人工知能は騒ぎすぎ

現代の今、このときは、多くの人がスマートフォンなど身近なIT機器を当たり前に持つ時代になり、その上で通信を前提としたシステムで多くのサービスを便利に受けられる。これは、コンピュータのハードウエアの価格の短期間での劇的低下と、計算速度などの劇的な向上、ストレージなどの記憶部品の価格の劇的低下と劇的性能向上によって、可能になったものだ。例えば、現在、世界をつなぐインターネットの接続はぼくらは毎月数千円、ときには数百円で、道端でもそのサービスを受けられる。遠く離れた米国ホワイトハウスのWebページは、東京の下町の飲み屋の中でも読むことができる。国際データ通信回線は25年前なら毎月数百万円した。「身近になる」ということは「安価になって誰でもそれに接する機会が増える」ことだ。

そして、身近になったスマートフォンやPCで、人間どうしで会話をするみたいに、なにかを無料に近いお金と手間でやってくれるサービスを期待するのは、人情というものだろう。それをぼくらは「人工知能」という言葉で表現しているのであって、「人工知能」という「なにか」がそこにあるわけではない。

事実、私もこの業界に数十年いるのだが、20年以上前から、大手企業ではロボットが人混みの中、広い工場の中を動き回り、資材や工具を運んでいた光景を当たり前に見ている。そして、そういうものを自分でも作ってきた。そのロボットは、目の前に私が突然移動すると、その姿を検知して止まり、私が通り過ぎるまで、待ってくれた。誰ともぶつからず、その役目を果たしていた。工場内の無数のロボットの動きは中央の事務所のディスプレイにリアルタイムで描かれており、ロボットの故障もわかるようになっていた。繰り返すが、これは25年前の日本での光景である。

ただし、今と違うことがある。

「価格」である。当時は、こういうシステムを作るのに、数億円はかかっていた。今はおそらく数千万円でお釣りが来るだろう。毎月のランニングコストも劇的に低下した。私達がスマートフォンなどで受けられるサービスは、毎月数百円、あるいは無料で受けられるが、同じサービスを25年前に受けようとしたら、最低でも毎月数十万円はかかったはずだ。

要するに「シンギュラリティ」の基礎は「コスト」である。お金の話なのだ。人工知能も同じで、昔からこの業界で仕事をしているぼくらにとっては、昔から当たり前のことだった。しかし、今はそれが劇的に安くなり、多くの人の生活の視野に入ってきた、というだけのことだ。

そしていま、人間の組織が行っている「事業」を「ITシステム」が置き代える時代になった。かつてはコストが非常に高かったものが、非常に低いコストで手に入るからだ。

「IT」とはなにか?「人工知能」とはなにか?

それは「便利」「素晴らしい」で語られることが多いが、それは「お金」を無視した話だ。そして、今はお金を無視できるほど、かつてより豊かな時代ではない。

だから、ぼくは言うのだ。

「人工知能は無い。あるのは時代とともに変わるコストだけだ」。

 


 

古い時代と新しい時代

朝一番で、街を歩く。近くのマンションの一階に小さな電球工場があって、朝一番で電球用のガラスを納入するトラックが来ている。電球はもちろん、いまや「形だけ」になって、白熱電球かと思って中を見ると、LEDのチップが入っている。フィラメントではもうない。さらに歩いていると、朝のゴミ集積所。ダンボール箱を潰したものは「Amazon」のロゴマークばかり。

このあたりはかつての町工場街だから、他にも小さな「匠の技」を持つ工場がある。管楽器の「絞り」を作っている工場もある。でも、その技術は今やロボットに置き換わりつつある。

昔は100万部出た本を書いた。当然だが、昔すぎていまは書店に行ってもない。が、さらに驚くのは書店そのものが減っている、ということ。だから、自分でこれから出す本は、電子書籍にした。某有名な出版元の社長も「これから紙の本はなくなる」と、言い始めた。先見の明のある人は、みんなが怖がっていることを、はっきり、堂々と言う。それが自分の生きている場所を崩すものであっても、その現実をしっかり見据え、次の自分の行くべきところを狙う。

数年前、韓国に大学教授でいたことがある。数万人の学生を擁する大学の周辺には、CDショップは一軒もない。学生はダウンロードで音楽を聞いていた。最近はそれをも通り越して、Spotifyなどのストリーミングで音楽を聞く。もう、音楽データは手元のPCやスマートフォンの中にはない。

おそらく、現在は新しいものと古いものが闘争している時代なのだ。世の中の矛盾や不都合の多くは、おそらくそれに起因する。そして、新しい時代には新しいものがやってくる必然が、おそらくある。新しいものが面白いから飛びつくのではない。それは生存競争の一部だ。