日本の政治とは「勝者になるためのゲーム」。

Kishimojin Roard

私達のようなごく普通の日本に住む一般庶民はいまだに、

「政治家というのは主義主張があり、演説などでその主義主張を広め、票を集めて政治家になる。政治家はその主義主張に沿って政治をする」

と考えている。しかし、日本の政治家の世界は私達一般庶民が考えている以上に、このところ、急激に独自の変化を遂げている。つまり、

「政治家というのは主義主張があり、演説などでその主義主張を広め、票を集めて政治家になる。政治家は政治家になったら、その主義主張に沿った政治を捨てて、何でもその立場でできることをしてよい。過去の主張と現在の主張は変わってもよい」

に、何年前からか、変わったのだ。それが「正しい」とか「正しくない」とかではなく、現実として、政治家の世界はそういう世界に変わった。私達日本に暮らす庶民や、日本の法制度はこの「急激な変化」についていけなかったし、今もついていっていない。

もともと、「民主主義」「代議員方式-間接民主制」の基本には「政治家とは、主義主張を持ち、それを持って時系列的にも一貫した行動をする人」という定義があった。すなわち「言ったことの通りに行動する」であり、それができない人は「信頼」されない。従って人望も集まらず、それは具体的に「票が集まらない」=「言うこととやることに一貫性の無い人は政治家になれない」になるのが当たり前だった。

しかし、今日の日本の政治家の世界は、既にそういう世界ではない。「投票」というのは、政治家の主義主張と行動の一貫性に対して行われるものではなくなり、「かわいい」「強そう」などの、「人気投票」で選ばれた人が「代議員」になる世界なのである。奇しくも「AKB総選挙」なんていうのと似たようなものなのだ。「AKB総選挙」が「ファン人気投票」ではなく「選挙」という名前をつけたのは、それが現代の政治における「選挙」と同じものである、という認識によるものであって、その認識は正しい、と、私は思う。

従って現代日本という国家政府を含む社会では、「言行一致」は美徳とされず、「その時、その時に、すばしこく主義主張を変えてゲームの勝者となる」ことが「正しいこと」とされる。つまり「正しさ」とは「勝者になる」という目的のことであって、そこに至る手段は問わない、ということである。「政治」というゲームの目的、そしてルールの基本が短い間に劇的に変わったのだ。

であれば、私達日本に住む一般庶民は、政治家の世界の裏側に回って、「その人がどういう主義主張を持っていて、一貫した行動ができるかどうか?」を問うのではなく、「その人はどういう人で、今後当選したらどのように変わっていくか」を予想して、その変化したときの行動が自分の意に沿ったものになるかどうか?を考えて、投票行動を起こす必要がある。

最近は「民主主義は必要ない」という主張も、あちこちで聞くが、それには一理あるのだ。人間が創りだす「嘘(言行不一致)」が「絶対の悪」と認識されない社会においては、それまでの「民主主義」という「時系列的にも一貫した言行一致」を基礎としった常識も法制度も、全く無力なものになるのは、当然のことだからだ。「政界再編」とは、日本の社会においては、すなわち「民主主義制度-代議員による間接民主主義制度」というものが、「嘘の肯定(言行不一致の肯定)」によって国家政府に信頼を置く社会の、その崩壊の過程である。

私達が目の前にしているのは、日本という地域の国家社会の根幹を成していた「国家政府」そのものへの信頼と信任の崩壊そのものである、ということだ。

 


「IoT」と「セキュリティ」の関わり

専門外の人にはわからない。ぼくのように専門家でもわからなかった。いや、専門家だからこそ、わからなかった、と言っていい。最近は「IoT」と「セキュリティ」は、2つのキーワードではなく、相互に補完するような関係になったのだな、と、思うことが多くなった。そんな中で、「IoTのシステムにはセキュリティが必要、なんてのは常識以前の当たり前の話で。。。」なんてぼくは言っていたのだが、ぼくの「当たり前」のことを、最近はみなしていない。そういう知識がない、という技術者が増えた。完全に「セキュリティ」と「IoTは別の分野だと思っている。これでは素人と同じだ。

たとえば、IoTでよく使われるボードコンピュータの設定をするとき、セキュリティの設定なんてのは、ぼくはまぁ、当然のように普通にやることだと思っていたら、なんと、最近の技術者は技術が細分化されていて「セキュリティのことはセキュリティ技術者にやってもらうこと」になっちゃったんだな。「IoT」もそうで「IoT専門の技術者がやる」って事になってる。でもぼくらはどちらも当たり前のこととして一人でやっていたんだが、それぞれ専門が違う、というのが、現状のICTの業界らしい。しかし、それでは技術が有機的につながらない。意味がない。両方を知っているから、できる。そういうことがあるんだな。素人ならキーワードで分野が別れいてると思うのはしょうがないだろうが、事実はそうではなく、両方知らないと全く製品ができない。

たとえば、最近流行りの「EMP攻撃」を受けた場合などは、今度はコンピュータや回線のケーブルを電磁波妨害からいかに守るか?ってことなんだが、ぼくらの時代は、一人で「ハードウエア」「ネットワーク設定」「セキュリティ設定」「ソフトウエア」を全部やって、目的のものを作るのが当たり前だったんだな。だから、そういうものに対抗する技術あh全てあぼくの手の中にある。だから、その頃の友人同士の会話だと、「おい、セキュリティのためにftpポート閉じてる?どうせ今回のシステムでは使わないんだからさ、閉じとけよ」「あ、忘れた。やっとくわ」とか、「EMP攻撃を受ける前提でケースえらんだんだけど、どこでテストするといいかな?」「あぁ、その大きさなら、あそこの研究所しかないよ」「ありがとう」「じゃ、ソフトウエアもそのテストでおかしくなって、途中で止まるところがトレースできるようにログ吐いとくな」「わかった」みたいな感じ。つまり、「ハード」「ソフト」「ネットワーク設定」「セキュリティの知識」が全てないと、会話ができなかった。しかし、今の若い技術者はこういう会話ができないんだよね。

悪く言えば、レベルが下がったんだな。僕らの頃は「IT技術者」といえば、そこいらへんの知識はみんな持っていて当たり前だった。今はみんなばらばらだ。

だから、「IoT」と「セキュリティ」が別々に語られることが多く、それを前提にIoTとセキュリティが語られることが多くなったんだな。なんか、それって、やっぱレベル低くなったんだと思うよ。それじゃ素人ですよ。

そのとき、そのときは、チームでそれぞれが「ソフトウエア担当」だったり「ハード担当」だったりするのだが、みんな知識としては同じものを共有していた。だから、会話が成立していたんだな。

なーんていうと、「遠い目のおじさん」なんだが、いや、実際、それじゃ世界には出ていけないよ。

 


サイバー戦争が始まる。あなたの生活はこうなる。

Kishimojin/Ikebukuro,Tokyo

●本BLOGでのサイバー戦争に関するフィクションの記事を本にまとめました。



日本では「高齢者雇用」が日本再興の鍵

Kishimojin Road

日本では、この数年から先、60歳以上の高齢者が増えていく(かく言う私も60歳ちょうど)。加えて、これから高齢者はさらに増えていき、日本の景気の下降などの問題も重なり、年金なども従来通りに払われなくなる、などの状況が日に日に顕在化している。要するに、これからの日本では「60歳以上でも働く」のが当たり前にならざるを得ないのに、企業や役所の雇用などは全くその動きに対応がとれていない。

厚生労働省の雇用統計を見ても、組織が「高齢化」に合わない状況が見て取れる。日本の社会は既に20年前に、この状況になる準備をしていなければならなかった。しかし、準備が遅れており、対応する法整備もほとんどできていない。

日本の産業の衰退は、基本的に世界不況のためである。日本という地域に働くひとや政府の問題がそうしたのではない。しかし、この大きな世界的変化についていけなかった、という意味では、法整備は「失敗した」と言っていいのではないか?つまり時代の変化を感じることをせず「不作為」で、日本という地域の経済を衰退させた。しかしながら、これからの日本の産業は「高齢者が支える」ものでないと、全く意味がない。その原因は以下だ。

  1. 高度経済成長期という「豊かな時代」に培ったすべての「世界に冠たる日本の技術」は高齢者が持っている。現在の20歳代までの若年層では技術を継承するための環境も整っていない。これが継承されないのは、日本の国家財産の毀損である。
  2. 高齢者には年金の減額などの「働く動機」が非常に高いレベルで存在する。
  3. 20歳代-40歳代の若年層では「働く意欲」の減退などが、周辺環境によって見られる。

そして、日本という地域の産業復活を阻んでいるものは、この高齢者を働かせることができない環境があまりに多い、ということだ。

  1. 会社組織などの「定年」が60歳代、65歳に集中している。
    → とは言うものの、60歳くらいではまだまだ働くことができる人も少なくない。
  2. 高齢者は日本の景気の良かった時代を体験しており、労働の意識が現代に合わない。
    → 給料の金額の齟齬、労働時間の齟齬などはその一例である。
  3. 高齢者は身体的な衰えがあり、かつ、これからの生存寿命が短く、「投資」をする対象として好まれない。
    → 新規の仕事には「投資」がつきものだが、投資会社などは「高齢者への投資」を忌避している。

つまり、日本社会全体としては高齢労働者へのニーズはあり、それを活かしていかなければ日本の将来はない、と言っても良いのだが、それにもかかわらず、高齢者の「活用」が進んでいない、という現実がある。

そこで以下のことをご提案する。

  1. 働く体力と気力のある退職した高齢者への「再就職」への「再教育」に力を入れる。内容は以下だ。
    A. 高齢者の仕事の役割を限定し、時代に合った内容のみを若年層労働者に伝達する。
    B. 高齢者の仕事の役割を限定し、継続的な体力が必要な仕事を割り振らない。
    C. A,Bにともなって、高齢者の給与は低いものとせざるえをえず、その納得を得る。
    D. 現代にあった「後輩の教育方法」「生きていく態度」「企業側の雇用の条件」などを身につける。
    E. 「仕事はあるからもらうもの」という意識を捨て「新たな仕事を作っていかなければならない」という意識変革をする。
    F. 高齢者の苦手とするICT環境などの活用を教える。
  2. 法制度を変え、企業などで「高齢者雇用」をしやすくする。
    そのさい、「補助金」などは使わない。補助金ではなく、雇用した高齢者の給与の低減で対処する。
    現在の職業訓練校などに「高齢者再雇用教育」を入れ、以上のことを教える場を作る。
  3. 後継者の若年層への技術移転を意識し、積極的に行う制度を作る。

こういった施策こそが、現在日本を救う、と私は思っている。

 


盛り上がってきたLPWAと日本のIT業界のお話

Kishimojin / Ikebukuro / Tokyo

どこに行っても、LPWAの話が盛り上がってきていて、よく聞くようになったんだが、これでIoTの実験をしていろいろ作っていたのは、ぼくの場合は1年前のことになる。なかなかおもしろかったんだが、アマチュア無線で「ローパワー」を追求していたときの懐かしい感じが蘇ってきたね。まぁ、それはともかくとして、データ通信のためのLPWA(Low Power Wide Area)の通信方式とか、基盤のシステムにはいまやいくつも規格があって、その最初は「LoRa」と思われているんだが、それ以前にも、日本でも、あちでもこっちでも、けっこういろいろな通信の規格が乱立中、というのが正直なところだね。

で、いま、世の中にあふれているLPWAの記事を読むと、「LPWA」だの、「LoRa」だの、「SIGFOX」だの、というキーワードがそれぞれどういう立ち位置にあるのか?ってことがまるでわからないで書いてあるものがいっぱいある。表面だけ撫でているような、それで大丈夫だと思っている悪質ITライターの記事が山のように積もっていて、腐臭を放っている。

結果として、読者はまともな理解が得られず、用語とウソの概念ばかりが空中を飛び交っている。自分の手で作ればすぐにわかることが、自分で作らずに部下に任せる、なんていうことになって、さらにわけがわからなくなって時間だけが過ぎる。そういう人たちもまた山になるほどよく見てきた。

かつて、そう、1980年台くらいかだったかな?、ITの業界の雑誌とかで記事を書く人は、それなりに技術をわかっている人と、全くわかっていないなんとなくやっている人がごっちゃだったが、どちらもそれになりに食えていた。しかし、記事の中で製品をけなすこととか、不都合な真実なんてのは、ちょっと書くと、すぐにクビを切られた。結果として、中身はどうでもいいが、それがたとえ真実であったとしても、雑誌の広告のお金を出しているスポンサーに不利になるような記事を書くライターはいなくなった。それがIT業界のライター事情なんだな。自動車なんかでは「買ってはいけない」シリーズとか、そういうのがベストセラーになったが、ITの業界(1980年台くらいだとITという言葉はなかったけれども)では、「不都合な真実」を書く、実力あるライターは駆逐されてしまった。それが今だ。

そして、結果は、おそらくそれが原因の1つとなったと、私は思っているが、日本のIT業界は世界に冠たるダメ業界になってしまった。物事には、バランスというものがやはり必要で、「賞賛」もあれば「不都合な真実」もあって、それを嘘偽りなく、使う人とか投資家に知らせる、という重要な役目が置き去りにされてしまった。

最近で言えば、「ブロックチェーン」「人工知能」に同種の「危うさ」をぼくは禁じ得ないんだが、要するに「賞賛」」ばかりで「不都合な真実」がゼロってことはありえないわけで、良いことも悪いことも全部さらけ出して、世の中に入っていく、という、そういうものがないんだな。IT業界というのは、キーワードをこねくりまわしてラクして儲けられる業界ではなくなった。世界的にね。そして、そういう新しい世界についていけるIT事業者だけが、世界と渡り合って、生き残っていくだろうね。ごく少数だけね。現在のままならば。

なんて、当たり前のことを当たり前にしていく、ということがIT業界はできない場面が多くなってね。そりゃ衰退するわ、って思うわけですよ。

 


匿名システム・torのハッキング

torというシステムをご存知だろうか?torは、「匿名システム」と言われるものだが、要するに、Webやメールのアクセスをすると、そのサーバー側には必ずその「足あと」が残り、どこからアクセスしたかがわわかるのだが、それをわからなくするシステムだ。日本でも簡単に使うことができるが、仕組みは、一般から募ったサーバーに「tor」のシステムをインストールすると、必要なWebやメールのアクセスがこれらのシステムを経由して行われるため、例えば日本からアクセスしても、英国からアクセスしたように見え、その先はトレースできないので、アクセスをした人間がとこからアクセスしたか、という「足あと」が消えるのだ。

つまり、会えうWebアクセスは、世界のどこかにあるtorのシステムを複数経由して、実際のWebサーバーにアクセスされる。つまり、直接行くのではなく、間接的にアクセスがされる。当然、速度は少々遅れるわけで、実際使ってみると、かなり遅く感じることも多いのだが、「匿名」には代えられない。

しかしながら、このtorのシステムがハッキングされ、torを使って匿名通信をしていたある国の外交文書が外部に漏れたことがあった。つまり、torのシステムでは、暗号化された通信がtorの最初のアクセスノードから、次のアクセスノードへとリレーされるのだが、通信は暗号化されていても、そのノードの中を通るデータは一度暗号を解かれ、そのシステムの中では「丸裸」になっており、それを再度暗号化して、他のtorノードに送る、という仕組みだったので、そのtorノードがハッキングされたら、そのノードを経由している通信がみな見えてしまう、ということがあったからだ。

torを使うときは、torのこういった特徴をわかったうえ、使う必要がある。

 

飲んでも会社の業績は上がらない

世の中には、特に人間社会のことについては、「永遠に変わらないもの」というのはない。この宇宙とか地球でさえも、時間軸の長短はあれ、変わっていくのが常だ。「変わらない」と言う場合は「人の一生の長さの間は」という但し書きがつく程度だろうが、最近は人の一生という短い時間の中でさえ、あれこと変わっていくことがとても多くなっている。そういう時期なのかな?とも思う。

そういうことを考えているとき、この記事が目に止まった。

最近の若い人ってのは、実際に接してみればわかるが「おれは酒は飲めないんだよ(あるいは飲まないと宣言する)」。っていうのから始まるんですね。昔の「飲みニュケーション復活」なんて考えてるんだろうが、そうは世の中は簡単ではない。若い人間の気持ちも身体も、高度経済成長期とは違う。個性もある。

だからこういう記事のような与太話は今は無理なんだ、というのが大前提にならなければならない。自分のことを言えば、ぼくは病気になる前はとてもよく飲んだが、こういう「共感のコミュニケーション」をしていたとは思わないのですね。事業主だったから、必要があって飲んだんだな。たしかに、そのときはコミュニケーションが酒で円滑になったか、というと、そういうときもあったし、そうでないときもあった。過剰に酒に思い入れはない。

もともと体質的に酒には弱くて、昔はコップ一杯のビールで動けなくなった。好きでもなかったので、仕事だから飲んでいるうちに強くはなった。でもそれで体を壊して死にかけた。もう酒は飲まない。飲めないんだな。自分の命のためにね。これは個々人の体質の違いもすごくあることでね。病気になる直前には、医者の先生から「飲むな。絶対に体を壊す」と言われていたんだよね。もともとね。だからこういう酒をキーワードにした与太話でうまくいくことばかりじゃないと、ぼくは体で知っている。若い人に強要するようなことは絶対にやめるべきだ。ぼくもそういうことはしていない。

酒で企業の文化を語るのは与太話以外の何者でもない。酒飲んで話をして企業がうまくいくのだったら、そんな企業は潰れたほうがいい。人間は命以上に大切なものはないからだ。

人間のこの身体も心も一律同じということはなく、それぞれ個性がある。コミュニケーションは、そのそれぞれの個性に合ったことをしなければならないのに、このおっさん達はそういうことには全く御構い無しで、こういう与太話を垂れ流す。

正直なところ、今の自分はもう100%回復して、誰が見ても「そんなことがあったんですか!」と驚かれるのだが、あのときの苦しみを思うと、「飲みニュケーション」などと気軽な与太話を垂れ流す気には、一向にならない。そして、自分でも酒は一切飲まない。若い人間にそれを強要することもない。


よく考えればわかるが、日本企業が「おかしくなった」のは、飲まなくなったからではない。飲まなくなった、という「原因」があるわけではない。日本企業が元気なときには、そういうことがあった、というだけのことで「飲む」は、「原因」ではなく「結果(Effect)」である。日本の企業の衰退は世界的な経済の急激な変化に追いついていけなくなったからで、それは日本企業に限らず、ついていけない企業は過去も現在も役割を終えたあとは、どんどんなくなっていく。これは洋の東西も、会社の規模も、時代も問わない。

なんでも一律に「モデル化」したがるのは、学者という立場の悪弊であり(いや、ぼくも韓国で大学の教授を2年やったけどさ)、学者というビジネス的立場の維持には、当然、本末転倒であろうとなんだろうと、「モデル化」によって、なにかわかったように見せる、というテクニックはもちろん必要なのであろう。所詮、学者というのは「モデル化できるものだけをモデル化していればよい」という程度の話である。現在の激変する世界のビジネス環境では、これまでの「モデル」が役に立たなくなっていることがすごく増えた。その場で、頭を働かせ、新しい事態に対処していくしか対処方法がなく、過去のモデルが役に立つ場面はないとは言わないが思いっきり減ったのである。もちろん、だからといって、訓練がされていないと対処はできないし、勉強は必要だし、精神的な強さは必要だし、論理的思考も必要なのだが、「本末転倒したモデル化には意味がなくなった」、と言っていいだろう。

この「お酒による会社という共同体の確認作業」を例にとれば、「日本という地域の企業の景気が良かった(原因)」から「飲むことで共感を確認する機会も多かった(結果)」という因果関係はあるかもしれない。しかし「飲むことで共感を確認する機会も多かった(原因)」から「日本という地域の企業の景気が良かった(結果)」ということではないのは、かなり明白なのではないだろうか?この本末転倒が行き過ぎると「飲みまくって会社の業績をあげよう」というよくわからない論理になる。こうなると「職場で飲んでもいいか?」とか「納期は明日だけど職場は早く切り上て飲みに行って、明日頑張って、納期遅れでもいいや」なのか?そういうことになってくる。なにが重要であるかを考えれば、「飲むと会社の業績は良くなる」は、ウソであることは明らかだ。