プロの道具

一時、写真を仕事にしていたことがある。というか、写真そのものではなく、小さなマスコミの一角にいたので、そこでは写真をどうしても重視せざるをえない。そこで、写真を撮っていた。報道写真であるから、プロの写真といっても、スピードが命だ。であれば、いわゆる「JPEG撮って出し」がすごく多くなる(全部ではない)。RAW現像などでああでもない、こうでもない、とディティールを検証している余裕はない。数秒、数分で勝負が決まる。弱小零細マスコミなんてのは、吹けば飛ぶような存在である。であれば、その特徴を出すのは「スピード」しかない、ということになるから、とにかく記事露出までの時間を急いだ。大手マスコミに、弱小零細マスコミが対抗できるのは、その一点しかない。

機材は最高とは言わないが、とりあえずそれなりのものを自前で揃えたら、まぁ、それなりの値段にはなった。しかし、それよりも難儀だったのは、機材の重さである。超広角ズームにボディ1つ、望遠ズームにボディが1つ。報道写真では、交換レンズを交換するような悠長な時間はない。常にこの構成で、一瞬しかないタイミングを狙う撮影に備える。加えて、自分の場合は、ビデオの機材も持って歩いた。全部で8kgあった。スチルの場合は、最近のカメラは手ブレ補正があるので、ほぼ三脚なしでも行ける場面が多かった。ストロボは照明がままならないときはどうしても使うが、最近はデジタルになって高画質で感度が高くなってきているので、ストロボは小さなものでもなんとかなる。とは言うものの、ほとんどストロボは使わなかった。超広角の画角の広さに対応するために、ストロボにはディフューザーはやはり必要。つまり、私の場合、三脚が必要なのはスチルではなく、ビデオなのだ。三脚選びも、たたんだ時の大きさが60cm以内でないと、航空機に入れてもらえない、など、様々な制約がある。機材は壊れやすい精密機器であるのと、取材が機内にも及ぶから、全て機内持ち込みにする必要もあるからだ。

ところで、自分の写真に超広角が必須なのは、このときの経験による。取材ではパーティなどの取材も多かったわけだが、こういう酒宴では、取材対象を目の前にすることが多く、そこでカメラを構えると、標準レンズではどうしてもフレームからはみ出てしまう。構えるためにちょっと離れて撮る、ということもできないこともある。また、そういう間を置くと、取材対象が写真に構えてしまって、自然な表情が撮れない。その場で「パッ」と撮るのが一番いいのだ。だから、パーティ会場で「ではここで写真を」「パチリ」というときなどは超広角が必須。また、ここでレンズ交換がどうした、とモタモタしているわけにはいかない。だから、レンズごとにボディを持つことになる。それが報道写真というものだ。

ポイントはスピードであって、記事にして電子ファイルにして、本社のWebに掲載するまでの時間を重視したから、当然PCも持って歩く。ビデオ編集ももちろんできるようにしていたが、メインはスチルだ。これを現場で素早く編集して、記事の文書を書き、写真とともにレイアウトしてWebに掲載。

ときには、パーティや集会、セミナー、ライブが終わったそのときには、記事が出来上がっていて、写真もWebに完全にあがっている、という状況もなんどもあった。いや、そのように作った。このスピードで読者のアクセスを集め、信頼を得ていく。大手のできないことをする、という目標を立てたら、こういうやり方に落ち着いた、というだけなのだが。

しかし、アマチュアの写真を見て思うのは、アマチュアの写真は「カメラ」という高級感のある耐久消費財への愛が多すぎて、写真そのものにこだわっている人は少ない、ということ。また、写真という表現にこだわっている人でも、写真そのものにこだわるだけではなく、その写真がなにを表現し、表現したもので社会をどう変えるのか?というビジョンまでこだわる人はもっと少ない、ということだ。もちろん、趣味であれば、そこまでこだわらなくても、誰も文句はない。だから、アマチュアの写真はプロを超えることはない。

しかし、アマチュアであっても、一度はいい機材は使ったほうがいい、と思う。それを経験すると、スマホで写真を撮っても、やはり感覚が変わる。

 


「人工知能ブーム」はパラダイムの転換

実は、人工知能のブームの火付け役となったのは、その背後に隠れている「Deep Learning」だ。このDeep Learningの技術が計算速度の高速化などの要素と融合し、実用域と言えるところまで発展した。Deep Learningを使うと、囲碁やチェスなどはもう人間はかなわないものとなるのは、既に数々の成果を見れば明らかだ。

さらに、Deep Learningは一般の検索などのアルゴリズムにも利用され、コンピュータがまるで人のように受け答えができるようになる。これで一般の人はとても驚いた。

しかし、この手法は根本的に「間違っている」とは言い難いが、根本的なところで「今までと違う」ということは言えるだろう。「今まで」は、コンピュータは「Computer Science」だった。つまり、科学だった。だから、ある事象があると「それはなぜ起きるか?」ということの理解が前提で、その上に、数々の応用的なアプリケーションを載せることができたし、事実そうしてきた。つまり、事象の意味や原因を考え、その事象と似た新しいものを作っていくことを考えたのが、従来のコンピューティングであった。つまり行動原理は十分に解析されていた。

しかし、Deep Learningは、そもそものアプローチとして、「なぜそうなるかは問わない」。そこから始まるのではなく、現在人間社会で起きていることはそのまま「あるもの」として肯定し、それをデータとしてデータベースの蓄積すると「この行動のあとには必ずこの行動が来る」ことがある程度の高い確率で予測できるので、その行動を起こす。つまり、物事の「表層」のみを扱う。

であるから、Deep Learningでは従来ないもの、や、従来は考えられなかったもの、というのは、全く新しい行動に反映されないことになる。なにかの行動を起こす必要があるとき、人工知能は従来ある知見からしか、未来の行動は起こせない。

たとえば、会社の上司に、就職して数十年、まるで飲みに行かない上司がいたとする。そんなとき、その上司がなにを思ったか「今夜は部のみんなで飲みに行こう」と言い出したとする。「なぜこういう行動を彼は取るのか?」と人工知能に聞いても、「わかりません」と答えるだけだろう。それまでのデータがなにもないからだ。あるいは、その上司以外の他の部の部長のデータから類推し、「確率は低いですが、XXということがあったんじゃないでしょうか?」程度の答えしか出てこないだろう。元になるデータがないから類推が当たる確率も大幅に減るのだ。その上司がもしも、しょっちゅう部下を飲みに誘う上司であれば、人工知能は「また奥さんにでも怒られたんでしょう」みたいな、そういう返答を返してくるかも知れない。それは過去のデータがあるから、かなり高い確率でそれを予測することができる。

つまり、現在の人工知能は「過去」というデータの集積を使って「これから」を予測し、今の行動を決める。それがDeep Learningなのだが、全くこれまでにない新しいことには答えを出してくれない。ということは、私たちの行動やその評価を人工知能に任せると、従来の古い経験に基づいた答えしか返してくれなくなる。もしこれが人事評価に使われるとしたら、その会社には「全く考えもつかなかった、新しい、面白いやつ」はいなくなる。

大阪の人たちの受け答えで「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんな」というのがあるが、これを米国の片田舎でやっても、だれも答えてくれない、なんてのと同じだ。

結局のところ、人工知能のはその限界を超えることはできない。それまでのデータの蓄積から、その発言や行動をしているだけだから、そこから新しいものは生まれてこない。私達は人間であり、新しいものや概念を作って歴史を刻んできたのだから、「人工知能とはそういうもの」という割り切りで、これを使うことが非常に重要である。

人工知能での受け答えというのは、簡単に言うと、過去をよく知っている古老にものを聞くことに似ている。その古老は過去の自分が経験したことをもとに、受け答えをする、というような、そういうものだ。それはなぜそうなのか?それは誰にもわからないが、昔からみんなそうしてきたのだから、そうなんだよ、と答えられる。そんなものだ。

 


人工知能とマスコミの関係と実際の開発者の話

基本的なこととして「人工知能」とぼくらが呼んでいるもののイメージはマスコミが「こんなもの」というイメージがほとんどなんですよね。でも、報道するマスコミの人たちの勘違いは2つあって、1つは「自分が面白いと思ったものが世の中に広まっていく」という勘違い。2つ目は「自分たちは世の中のものはなんでも理解できる」という勘違い。最初の勘違いは今日、ネットというものができて、かなり崩れたね。だから、結果として嘘になっちゃった。後者は、まぁ、役人にもよくある勘違いではあるんだが、人間である以上、ルネッサンス的な人間はそうそういませんよね。

コンピュータもインターネットも目の前にあるけど、それがどういうものか、という全体像もdetailも、それを実際に触って開発している人にしかわからない。でも、マスコミ人ってのは「わかる」と思い込んで報道する。実際に触って動かすぼくらは「マスコミってバカじゃねぇの」って言いながら、「はぁ、そういうものでございますねぇ」と、表を繕って接するだけなんだな。本当のことは教えないですよ。多くの人は、ぼくほど意地悪ではなくて、意識もしていないんだけどね。

AIと呼ばれている現在のテクノロジーは、これまであったテクノロジーの集積と統合だから、その統合の思想や哲学が理解されていないと、全くわからない。実際にやっている人間は「面白いねぇ」と言ってやっているだけで、興味がほかのことに移れば、違うことを始める。未来永劫「AIの専門家」ってわけじゃない。「面白いねぇ」と言うのは、「世の中を変えていく種がここにある」っていうおもしろさもあるんだけど、それはマスコミには教えていないですよ。結果=Effectだけ、ポロっと見せる。「どうしてそうなるか」なんてマスコミの人に解説してもわからないからね。言わないですよ。

今は「AI」というキーワードがブームなだけであって、本当のAIなんてのは数十年前から研究しているわけですな。そして「機械が人間のように振る舞う」のは、なにが楽しくてそうしているかというと、楽しいからだね。それ以外じゃないですよ。なにかの役に立つからやってる、ってわけじゃないよ。

この人口過剰と言われているこの人間社会にさ、もっと人間増やしてどうすんのかね?それ、役に立つの?混乱がひどくなるだけなんじゃないんか?人間の経験によるディープラーニングだって、要するに「人間と同じ経験」しないと、人間らしくならんわな。でも、人間の経験というのはアタマだけじゃなくて「成長」「五感」「愛情」みたいなものもあるわけでしょ。赤ちゃんのときの母親の肌の感触とかもあるわけでね。それらを人間のように感じて生きるには人間と同じ大きさの人間と同じ、人間と同じ五感と四肢を持って、成長もすれば老化もするし、死ぬときは死ぬようなものを作らないと、人間らしくならんわな。そういうものが積み重なって「忖度」できちゃうわけだしね。つまり、人間で言えば、脳だけが発達する、ってことはありえないわけですね。反対側から見れば「人工知能に、どういう方法で、どういう経験をさせるか(データをインプットするか)」が、ディープラーニングでもかなり重要なことになってくるわけですな。なにせ説明原理がないものを経験で扱うわけだからね。となると、人間そのものを作らないといけないから、「人工知能」ではなくて「人工人間」を作らないと、ことは解決しないわけですよ。そうなると、ITじゃなくて、バイオのほうに重点が移る。人工生命から人工人間まで、一気にいかないといかんのですわ。で、ここまで増えて困ってんのに、なんでまたややこしい「人間もどき」を、人間自身が作らなあかんのか?ってことですな。

それはねぇ、研究の目的を「人間自身」にとって、人工の人間をつくるその過程で、人間自身とはどんなものか?ということがわかってくる。至って文系的な「われを知る」ことにそれがつながるから、楽しくて理解もしたい、となるわけですな。つまり、人間自身を作ることを目指せば、その過程で、人間やその社会自身の理解が進んで、楽しくなるべな、という、そういうことですよ。

 


現代人は「メンタルの谷間」であえぐ

人間とは、ネガティヴな感情がある自分を意識することで、心の平衡が保たれる生き物である。しかしビジネス社会においてはそれが抑圧されることが非常に多く、人間存在の危機さえ招くことがある。抑圧ではなく、いかにそういうものとうまく付き合っていくか、ということこそが、本当は大切だ。

現代のビジネス社会では人間は機械のように永久に死なない存在として考えられるが、当然それは事実とは違う。この矛盾の間で人間は苦しむ。ネガティヴな感情とは、人間という存在が絶対的危機に陥ったときの精神の安全装置でもある。だから、この安全装置が外れると、諦めや悲しみといった感情の代わりに、状況に反発する「怒り」が表面に出てくるが、多くの場合、「怒り」はその場を破壊はするが、うまく切り抜けられる道は示せない。

現代という時代は、ネガティヴな感情を抑圧し、人が人として生きる健康な心の状態を壊していく、本質的な問題を大きく内包している、と、私は思っている。結果として、ネガティヴな感情そのものの否定は、なにもかもがうまくいっているときには良い方向に働く場合もあるが、一つうまくいかないことがあると、全部をダメにしてしまう。またそういう精神状態にある人は、悲しみやあきらめといった感情の代わりに怒りという感情を持つため、本人はそれが良い状態と思い込むが、それは本人の周辺の状況を悪化させていることには気がつかない。

現代という時代においては、ネガティヴな感情とは、悪い状況の中で人間の精神安定に資する安全装置である。これが外れ、怒りが先行し、悲しみやあきらめを許さない精神構造が時代を支配している。それは人間存在への否定であり冒涜である。ある種の自己啓発セミナーや新興宗教とビジネス指南が、同じように見えることがあり、それになんとなく違和感があるのは、そのためである。これらのものは、「常に勝て」というメッセージを絶え間なく送り込み「悲しみ」「諦め」から人間を解き放つというが、それは「抑圧」しているに過ぎない。その代わりに「怒り」で人間社会を破壊していく。それにハマった人は、「悲しみ」「諦め」を感じない代わりに「怒り」を持つ。それを「幸せ」としているのである。

特に世界的な下降線の時代である。人間には、普通にしていても、さまざまな災厄がやってくる。良いこともあれば、そうでないときもあり、人生はそれがまだら模様のようにやってくる。本当に大切なのは、それでも強靭な精神安定を得るための「悲しみ」「諦め」であって、それを拒否する「怒り」ではないことを、知るべきである。

 


音楽とかのこと。

普段はあまり書かないんだが、自分のことを書く。まずは音楽中心に。自分のメモとして書いてみた。

高校生の時は吉田拓郎とかが全盛で、ぼくもフォークソングクラブに入った。顧問の数学の先生が、先生をしつつプロのブルーグラスのバンジョー弾きであったため、ブルーグラスにハマる。歌集の日本語訳などで英語を勉強し歌で発音を覚えた。そうしているうちに音楽の嗜好は様々なジャンルに飛び、聴く方じゃクラシックから邦楽まで何でもかんでもだったし、スピード感のあるシカゴやB.S.T.などのブラスロックはよく聴いた。

やはりポップス系は多く、フォークギターを弾き、ピアノも自宅にあって、まぁよく音楽の勉強はした。楽典もこのあたりで勉強した。和声学も勉強した覚えがある。しかし高校生の時って、自分で作詞作曲していたし、下手なアレンジもした。気がつけば友人たちとミュージカル作っていた。これを学園祭のときに杉並公会堂でやったんだから、今から考えると「無謀」という一言。若かったなぁ。

その時は裏方のPAまで一緒にやっていて、どうやって両立していたか、未だに自分でもナゾ。やっぱポップスは多かったね。クラシックもよく聴いた。大学あたりでシンセサイザーを自作して自分で多重録音して楽曲を作った。このあたりで基本的にキーボードになったなぁ。

で、社会人になって最初に就職したのがオーディオメーカー。でもさ、小さなメーカーの技術者ですよ。出身大学は三流だしね。どうしようか、これからの人生、って思ったよ。いや、本当に。気がつけば、ピアノの即興演奏にハマり、深町純さんと知り合う。深町さんは高校生の頃のFMラジオで自分の番組を持っていた。ある日AERAを読んだら深町さんが出ていて、洗足学園シンセサイザー科初代学科長だったのが麻薬で挙げられ、3か月に一回、ライブを六本木ピットインで、寂しくも派手にやっているというので、行った。

コンピュータ音楽をずいぶんやっていた深町さんは、ぼくのC言語の本を読んでいてくれた、ということで親しくしてくれた。で、深町さんっはその後くらいから、フュージョンから即興演奏に興味が移った。ぼくも深町さんの真似事みたいに即興演奏が楽しくて仕方ない。で、今に至るので、まぁ音楽はこんな感じで楽しんできた。だから、ぼくの音楽は他のひとのものとはかなり違う。深町さんはその後、ライブを恵比寿のアートカフェ1107というところでやるようになって、ぼくもそこのオーナーの鈴木さんといろいろ話をするようになった。鈴木さんは、森昌子さんを作った人だったから、彼女がプロダクションをやめたときのホームページを作らせてもらったりした。

その頃、台湾の人たちと会うことがあって、台湾新聞の日本語版をやっていて、取材、記事書き、写真、ビデオ、編集、などなんでもやった。今でも関わっているけどね。

とか、音楽大好きでITもやっていたんだが、大学生の時のアルバイトは出版社で編集。文章を書くことを叩き込まれた。大学では、半導体の研究室だったけど、電気回路の勉強をして、その後コンピュータの勉強をして、どれもこれも楽しかった。大学を出てしばらくした頃、コンピュータ言語の本を書かないか?ってことを言われて、C言語の本を書いた。けっきょく10年くらいのあいだに100万部くらい売れた。その後、ぼくはコンピュータ関係の本を20冊以上くらい書いた。

で、コンピュータの仕事をしているときに、産総研(経産省)のバイオの研究所に行かないかというので行った。バイオは素人だったから、いろいろ必死に勉強した。気がつけば、勉強ばかりしていた。しかも一流の人たちに囲まれて。だから、自分は他人から見て、つかみどころがないんだよね。ルネッサンス的、っていう感じかも知れない。よく言えば。ただし、どれもこれも楽しくてしょうがなかった。国立の一流の大学を出たわけじゃないし、未だに博士も修士も持ってないけどね。まさか、東大の研究所の研究員をやり、産総研の研究員をやり、韓国の大学の教授やるとは、人生ってわからない。しかも高校生の時に赤点取って親に大目玉食らった英語で教えたという。自分でも信じられん。あ、会社も経営したんだった。しかもカリフォルニアとか韓国の支社も持った。韓国の友人はここでできていて、今でも大変に世話になっている。気がつけば波乱万丈と言ってもいいかも知れないけど、自分ではそういう自覚はない。好きなことをやってきた。楽しい。それだけだったんだな。

で、今に至る。な、わけですよ。まぁ、こんな人もいる、ってことで。

 


もしも「ゼリア新薬」のような研修を受けなければいけなくなったらどうするか?

数日前のBLOGでは、「ゼリア新薬」の「新入社員研修」の問題を取り上げた。この前の記事で、人間の性格の変容というのを短期間で積極的に作り出す「技術」というものが存在し、それはどういうものであるか、ということを明らかにした。

しかし、実際にあなたがそういう研修を受けなければならなくなったとき、どう対処したら良いだろう?

最近は日本に春から台風が多いが、私達は天気予報で台風の進路と大きさを事前に知り、台風が来たらどうするか?ということについて、一応の知識を持っている。そのため、被害を最小限に留めることができる。反対に、地震は現状ではいつ、どういった大きさで、どのように来るかわからないから、恐怖が増す。「アクシデント」とはそういうものであるので、なによりも「事前の予備知識」は得ておいたほうがいい。つまり、こういった企業研修、自己啓発セミナー、新興宗教の勧誘などは、基本的に「意図」があり、そのためにあなたに「プレッシャー」をかけるものだ、ということだ。その意図と方法を知れば、対処もできる、ということになる。まずは相手の意図を「知る」ことである。

たとえば、今回のゼリア新薬の社員研修の場合は、社員に会社の意図に沿った人格の変容を求め、その変容によって、会社の向かう方向に適して、文句を言わずに働く人間を短期間に強制的に作るのが目的である、と言う意図が読み取れる。それに反発する、という人もいるだろうが、そういう人は、まず研修を受ける前に、会社をやめて、他の仕事を探すのが良い、ということになる。一方、多くの人はそういうわけにはいかず、会社から払われる給与で生活を成り立たせる、という大命題があって、「就職」しているわけだから、この研修をなんとか乗り切って、研修の後に続く仕事をはじめなければならない。

こういった自己へのプレッシャーが強い研修を受けると、精神異常もあることがあり、極端な場合は、今回の事件のように「自殺」に至る精神状態になる場合もある。そこで、そういう精神状態にならないように、あらかじめ、研修の内容にはどう答えれば「会社が望んだ社員になりきれたところを見せられるか」ということを考え、行動すると良い。つまり、どんなときも冷静さを失わず、自分の気持ちと行動や発言を切り離し、研修用の別の自分を作り、研修を乗り切る、ということを考える。仮面の自分を用意しておくのであるこれを意図するだけでも、かなり違うはずだ。実際「要領のいいやつ」というのは、こういうことがピンときて、できる人間が多い。

実際、こういった研修をいつまでも延々と続けていては、企業も経営が成り立つものではない。必ず研修の期間は短期で終わる。コストを延々とはかけられないのだ。であれば、その期間だけ「別の自分」を作って、自分を自殺などの精神の危機から救うことは非常に重要なことなのだ。

必要なのは、心の平穏を保ち、冷静に状況を見極め、必要であれば正直で誠実な自分以外の「別の自分」に、その期間を託す。そういう変わり身が、あなたを救うのである。別の言い方をすると、その研修の期間のあなたは、マンガの主人公になったつもりで、「別の自分」を演じてみよう、ということだ。そこで、本来の自分の命の危険を感じるのであれば、その場にはいられなくなるので、やはり会社をやめる、という選択しかできなくなってしまうのだが、命には替えられるものはない。

 


関西の「個人情報保護法特区」の地域指定に必要なもの

関西では、経済同友会が「個人方法保護法」の枠を取り払った「個人情報の利用制限解除をした経済特区を作ること」を提言した。私は、韓国の大学でネットセキュリティ専門の教授をしていたのだが、この特区では以下の制限が必要になるだろう、と、ここで提言しておきたい。

  1. 本特区では携帯電話の電波は届かないように工夫すること。
  2. 本特区では一切のWi-FiやBluetoothなど、電波法の範囲外の微弱電波機器であっても、一切の無線機器の使用禁止をすること。また、外部からのWi-Fi電波も届かないようにすること。当然、有線ケーブルや光通信によっての外部との接続はオフィシャルなものに限ること。
  3. 外部のネット接続には必ずSDN機器・UTM機器の使用を義務付け、データの流出・流入の疑いがある場合は、ただちにこれを遮断し、疑いが消滅した時点でのみ、接続再開する、という管理が行われること。
  4. 特区の出入りにはあらゆるIT機器(PC.スマホ,タブレット,IoT用ボードコンピュータ等)、及びIT機器付属機器(ICカード、USBメモリ,外付けHDD等)の持ち込み及び持ち出しを禁止し、ゲートではこれらのものが特区に入らないよう、身体検査を行うこと。なお、身体検査の「漏れ」には重い罰則を課し、実施業者の永久指名停止などの処分を必ず行うこと。
  5. 紙に印刷した個人情報等の流出やエセ情報の流入を防ぐため、これらのものにも、厳重な出入りのチェックを行うこと。
  6. 特区への入出にあたっては本人が個人情報を外部へ持ち出さないことと、持ちだしても利用しないこと、持ち込みをしないこと、情報流出の行為や手違いなどの発見は必ず管理部門への報告の義務があること、に同意させる誓約書を入出する全ての人に対して(警備員やゴミ処理業者等にも)取ること。また、流出や流入が起きた時の罰則はその情報の多寡にかかわらず、また「疑いが起きた時点で」、「罰金一億円」とし、罰則は疑いのあるものが法人、個人にかかわらず、厳しく適用すること。なお、この金額は高いと思われるかもしれないが、違法な情報流出の重みが大きな社会不安に繋がることを考え、また、そういう犯罪が割に合わないことを知らしめるのに、必要である金額と考える。
  7. 以上の制限等の適用が適正かつ厳格に行われているかどうか、複数の第三者機関(経済産業省系、及び総務省系など、関係各省庁、警視庁、等、それぞれの独立機関が望ましい)が、1年に数回、抜き打ちも含めた「情報漏洩対策検査」を行うこと。

「個人情報」に限らないが、重要な情報は、世間に流通するのが当たり前だ。しかも一度特区から流出した個人情報は、特区以外のところに、限りなく拡散していく危険が高い。おまけに、電子化された情報は、目に見えないので、あらゆる媒体を通して流通する。このくらいやらないと、特区は成立しないだろう。

また、「情報」という形の無いものを扱う「特区」であるため、その特区内での「自由さ」が必要になるぶん、その周辺の「特区ではないところ」との「境界」では、国境以上に厳重な情報の取り扱いをしなければならない、ということもある。猛獣の跋扈する「放し飼い動物園」の柵はどうしても、厳重にしなければならないうえ、一箇所の漏れも許されないのである。