「報道」はどう変わるだろう?

ぼくは「報道写真」をやっていたことがあったのだが、報道写真では、ブレていようがボケていようが、とにかく世の中に出すスピードが報道の価値を決める。そういう視点で言うと、スマホのカメラの有用性は言うまでもない。当然、インターネットやSNSなどがベースにあってのことだ。撮影したその場でアップして公開。そうなると、どこの報道機関でも、そのスピードにはかなわない。写真を吟味するヒマも、写真を公開するかどうか問い合わせるヒマもない。数秒で終わりだ。

報道では、細かい解説を必要とするようなものは以外と少ない。たとえば「XX大学のXX先生のXXの会場での写真」だけで、その写真を見る人には、情報として十分なのだ。なぜ、その人がそこにいて、業績はなんで。。。それは、その報道を見た人が、必要であれば、ネットで一瞬にして調べられるから、まぁ、どうでもいい、という範疇の情報になる。なにせ、報道の情報を読む人は、その先生の関係者であることは少ない。忙しいのだから、ちょっとわかればいいのだ。であれば、報道は「写真(ビジュアル)」「スピード」が全てである。リアルタイムでなければ、報道の意味は100%とは言わないまでも90%以上はない。マスの情報の消費とは、要するにそういうものである。送り出し側がいくら丁寧に作ったところで、読む側は一瞬しか読まず、評価もそれなり。であれば、送り出し側でコストを掛ける必要も、本当はない。ただし、世の中の経済が豊かであった時代には、そういう「無駄」も許された、というだけのことだ。

今や、BBCなどの大手メディアでも、現場の記者はスマホで画像をアップしスマホで記事を書き、それで終わり、という時代だ。報道である以上、それで十分なのだ。また、「報道機関」の意味もなくなってきた。SNSでアップすれば、会員は当たり前に、それ以外の人もすぐにその情報にリーチできる。解説の記事部分を必要としている人も非常に少ない。必要なのは、目の前で起きていることがその場で多くの人に伝わることだ。

そこで、私が普段やっている「報道」でも、iPhone7plusだけで写真を撮り、すぐにFacebookにアップする、という方法に切り替えた。前は一眼のデジカメを持ってきていたのだが、もう意味はなくなった、とぼくは判断した。デジタル技術は報道を劇的に変えた。今まだ変わっていないところでも、すぐに変わっていくだろう。この流れについていくことができなければ、報道写真はもうできない。報道という事業が権威を持った時代も終わった。

いま、ぼくがデジカメを持って写真を撮るのは、自分の「芸術」をするためであって、それ以外ではない。「報道」であれば、迷わずスマホカメラで行く。いや、自分のでなくてもいい。そこにいる誰かのほうが、スマホを構えて写真を撮るスピードが速い、ってことだってあるだろう。

そして、「初報」こそが報道の命であって、後続の解説は、90%読まれない。意味がほとんどなくなった。新聞でも、よほど暇な人でなれば、ほとんどの記事はキャプションを読んで、写真を見て終わりだろう。興味がありそうなものだけ、記事の中身を読む。私たちが見るレガシーメディアの報道というのは、読む側にとっては、多くの無駄を提供されている、と言っていい。「私は鉄道に興味があるから鉄道の報道だけを読みたい」「鉄道というと経済も関係あるから、経済の記事も読みたい」「それ以外のものは必要ない」。それがユーザーのニーズだ。そこから「必要ないものにはおカネを払わない」まではたった一歩の距離しかないのが、現代の「デジタル双方向」の時代だ。

新時代の「報道」とは、つまり、そういうものではないか?であれば、報道とは「マスメディア」がなくなり中小の「専門メディア」だけがあって、それを読む側がチョイスする、というやり方でないと、やがて採算があわなくなってくるだろう。

既に子どもたちは、テレビを見ずにYouTubeで好きなものだけを見る時代だ。目の前に「報道」という事業が変わる、次の時代の扉がかすかに開きはじめているのだろう。

 


「人工知能」の不都合な真実

本当は「人工知能」というものはない。だいたい、コンピュータは「鉄腕アトム」の時代に「人工頭脳」と言われてこの世に登場した。人間に代わって「考える」ということをしてくれる機械だったからで、それってそのまま「人工知能」じゃないの?というものである事は言うまでもない。しかし、コンピュータが「人工頭脳」と呼ばれていた時代と、今のどこが違うのか?というと、まずはハードウエアが違う。

ハードウエアは、かつて10億円したものが、今は5千円も出せば手に入る。しかも、CPUの演算スピードは、過去と較べて現在は数百倍。メインメモリの量も、ストレージの容量も同じくらい現在は大きくなった。しかも昔と比べて劇的に安くなった。だから、以前は膨大すぎて実行にも時間がかかる巨大なプログラムを、現在なら小さなコンピュータで利用できるようになった。

また、インターネットの発達によって、現在のコンピュータでは手に余る大きさのデータなどを扱う場合は、インターネットを通してメーカーなどの巨大なシステムに接続して、こちらの小さなコンピュータではできない処理を肩代わりしてもらう、という「クラウド」の仕組みも、発達した。

この2つの「劇的な改善」で、小さくて安いコンピュータでもかなりの処理ができるようになり、ある意味「より人間に近づき」、「特殊なものであれば、人間を凌ぐ」こともできるようになった。それが昨今の「人工知能」と言われるものだ。

簡単に言うと、コンピュータの歴史というのは「人間の代わりに考えてもらう機械を作る」わけで、そうなると、人工知能、というのはもともとからあるコンピュータのことを、そのまま言っているだけ、ということになる。

また、コンピュータに人間のようなデータを蓄積させ、人間のように振る舞わせるためには、その「脳」の動きを模倣するだけではなく、手の感触とか、目で見たものの様子とか、要するに人間が持っている「五感」の機能なども備わって、コンピュータにおまけでついていなければならないが、現在はあたかもそういう「教育」をせずに、コンピュータが勝手に人間の真似をする、というように誤解されているところがあるのではないだろうか?そして、その五感が人間のように完全に働くためには、人間のように時間とともに成長するとか、そういうことも必要になる。現在のコンピュータには人間のような「五感」は特別な場合しかつけることはないわけで、そうなると、なんでもかんでも人工知能、ってことはありえないことだ、ということがわかるだろう。

ぼくらは、そういう仕事の最先端であれこれと作ってきたのだが、ぼくの周辺の誰もが「人工知能ブーム」には、かなり違和感を持っていた。それはつまり、技術というのは魔法ではなくて、当たり前のことを組み合わせてできているものであって、それが時代とともに性能が上がったり、安く簡単に手に入るようになったり、というに過ぎない、ということを、みんな知っているからだ。

ITはかつてキーワードを見つけて、そのキーワードで新しいものを紡いでいく、という感じがあって、それはそれで面白いのだが、モノを実際に作る最先端の現場では、中身をよく知る人もいるので、「なんだそれ?もうやってたことなんだけどなぁ」みたいな感じになる。とは言うものの、技術者も研究者も食っていかなければならないので、こういったキーワードを前面に出してくれるマスコミは、まぁ、それなりに役に立つ存在ではありました。ところが時代が代わって、マスコミが笛を吹いても、振り向くのは、インターネットもSNSも知らないおじいちゃん、おばあちゃん、あるいは役人だけ、という時代になったんですよね。で、このキーワード、どうしたもんですかねぇ、みたいな感じがあるわけです。

そろそろ、時代も変わる。そういう感じがあるんだよね。要するに、「人工知能」なんてキーワードは、マスコミの吹いている笛の音だ、ってことが、みんなわかるようになったからね。この先も同じビジネスモデルでいけるのは、どのくらいか、と指折り数えて、次の新しいパラダイムを探しに行かなきゃいけないよなぁ、と、そういう感じが現場ではあるわけです。

現場からは以上です。

 


自分でやってみよう

IoTの世界でも非常に多いのが、自分でやってみればわかるのに、ネット情報を検索して、答えらしきものを持って来る、という人。

以前、韓国の大学で教授をしていたときに、IoTに関しても優しく教えたのだが、そのときに「この問題の答えは検索しても出てきません。自分で考えてやってみましょう」なんてやらせたら、なんと驚くなかれ、そう言っておいたのに、みんなスマホで一生懸命検索している。言ったの聞いてないのかなぁ、と思ったが、韓国に限らず、最近の若い人はどこの国でも似たようなものだ、というのが後でわかってきた。

最近では「放射能汚染が云々」という人もいる。今は手軽な放射線測定器をAmazonなんかでも買えるわけで、まずは空間線量なら、簡易でだけれども、自分で測定できるわけです。ネットに載っている情報は、それがたとえ政府の機関の出したものでも「信用ならない」と言うのであれば、自分で測定すれば良いわけですね。しかし、それをせず、結局はネットの情報で「あれは怖い、これはいけない」とやっている。

そういう人は、自分で直接の一次情報に当たる、ということがいかに大事か、ということはやはりわかっていないんじゃないかと思うのですね。そういう人が騙されやすい。そういう時代なんだが、何でもネットに答えがある、と思うその気持ちに反して、それはニセの答えだったりするんですよね。

結論は「自分でやってみよう」「自分で確かめてみよう」なんだけれども。

 


「資本主義の終わり」の裏話?

NHKの番組でもやったようだが、資本主義が終焉に向かっていることが意識され始めている。この資本主義のゴールというものは、いかなる地球上のものにも限界があり、無限の成長が望めないものである以上、必ずある。限りない拡大、というのはありえないからだ。

そしてそのゴールへの近道を作ったのは、ITである。かつてぼくは、「社会というものが時間と共に変化するものであるとすると、ITとはその変化の速度を速める触媒である」と言ったことがある。その頃はその意味は誰も気がつかなかったし、わかりそうな人にしか話さなかったけれどね。そしてその触媒はその効果を事実として実現してきた。

もともと、ITはパーソナルコンピューターをを始め、学生運動の時代の米国西海岸のカウンターカルチャーの人々が作って来た、という歴史がある。スティーブ・ジョブズ然りだが、ビル・ゲーツは思想的にはジョブズの子供だった。ヒッピー文化などは資本主義の否定に熱心だったのは良く知られているだろう。彼らは、資本主義をいかに終わらせるかを考え、出した答えのひとつがITである、と、ぼくは2000年の少し前に気がついた。訪れた米国西海岸では、バークレーのUNIXの立役者の一人とも会った。全員が全員、カウンターカルチャーの出身であって、多かれ少なかれ当時の学生運動の中で育った人たちだった。何故だろう?とぼくは考えたのだ。

彼らは、資本主義社会が非常に単純な「富の拡大」という動機で動いており、その推進はより動きの速い者が勝つ「競争」の原理で動いていることがわかっていた。この競争の勝者となるための強力な道具は麻薬と同じである。これを彼らに与えれば、資本主義の亡者となった人間社会はこれを大量に受け入れざるを得なくなり、レミングの群れの如く、群れの終焉たる奈落まで、従来以上の猛スピードで突っ走る。そう考えた。

そしてゴールは、その種を産み落とした後、わずか50年も経つか経たないうちに(実際は20年くらいだったと思うが)、目の前にやって来た。シナリオ通りであることはあるが、効果はてきめんで、早すぎたなぁ、と、彼らも感じているだろう。

ぼくは、一浪して入った大学の中でさらに1年留年して社会に出たが、社会に出る時に、アルバイトをしていた教育系の出版社の社長に「入れてください」と頭を下げてお願いした。社長はOKした。しかしそう言ってから一晩寝ずに考えた。ぼくのいた学科は工学部でコンピューターを扱っていた。そして翌朝、ぼくは社長に「すみません。コンピューターに可能性を感じてしまったので、やっぱりここには就職しません」と言った。社長は激怒して「お前は二度とこの敷居をまたぐな!」と追い出された。数年後、ぼくはコンピュータ言語の本を書き、最終的にはそれが100万部売れた。そしてその会社を再び訪問した。社長は歓待してくれた。嬉しかった。

まだインターネットは無かったから、データ通信はこれから、という時代だった。そしてぼくらは、インターネットを日本に持ってきた。データ通信は世界を変える、と思っていたから、それに注力した。会社も作った。

超高速で安価なコンピュータと超高速で安価なデータ通信は、実際に世の中を電光石火で変えていった。それが資本主義社会の推進という名前の崩壊に向かう触媒として実際に機能を始めた。それが軌道に乗ったとき、自分の作った会社も辞めたのは、自分の会社の社会的な役割が終わったと思ったからだ。それは簡単に言えば、資本主義の崩壊への激しく速い歩みを促した初期の役割を終えた、という感じがしたからだ。

当然だが、私の周囲にいる人はほとんどそれが分かっている人はいなかった。ITは資本主義社会を短い時間で劇的に変えていき、そのゴールが見えてくるところまで来た。人間が人間以上のスピードを持つ道具を手に入れ、麻薬みたいにそれに取り憑かれ、虜になり手放すことができなくなった。マイナス金利が発動されたとき、「それ」は誰の目にも明らかになった。

カウンターカルチャーのシナリオはそろそろ終章に入った、とぼくは思う。

 


東京哀歌

毎年、正月休みとか夏休みの時期になると、東京で生まれ育ったぼくは、がらんとした東京の姿を数日にわたって見ることになる。「もうこのまま、東京には誰も帰って来ないのじゃないか?」「そのまま、東京は廃墟になるのじゃないか?」という思いが湧き上がる。それは子供の時から正月と夏休みの毎年二回感じていた恐怖感だが、今でもその恐怖感は消えない。いや、今その思いを強く思い出す。

思えば、東京という街は、田舎者が集まって賑わっているところだ。仕事で稼ぐためにやってくることが多い街だろう。田舎にいるよりは東京のほうがチャンスがあるからくるのだ。結婚のチャンス、起業のチャンス、より良い生活をするチャンス、より高い収入を得るチャンス、集まった人に自分を知ってもらい、有名になるチャンス、世界から集まった美味しいものを食べられるチャンス。etc,etc…

であれば、この先、リモートオフィスが当たり前になり、ホワイトカラーの仕事が地球のどこででもできる時代になれば、当然、東京へ来る理由が減る。さらに原発事故やパンデミックなどのクライシスが襲えば、東京にいる理由は全くなくなることだろう。東京とは、気がつけばそんな弱くゆるゆるな基礎の上に成り立っている、まぼろしの都なのかもしれない。今となっては、だが。

近年になって、子供の頃のそんな思いを強く思い出すのは、既に東京というところが、そこにいる理由を半ば失ってきている、という事実によるのじゃないかと、最近は思っている。

高度経済成長の時には、東京を目指して人が集まり、都会ができた。集団就職。上京。里帰り。このキーワードのどれもこれも、東京という場所が、人が生きるためのあらゆるものが比較的容易に手に入ったことを示しているだろう。出会い、仕事、人が生きるためのハブ。それが東京。

最近は正月明けとか夏休み明けに思うのだ。「あぁ、今年もみんな帰って来てくれた。明日からまた、前の日常に戻る」と。そして思い直すのだ。「次の休みが始まり、明けた時には、みんな東京には戻って来ないのじゃないか?」と。そうなったときの、廃墟・東京の姿を、寂しく頭の中に思い描くことがある。そしてそうなったときの様子は、きっと正月休みの東京になるんじゃないか、と思う。ぼくはその時に覚えるであろう戦慄の気持ちとともに、年末年始のガラガラになった廃墟のような東京の街を、歩いて写真を撮っている。

まるで異国の都市に迷い込んだ写真家みたいに。

 


IoTというけれども

年明けから、IoTの話題がどこでもすごいのだが、実際のところ、ぼくらの使っているPCのキーボードやマウスにも小さなコンピュータが入っていて、キーボードやマウスの動きをPCにデータ通信で伝え、ぼくらはPCを使えている。つまり、キーボードやマウスの中のコンピュータが本体のPCのコンピュータと「通信」をしている。当然、この通信データをインターネット経由で送れば、ブラジルで叩いたキーボードのデータを東京のPCが受け取るのは簡単だ。つまりIoTの「原型」がそこにある。これはもう30年くらい前からそう作りこまれている。当然、スマートフォンのタッチスクリーンの画面なども同じようなものだ。

【IoTは既に確立した技術。最先端ではない】
要するにIoTというのは、既に30年前には確立している技術の寄せ集めである。技術で見ると、新しいものでは決してない。簡単に言うと、IoTなんてのはコンピュータでは当たり前の技術であって、既にその技術がなければぼくらはマウスとキーボードでコンピュータさえ使えなかったのだ。

【LPWA/LoRa】
最近はLPWAなどの微弱電波による近距離データ通信の技術も表に出てきたが、これらの通信規格は既に2013年に制定されており、やっと一昨年ぐらいから商品がいっぱい出てきた。既に秋葉原に行けば、LPWAの通信モジュールは4千円くらいで売っていて、とても使いやすいモジュールとなっている。これらの国産モジュールは、日本のガス会社などのスマートメーターなどに大量に使われており、そのため、安価かつ安定的に供給されているのだ。ROHMなどの日本メーカーでも、LPWAのモジュールを作って、以前から売っている。これらのLPWAの規格では、最近はLoRa、SIGFOXだけではなく、数多くの名前をよく聞くが、だいたい世界で40くらいの規格がある。個人的には、そろそろ、あまりにいっぱいあって飽きて来たなぁ、と思っていたところで、なにやら盛り上がっているのかなぁ?という感じだが。

【劇的な廉価化と性能向上】
結論から言うと、IoTはこれまでの技術が、インターネットの登場によって、安価で高速、大容量、そして遠隔地での通信も非常に安くできるようになったので、一般に普及をはじめた、ということだし、LPWAについても、やっと世間が認知し始めたもので、実際には何年も前から動いているものではある。と、そういうことだ。ちなみに、ドローンも要するにラジコンであって、2008年には農業用のラジコンヘリをYAMAHAが発売しているので、現在のドローンが出たときも驚きはなかったし、人工知能もこれまでの技術が、CPUの劇的な価格低下と性能向上によって、一般にも降りてきた、という程度のことだ。常に最先端で仕事をしていたら、みんな「古いもの」「今頃出てきたの?なんで?」なんだな。

そういう最先端の場にいなかった人たちが、今頃「最先端」だと思っているに過ぎない。

日本のITとかの技術や、それをマネジメントしていた人たちも、かなり劣化したなぁ、ということを思わざるを得ない。

 

ITの業界の現場と「一般人」から見えるもの

どんな専門の業界でもそうなのだとは思うが、内部から見ている人間と、それを外から見ている人間では、その中間地点にある物事の見え方がまるで違う。どちらが悪い、どちらが良い、ということではないのだが、どちらが認識不足かというと、内側から見る人と、外側から見る人の認識が違うのは当たり前、やっぱり内部から見ていた人のほうが、中身は良く知っている、ということになる。

最近の世界のプログラム開発の主流はオープンソースに変わってきた。ちょっと古い人だと、その世界がどう言う世界かわかっていない。それなのに、新しい人はオープンソースで開発をする。このギャップも出てきた。オープンソースでモノを作る時代になれば「バグ消滅曲線」とかそういう従来の「基準」が役に立たなくなることは言うまでもない。

たとえば、ルーターのような製品、Google Homeのような製品は、内部はオープンソースの塊で、それをいかに使うか、という技術は非常に大切になる。まずはどこにどういうオープソース資源があるかを知らないと、見積もりさえできない。世界の最新のプログラミング事情を知らないと、全く役に立たない。IoTも今やオープソースの塊だから、やはりオープンソースでの開発をやったことがないと、全くできない。

ちなみにオープソースを「プログラミング技法」などと言っているあいだは、全くこの流れについていけないと思って良いだろう。オープソースは現在のハイテク技術の根幹を成す「ソフトウエア」の開発において、「技法」ではなく、それよりも遥かに重要な「思想・哲学」である。そして、それは実際に手にして触った者しかわからないものだ。しかし、これなくして、今日のITやIoT、人工知能システムなどは全く成立しない。IoTのプロダクト等を作るには、その思想を取り込んでいることが求められる。

この程度は作るほうの人間にとって必須の知識やスキルなんだが、ちょっと古いプログラミングしか知らない技術者が混じっていると、そこで、コミュニケーションがとれず、混乱する。数年以上前の知識しかない技術者や管理者はいるだけ開発の阻害要因であって、早く現場から消えてほしい、となる。プロジェクトの管理者の技術スキルは非常に重要で、プロジェクトの成否を分ける。正直なところ、プロジェクトマネージャレベルでさっさとこういう話ができないで「教えてくれ」なんてのは論外だ。それだけでプロジェクトの足を引っ張っている、ということになる。そして、それを自分ではたいてい気が付かないから、始末に悪い。

さらに、こういうプロダクトを作る会社の社長などでも、全く内容についていけない、という人も論外だ。プロジェクトの進捗や、うまくいかないときになにが足りないのか?などの見識が即座に持てないからだ。技術者としては、意味がない人と仕事をしてもプロジェクトは失敗するだけだし、得るものもない。日本流のマネジメントで、こういう世界は回っていくわけがない。それでも流行っているから、ということで、やろうとしているのが、日本の役所とか古い技術職だった人たちの塊だが、正直なところ、その全てが時代遅れになっている、と言って間違いはない。

現代のプログラム開発、IT/IoT製品開発は、明らかに国際的な開発スピードの競争であって、そこに、日本的なのんびりしたジェネラリストが入り込む余地は全くなくなっている。

いまは日本が一番ではない。技術もお金も日本は中国などの後についていっている、金魚のウンチみたいなものだ。日本企業のお家芸、なんて言われていた液晶ディスプレイ技術もそうだ。今や8Kは中国の2社が独占と言っても言い過ぎではない。

まずは現状を見据え、できるところから、できるだけ新しい世界のトップクラスのやり方を真似るところから始め直さないと、日本のITはやはり危うい、と言わざるを得ない。

 


iPhoneの電池の劣化とソフトウエアでの対策問題

ここでなにを書こうとしているか、というと、Appleの電池劣化ソフトウエア事件である。実際、大きく報道されていはいるものの、まぁ、よくあることといえば言えることだ。この事件の問題は、内部で行っていることをちゃんとユーザーに事前に知らせていなかった、ということによる。Appleがやっている対策は、様々な電池劣化による性能低下に対する当たり前の対策の1つであって、それ自身は問題ではない。問題は、ユーザーがそのことを知らなかった、ということに対して、Appleが事前に説明しておく必要があった事項だったのを忘れてしまった、ということだろうが、実際にそれは無理なことだったんじゃないか?とも思う。

事が「発覚」したのは、このあたりの記事、昨年の12月21日あたりからだ。

結局、Appleは「iOS11.2以降では、電池が劣化すると、電池の容量低下で勝手にリブートするのを防ぐため、その場合はCPUのスピードを落とすメカニズムを入れておいた」という事実を認めた。実際のところ、これが極端にユーザーの使い勝手に影響する場合は、そうそう多くは無いと私は思うが、なぜ、エンジニアやエンジニアリング部門がそのことをユーザーに教えることを怠っていたかというと、まず、けっこう込みいった話になるので、説明が面倒臭い上に、ユーザーの理解が至らず、わからない、納得しない、などのことが起きたときに、面倒ごとを抱え込むことになりそうだ、と思ったからだろう。実際、こういった充電式電池を使うハイテク機器は、電池の劣化に対する様々な対策を持っているものだが、Appleはこういう方式を採用している、というだけのことだ。同じことは、たとえば、表には出ていないし、Appleだけでもないと予想がつくが、LTEや3G、Wi-Fiなどの電波が届きにくく、ブツブツキレる環境ではどうするか、などの場合も、同様に、各社各様の様々な「解決方法」「解決のためのポリシー」を持っているはずだ。そういうことをいちいちユーザーに予め知らせておく文書を用意する、などのことは、保険としてやっておいてもいいことではあるとは思うが、それにしても、そういう問題が一体いくつあるのか?などを考えると、それ全部に「答えを用意しておく」というのは、おそらく現実的ではない。

簡単に言えば、アマチュアが「そういう事実」を発表してしまったので、Appleは対処せざるを得ないところに追い込まれ、さらには電池交換ディスカウントもしなければならないところまで追い込まれたのだ。つまり、技術の問題としてはあまり大きな問題ではない。

ところで、スマホに使われているリチウムイオン電池は、充電と放電を繰り返すと、必ず劣化する。この目安が、だいたい1年くらい。毎日、100%に近い充放電をしていると、という条件つきだが。そして、2年目くらいでだいたい「使い物にならない」という水準になる。スマホの電池が劣化してくると、いくら充電しても100%の満充電にならなくなったり、満充電になっても、すぐに電池がなくなったりする。そのため、AppleではOSで電池の劣化を検知したら、CPUの速度を落とすことによって、iPhoneの電力消費を抑える。これをしないと、極端な場合は、電源を入れて数十分などの時間で、突然電池の電圧が急降下し、リセット状態になる、などが繰り返され、使い物にならない、ということになる。しょっちゅうリセット(リブート)を勝手に繰り返すiPhoneが使い物にならないのは、容易に想像ができるだろう。

だから、Appleのこの「措置」は正直なところ、エンジニアリング的には、まっとうなやり方の1つだ。しかし、シロウトがこれを外部からの試験で「発見」してしまったために、「大事」に発展した。

例えて言えば、自動車の部品1つをシロウトが取り出して、その強度を測ったら、必要な強度が得られていないので、これは問題だ、と発表してしまった、ということに似ているだろう。製品としてトータルな性能は事故の場合なども含め、ちゃんとバランスが取ってあり、実際の走行には問題がないのだが、部品1つでは、強度不足のものを使っても問題ない、みたいな。あるいは、自動車では欠かせない電装品のある部分の電源のコードが、規格では1Aが十分通るもの、と、指定されているのに、実際には0.8Aのコードが使われていた、とか。実際に測定してみると、ピークで0.8Aであって、その電流が普段しょっちゅう通るわけではないから、実際には問題がないにもかかわらず、規格通りではない、だから全部ダメ、みたいな、そういう感じか。システムはクルマもiPhoneもそうだが、技術者はコストなどの制約のある下で、なんとか製品全体として問題がない、というものを目指すことになるのは、ある意味当たり前のことだ。

特に、電池関係は最近非常に気を使う。なにせエネルギー密度が高い。そのため、Out of Controlになると、発火事故などが起きることもないではない。非常にまれなケースだが、それでも大事ではあるので、事故が起きると大きく報道される。

年間の利用者数に対する事故での死傷者数を見ると、飛行機は他の交通機関に比べて桁違いの安全性がある。自動車のそれは非常に多い。となると、長距離での移動手段で飛行機を使うのは合理的な判断になる。ただ、飛行機の場合は事故そのものが少ないので、いざ事故となったときのニュース性が高く、良く報道されるので、悲惨な事故の様子ばかり私たちは見ることになる。それだけのことだ。

Appleの話に戻すと、要するに、Appleの問題はAppleの問題ではなく、「問題にしたことが問題」だと、私は思う。

 


2018年の正月は変化を感じる日々だった

なんだか、今年の正月はいつもと違った。変化が表面に出てきた感じがある。自分の年齢もあることはある、とは思うのだが、それ以上に世の中が動き始めている、そういう感じがある。

まず、「正月の帰省」ということをする人が非常に少なくなった、という感じがある。このままいくと「帰省ラッシュ」なんてのはなくなる可能性がある。

次に、これは昨年からだが、これまで大丈夫だと思っていた生活のインフラ、公共交通機関がやたらと止まっていた。

年賀状は昨年からやめて、でも、いただく年賀状には返信を出した。そうして驚いたのは、近所の郵便ポストがあるべきところにない。仕方なく、コンビニの郵便受けに返信の年賀状を入れた。

自分も含めてだが、なにもかもが変わっていく、そういうものを感じざるを得ない。

今日が仕事はじめ、という人は多い。昨日から仕事の人も多い。正月は仕事だった、という人も多い。いや、自分もそうだったけれども。

 


あけましておめでとうございます

あけましておめでとう。

毎年、1月1日には、多くの人に「あけましておめでとう」を言ってきたけれども、最近は日本国外の友人もいたりして、日本の正月の雰囲気だけでは語れない、全く違う「感じ」を持つことが多くなった。とは言うものの、日本人でパスポートを持っている人は全人口の20%ほど。ということは、外国とつながりがあるとか、しょっちゅう外国に行くとか、ってのは、日本では少数派なんだなぁ、と、あらためて思うわけです。でも、ぼくは年越しを外国でした数は、今まで数えるほどしかない。

でも、自分の目の前の現実はそういうものであって、それはそうでしかなくて、その現実には対処していかなくてはならなくて。

私の子供の頃の「お正月」といえば、おせち料理に初詣、お餅、お雑煮、お屠蘇。。。。という日本らしいお正月がやはり普通だった。しかし、今はどうだろう。自分だけではなく、多くの周囲の人を見ていると、そうではないことのほうがやはり増えた。ある人は海外旅行に行き、海外で年を越す、ある人は友人たちと飲んだくれている。ある人はいつもと同じ夜と朝を迎える。日本人の「正月」も、日本人という枠内のことではなく、一定の決まったかたちはなく、それぞれがそれぞれに過ごす。それが普通になった。

自分はといえば、PCの前に座って、カウントダウンをすることが多くなった。もう紅白歌合戦も、何年も見ていない。もともと、1997年くらいからテレビもほとんど見なくなったので、まぁ、自分にとっての普通の正月といえばこんな感じだ。ただし、PCだネットだ、と言っても、ぼくらははじめたのが早くて、はじめたときは、そういう「年越し」は誇らしかった。今のようにPCやネットが当たり前ではなかったからだね。今は誰でも使う「当たり前」になったから、また感じが違うわけだが。

時代は代わり、習慣も変わる。重い儀式は解体され、日本だけというわけにもいかなくなった。時は戻せない以上、前に進んでいくしかない。変化に適応していくのではなく、自分が変化を作る。

軽い挨拶である。

「あけましておめでとう」