この記事では、世界に渦巻く「反グローバリズム」の流れと「正義とはなにか」という関係が書かれている。なぜアメリカ合衆国の建国の理想というものが捨てられたか?ということについて、内田先生が書かれている「記事」だ。
この記事にあるように、米国、欧州、日本を含むアジアなどの主要地域で、反グローバリズムが台頭してきたのは、内田先生によれば、「(グローバリズムの)理想は高邁なものだったが」「制度設計が間違っていた」という結論を導き出した。いかにも、文系の勉強をされたエリートの片隅にいる方のお話だな、と、私は思っている。
私が思っているのは、ちょっと違う。グローバリズムというのは地域の違いを平均化していく仕組みであって、物理で言うエントロピーの低い状態から高い状態への変化であった、と考える。つまり、人間にとってその変化は自然なものだ、と思う。これは物理として当たり前の動きである。
だから、現在の反グローバリズムへの流れは、その変化への人間の抗議の結果である、と、思う。
本来であれば国境をなくし、地域間の人やモノの流れをもっとスムーズにしていかないと、この変化に人間社会が対応できない。しかし人間の歴史としてその変化が人間の生理を超えて速すぎた。多くの人間は、この変化についていけなかったのではないか?というのが私の結論だ。
人間の生理を超えた非常に速い変化に対応できるエリートと、変化への対応ができない非エリートが、人間社会にはいる。そして、グローバリズムという理想が捨てられたのは、その過剰に速い変化への多くの「非エリートの人」の人間生理のなせる抗議であろう、と私は思う。だから、どこの国でも、「反グローバリズム」の流れを作っているのは「非エリート」であって、「置いてきぼりを食う人」なのだ。日本で言えば「B層の人たち」なのである。
そして、その「スピード」を作ったのは「インターネット」であった、と私は思う。20年ほど前、「インターネットとはなにか?」ということを私はあるところで聞かれたとき、こう答えた。
「インターネットとは、人間社会の変化が化学変化のようなものだとしたら、その変化の速度を速める触媒のようなものだと思ってください」
聞いた人はぽかんとしていたが、要するにそれが私の結論だった。
インターネットが「グローバリズム」の変化を速いものにしたし、それに抗する運動も速く世の中に浸透させた。人間社会の変化するスピードを速めたのだ。人間という種も、やがて他の地球上の種のように絶滅の危機がやってくるとすると、インターネットは人間社会のゴールまでの時間を短く圧縮したのかもしれない。
私は、内田先生の言う「理想は良かったが制度設計を間違えた」という立場は取らない。そうではなく、どちらも正しかったが、その変化が速すぎた、と言う結論を言うことにする。
皮肉なことに、グローバリズムのスピードを作ったインターネットは、反グローバリズムの流れも作るのが速かった。「反グローバリズムの旗手」、アメリカ合衆国のトランプ大統領がインターネットで支持を広げたのは、皮肉という他ない。