで聞かれる。

ぼくは授業の中で、学生に、こういった。二度ほど授業の中で言ったと思う。

私 :「ぼくは君たちの未来から来たんだ。その経験から言う。就職は小さな会社でもいい。できるところにしっかりと入れ」。

学生はみな私の言っていることがわからず、「ポカーン」としていた。

日本人の私にはわかった。この国にはすぐに冬がやってくる。それは私達日本人がたどってきた道、そのものに見えたからだ。

日本は第二次大戦後、アジアの先陣を切って高度経済成長に向かってひた走り、冷戦の最前線の一歩手前、という好立地で世界に「モノ」を供給する基地となり、それまでの日本にはないほどの繁栄をした。そして冷戦が終わった。ベルリンの壁崩壊、ロシアの共産党崩壊などを経て、日本という場所の有利な立地はなくなり、「眠れる獅子」と言われた中国が目を覚ました。その中国の需要で、この前までの韓国は生きていたし、今もそうだ。なんの偶然か、更に韓国には日本の3.11に匹敵する大地震も来る可能が出てきたという。

老朽化したものは廃炉が決まったとは言うものの、韓国もあの狭い国土に多くの原発を抱えている。先行きが不安だ。

日本は高度経済成長期を終えた。それに追随してきた中国や韓国、台湾はその経済成長のピークを迎える前に、世界的不況の荒波の中に沈もうとしているようにも見える。

 


「若者のPC離れ」の処方箋は?

最近話題になっているのが、「若者のXX離れ」なんだが、この「XX」には、自動車とか海外旅行とかが入る。最近出てきたものには「PC(パソコン)」がこれに加わった。要するに、諸外国に比べて、日本の学生のPC保有率がすごく低いと。IT時代の昨今には、これはいかがなものか?という論調ですね。中には「若者向けPC」と称して、10万円とかする高いPCを売りつけよう、という前時代的感覚のヨタ話もあって、なんだか世の中の金銭感覚が場所によって随分違っているんだなぁ、と思うことしきり。

まずはPCだけの話をすると、既に今どきノートPCで10万円超えは正直つらい。lenovoとかASUS、acerなどのメーカーのPCであれば、だいたい5万円とかで日本製の10万円くらいする機能の機種が手に入る。若い人間ほど所得も高くないから、もっと辛いはずだね。

ところで、米国では、現在はMacBookよりも、GoogleのChromebookというノートPCが良く売れている。Chromebookは安いもので値段が1万円台のものからあって(秋葉原では中古のものだと2万円しないことがある)、電源を入れてほとんど5秒くらいで使えるようになる。Googleのクラウドサービスを使うのが前提のPCなので、ハードディスクなどという壊れやすいものもついていない。壊れにくいのに、壊れたときも(惜しくないと言えばウソになるが)10万円のものを壊す場合とやはり気分が違う。日本でもChromebookが入ってきているが、まだ僅かしか売れていない。これは販売店がより利の大きくて高い従来のWindowsが入っているPCとかMacを売りたいから、という理由だと思うが、そうは言うものの使う側にしてみればChromebookで十分、という場合はとても多い。自分の場合だが、やはりビデオ編集などのCPUパワーを食うものはPCにしたいが、それ以外であれば、Chromebookで十分ことが足りる。個人的には、だが、この安価なChromebookが日本の若者のITスキルを救うと思っている。

この日本の景気では、日本の多くの若者に使えるお金は限られている。大人だって限られているのだから、若者はもっと限られている。その若者は10万円を使えるとして、PCを買うだろうか?PCみたいな役目もできて、持ち運びも容易なスマートフォンなどを買うのが当たり前ではないだろうか?お金が無いのである。であれば、2万円そこそこのChromebookを売るほうがはるかに「若者のPC離れ」を防ぐことができるのだろうと思うのだが、日本のPCメーカーはほとんどChromebookを作って売っていない。

時代が変わると、状況も変わる。環境が変わる。その変わる環境についていけなければ、やはり淘汰されてしまうしかないのじゃないだろうか?

 


人工知能研究のゴール

ところで、人工知能ってもののゴールは人間と同じことを考え、人間と同じ振る舞いをするものを作ること。もしもそれができたら、人間と同じように間違うだろうな、とも思うんだな。また、これ以上、増えすぎた人類に同じようなものをさらに増やしてどうするの?って問題も起きるだろう。

実際、人間と同じものを作るには、人間にある「五感」なんかを人工知能にくっつける必要がある。歩いて行動し、なにかを手でつかみ、その感触を得て、そして思考して。。。ということが不可欠なんだな。でも今の人工知能にそれはない。人工知能というのは、そのゴールに至るまでの過程で、人間が得るいろいろな知見を使って、人間の役に立つことを考えたり、新しい知見のためのさらに新たな知見を得る、というようなもので、ゴールに至るのは本当の目的ではない、というものなんだな。

これは遺伝子の研究なんかでも言えて、こっちのゴールは「人間を作る」だからもっとややこしい。五感や知能のある人間を作れば、それは「人間」ではないのか?人口問題は?など、人工知能と同じような悩みがあるだけじゃなく、それらがもっと深刻になる。今、考えられているどころではない厄介な問題が当然出てくることは間違いない。

どっちも、ゴールは決まっている。しかし、本当に人間が得たいのは、ゴールではない。ゴールに至る過程で得られる、私達人間自身への理解であり、その応用なんだな。

今の人工知能「ブーム」は、そういう視点が欠けている、単なる「お祭り騒ぎ」でしかない。「夢のような社会が来る」ばかりが喧伝さえるし、いやなことなんか、やっぱり起きて欲しくはない。でも「いやなことは考えない」と、大きなクライシスが人間に襲いかかる。それは、この歴史の中で、ぼくらがさんざん経験してきたことじゃないのか?

歴史は繰り返すのだ。人間自身の愚かさに人間自身が謙虚に向き合わなければ。

 


台湾のお寺は「駆け込み寺」

今の日本のお寺はどちらかというと「葬式仏教」と揶揄されることが多いように、冠婚葬祭、しかも葬式のときにしか存在感がない、というのがやはり実感だろう。しかし、台湾のお寺は違う。存在感がある。地域に根ざして生きている。子供の頃はお寺で遊ぶ。やがて長じて子供が大人になる。親が死ぬ。でもお寺は子供の頃のようにそこにある。世代を超えて、お寺の存在感があるのだ。

職場でセクハラなどいやなことがあった。家に帰りたくない、という女性がいたとしよう。彼女は、家路の途中でお寺に行く。そのお寺の家族が彼女を迎える。お寺にはたいてい厨房があって、食事ができる。多くの台湾のお寺で出す食事は「台湾素食」というベジタリアン料理だ。肉の代りに大豆グルテンなどを使うから、見た目には普通の中華料理に見えるが、肉は一切使わない。しかも暖かくて美味しい。

彼女はお寺を守る家族の人と一緒に夕食を取る。会社でいやなことがあったことや、家に帰ると夫が。。。という話をする。お寺の人は夕食後にお寺の中にあるいくつかの道教の神様を線香を持って回るように言う。お寺の人も一緒に神様の間を回る。彼女の気持ちは落ち着いて来る。お寺の人が言う「今日だけは家に帰らなくていいよ。ここに泊まっていきなさい」。お寺には簡単ではあるが宿泊施設も整っている。彼女は家に電話をして「今日はお寺に泊まる」と家族に伝える。

翌朝、すっきりした顔の彼女は、お寺の人とお寺の朝ごはんを食べて、元気に職場に向かう。

昔は日本でもあった風景だとは思うが、台湾のお寺というのは、つまりそういうところだ。

 


「垂直統合」がなくなった製造業の終わり

製造業では、最近は「ファブレス」が流行っている。最近というけれどもここ10年くらいだろうか。要するにメーカーは自社で工場を持たず、外部の会社に製造を委託する。昔は「OEM」とか、提案や企画込だと「ODM」と言ったものだが、今は「ファブレス」という言葉が一般的だろう。

20年以上前の日本の製造業が強かった時代は、たとえば、ブラウン管を作る技術がある会社が、テレビを作って売っていた。ブラウン管を作る技術の無いテレビメーカーは高いブラウン管を他の会社から買ってきて自社の製品に入れることになるから、同じ性能でも値段の高い製品ができる。だから、売りにくい。自動車であれば、エンジンという重要で開発も量産も難しい部品があって、エンジンを作れるメーカーが自動車メーカーになった。その製品の「キーデバイス」というものがあり、キーデバイスを作れるメーカーがそのキーデバイスで製品まで作ったから、すごく利益率が上がった。儲かったのだ。垂直統合という製造業の形態はこの時代に大きな成長を遂げた。これはまごうかたなき「成功体験」である。今では古くなってしまったが。

しかしテレビのブラウン管が「液晶技術」ということになると、ブラウン管=真空管の時代ではなくなった。それはそれだけで専門の研究者や技術者がいないとキーデバイスを作れない。世界経済も減速し、製造業も世界的に弱体化したから、液晶技術を持つところがテレビを作っても儲からない時代になった。

自動車もそうだ。電気自動車になると、PCのように、「モーターを買ってきて」「電池と組み合わせて」云々、という時代になる。コモディティ化されたコンポーネントを組み合わせて自動車ができる。垂直統合はもうここにはなくなる。電気自動車の雄である米国テスラは、モーターは台湾製、電池はPanasonic製。既に垂直統合ではない。トヨタはガソリンで動くエンジンをキーデバイスとしていたわけだが、ガソリンエンジンから離れたとたん、市場を失う恐れがあるから、時代の変化の中で世界で生き残るために「ハイブリッド」にする。完全な電気自動車では、これから台頭してくるであろう中国などの巨大メーカーには太刀打ちできない、組織が維持できない、ということになるのがわかっているからだろう。

「垂直統合」モデルはかつて成功したが、今は必ずしも成功するモデルではなくなった。時代が変わったのだ。

「垂直統合」という「成功体験」を持つ日本の企業組織がこの世界市場でさらに長く生き残っていくためには、2つの道がある。1つの道は、世界市場の動きにあわせて自らを変えていく道だ。もう1つの道は、成功体験を抱えたまま鎖国し、日本国内という閉じた場所のみを相手にした仕事に戻ることだ。「引きこもり」である。

いま、米国はトランプ大統領の誕生でこの後者の道を選んだように見える。そして、対する中国は「グローバル化」を声高に言う。「引きこもり」ではだめだ、と言っている。日本も米国に習って「引きこもり」になろうとしているのではないか、と私には見えるのだが、それは集団で死地に向かうレミングのたとえの光景を思い出させる。

「第三次世界大戦」は、「グローバル化」対「引きこもり」の戦争になるのだろうか?

 


「減点法」で生きにくい世の中が始まった

いろいろな仕事をしていて思うのだが、今の日本では自分も他人も「減点法」で見て行動する人が多い。日本の高度経済成長期は、その時代の尖兵としてこれらの人は活躍した。しかし、そのやりかたは、今の時代には全く役に立たないと私は思う。それは新しい価値を生むやりかたではない。そしてその価値観(と言うよりは物事の価値の測り方)は大切な成長の芽を摘んでしまうだけだろう。

人間を、それが自分であれ、他人であれ、「値踏み」する方法にはいくつかあるが、大きく分けてその方法には「減点法」と「加点法」がある。普通の人はこの2つを使い分けている。減点法は「あれがダメだからマイナス2点」というように物事を見る。「加点法」は「あれができるから+3点」とつぶやきながら世の中を見る。対象が人間であれば、「この人は高齢者だからマイナス5点」が減点法、「この人は多くの経験を積んでいるからプラス4点」が加点法、ということだ。

これまでの日本の高度経済成長期では、子供の教育には「減点法」が使われており、日本人の多くは「減点法」で世の中を見るのが普通だと思っている。つまり100点満点があり、そこからいかに点数を引かれるか?が常に気になる状況に子どもたちは置かれていた。そこには「完璧な人間」が100点満点を取っており、その100点がとれなければ、その人は二流・三流である、という考え方だ。そして、100点以上の点数はないのだ。別の言い方をすれば、100点満点を取るのが当たり前であって、それ以下の人間は黙っていろ、と言われ、自信喪失の状態に置かれる。当然ながら、生きる積極性も失われる。

自分や自分の子供、職場の同僚を見るとき、上司を見るときに「減点法」を使うとどうなるだろう?「完璧な上司」以外はダメなやつ、ということで、その上司の言うことには従ってもしょうがない、ということになるだろう。組織はダメな管理職で崩壊していく、ということにもなるだろう。電車が遅れた。以前はそんなことはなかったのに、最近はいつも遅れる。だから、電車は信用できない。電車に100点満点は求められない時代になった、と言う言い方になる。

仕事場では「これはペナルティだからお前の給料から引くぞ」という脅しを効かせるのが「減点法」。「これはペナルティだが今回は見逃す。次にがんばれ」が「加点法」である。前者は人から「やる気」を引き出すことはない。後者が人からやる気を引き出し、100点以上の成果を上げるだろう。「恐怖」で人を支配しようとするのが「減点法」。「希望」」で予想以上の成果を上げるのが「加点法」と言い換えてもいい。

減点法は100点満点という「仮の理想」であるが、実際その「仮の理想」は永遠に存在しないものだ。だから、不平や不満ばかりの世の中になる。100点・完全、という以上、そこには100点以上は存在しないので、100点以上の存在を認めることもできない。成長というのはどこにあるともしれない100点に向かうことではなく、100点以上を目指すことだから、100点以上の種を探し、100点以上の結果に向かう。そこに、減点法の視線が入ってダメ出しをする、というようなものではない。成功に至る道もゴールも違うのだ。

いま、日本は高度経済成長期を終わり、経済成長は完全に下降線を辿っている。100点満点しか見えない減点法からすれば、自身の評価を95点から50点に落とした、と見えるだろう。自信もなくすし、惨めな気持ちにもなるだろう。将来の希望もなくなる。しかし、そこには成長もなければ希望もない。日本人はこれから「加点法」で生きる世の中を作っていく必要がどうしてもある。今より明日を良くする、というのは、何も経済に限った話ではない。山を登るには本道だけがあるわけではない。「脇道」だっていっぱいあるのだ。その脇道を探すには、どうしても「減点法」では限界がある。「加点法」で物事を考える癖を、日本人はつけて置く必要がどうしてもあるのだ。

「ここは泥の池だから汚い、だめだ。」それが減点法である。「この泥の池は蓮の花が咲く池だ。蓮の種を落としてみよう」それが「加点法」のものの考え方である。

仕事場では「あいつは客の前での態度が悪いから、ダメだ」が減点法なら「あいつは客にちゃんと言いたい事を言うことができる。あのやり方をどう使っていけばいいのか?」と考えるのが「加点法」ということになるだろうか?

「ダメ出し」だけでは人間はみな惨めになるだけだ。

立ち止まること

最近、ぼくは人混みの中を歩くとき、少しだけ、周りよりゆっくり歩くことをしている。ゆっくり歩いていても、信号で先にさっさと行っていた人が止まっていて、あるいは、電車のホームでまたその人と会ったりして、結局またぼくと同じ速度にその人はなっている。

ときどき、人混みの中で立ち止まる。すると、僕の横を舌打ちをして通りすぎる人がいる。ぼくが周囲と同じ速度で流れていないのを、苦々しく思うのだろう。ぼくは3年前に大病をしてから、速く歩くのをやめた。どこでも、周囲の様子を見るために立ち止まることにした。

前を見ていると、トラブルになりそうな人と人との接触が起きそうなのがわかる。すると、ぼくはその前で立ち止まる。そうすると、周囲の人も、ハッと顔をあげて、立ち止まって、トラブルが回避できる。この経験で得られたことは、簡単だった。結局、速く歩くのも、遅く歩くのも、結果はそんなに変わらない、ってことだ。

でも、人は速く歩く。なにかに急かされ、なにかに追われ、なにかを追いかけて、でもそれがなにかみんなわかっていなくて。時代は変わった。みんなが立ち止まることに躊躇がなくなった。