満員電車で考えたこと

久しぶりに、数日、朝の混雑する通勤電車に乗っているんだが、「そういうのに乗るのは何十年ぶりだろう?」と思い返している。その数十年の時間で、この国はなにも進歩していないなぁ、とも思う。

朝夕のラッシュは、ICTを駆使した、ペーパーレスのリモートオフィスの出現でなくなるはずではなかったのか?その代りに、人工知能があるから、って人間さえいらなくなる、という未来がやってきた。

古くからある「時差通勤」とか最近言われる「働き方改革」で、朝夕の通勤ラッシュ・帰宅ラッシュはなくなるんじゃなかったのか?代わりに、人間のいらない「人工知能会社」ができるだろう。

「人工知能」ってのは、今のITを象徴的に言っただけの言葉で「人工知能」という特別なものがあるわけじゃない。「ディープ・ラーニング(Deep Learning)」という手法で統計を取り、その統計に従って、マシンが自動的に自分の動作を決める、というものだ。ディープラーニングは膨大な量のデータを扱い、統計を取るので、多くのデータを入れる場所と、それをアクセスし、演算する速度が必要で、かつてはそういうハードウエアには多大なお金がかかっていた。しかし、現在はそういうハードウエアにかかるお金は非常に安くなって、大衆化した。技術としては昔からあったものだが、それが「実用化」し「大衆化」するための「コスト」という障壁が取れた、というだけだ。

であれば、次に必要なのは、こういう「安価で便利なもの」をどのように作り、どのように使いこなすか、ということになる。しかし、この数十年、その「考え方」がまるで変わらないのが「日本」という地域だ。

リモートオフィスが簡単で安価に実現できる技術が手に入るのに、なぜ出勤ということをするのか?人に無駄な苦労をさせるのは組織の団結のため、という考え方もあるだろうが、そういうものはここ数十年でガタガタに崩れた。この先はもっと崩れていくだろう。なぜならば、何事かを成す場合、人の組織そのものが不要な時代になりつつあるからだ。

人のエネルギーも、実際の電気などのエネルギーも無駄なものは無駄である。社会のあり方や考え方を変えて、この「無駄」を極限まで減らすことが求められている。思考を変え、働く人はもっと楽に。そして、人工知能やリモートオフィスをもっと便利に。それがあるべき「高度ハイテク社会」ではなかったのか?

日本は先進国である、というのであれば、そういう変革を躊躇することはない。

 


 

日本の「都会」と「田舎」の消滅

日本の田舎ってのは、要するに資本主義の経済原理とは文化的に違う。逆に資本主義の経済原理を批判する側に立って見ると、資本主義そのものが、グロテスクな怪物みたいに見えると思う。

田舎でも、「東京に出て来て成功し田舎に凱旋する」と言うモデルがあるでしょ。つまり「成功」は田舎ではなくて、「東京という戦場」でするものなんだな。田舎で何か突飛なことをして成功するのは、真っ平御免ということの裏返しなんですね。つまり「田舎は帰るところ」であり「都会は戦争しに行くところ」なんだな。

つまり「生活の場」と「戦争の場」が地域的に別である、という前提で日本(だけじゃないが)の社会はできて来ているんだね。しかしながら、物流、人流、情報流が非常に低いコストでできるように発達した現代においては、こういった「都会」と「田舎」は、だんだんと境界線を無くして行くんだね。これは人類始まって以来の大きな変化なんだな。文化への影響というものを考えるとね。

沖縄にもコールセンターなんかできちゃうわけですよ。だからさ、インターネットって面白いよねぇ、世の中を変えるよねぇ、と思って、ぼくは始めたんだよ。そういうものにピンときた。ってのかな。ぼくは都会で戦い続けて、田舎を持たない。だから、ぼくはおそらく無意識に田舎を戦場にしようとしている人間に見えるんでしょうね。でも、それは当たり前に始まる、人類全体の変化なんだよ。思い出せば、それはぼくの親子三代にわたる、ぼくの一家のたたかいでもあったんだなって思うよ。しかしね、時代は変わる。繰り返さない。常に変化して行く。

やがて始まるのは「地域」の境界がなくなり、「地域」が消滅する時代だと思うんですよ。ぼくはね。まだぼくらの感覚はそれについていけていないけれども、そういう時代は必ず来る。そうなれば、必ずなくなるのは宗教だったり、文化だったり。一部で始まっているでしょ。どんな「地方」にも巨大なショッピングモールがあり、その中には都会にあるのと同じお店がある。どの国に行っても、空港に到着すると、雰囲気が同じなのは、最近の傾向だ。「それ」は始まっているのだ。それが、いいとか悪いとか、そういうことではなく、始まっている。変化は否応なしに、ぼくらの周辺を包み込む。それについていけるかいけないか。それが大切なことになる。生きていくためにね。


 

「人生百年時代」の「シニアの生き方」

日本という国にここ20年間で起きた変化は、非常に大きな変化だ。

まず、高齢化社会になったこと。少子化が進んだこと。少子化は「少子化という現象」であって、「原因」ではない。つまり「原因」をきちんと議論する必要があるのに、その議論がなかなかされていない。

日本という地域の高度経済成長期は、第二次大戦後の各先進国の高度経済成長期と同じ時期に起こり「大量消費社会」ができた。エネルギーからモノまで、同じものを大量に作り、1つだけのオーダーよりも、より安い価格で同じ品質のものを手に入れ、それを豊かさであると私達は思った。例えば、某巨大自動車メーカーの作っている100万円前後の「大衆車」も、オーダーで1台だけ作れば数億円する。多くの消費者は数億円のクルマを買えない。しかし、100万円前後であれば買える。大量消費には大量生産が必要だ。現代の「産業」というのは、基本的に同じ構造を持っている。

その「大量消費」「大量生産」が限界に来た。大量生産したモノがかつてより売れない世界になった。第二次大戦後の「高度経済成長期」は終わった。

そのころ、企業戦士として特化した訓練を受け、大量生産関係の技能を持つ人間が多くできたが、そういう人が余り始めた。そして高齢化した。加えて、インターネットと物流と人流が揃って国境を非常に低いコストと時間で超えていく時代が訪れた。人間の歴史の大きな屈折点ができたのだ。時代、人の世が変化している。大きく、だ。

そんな時代には、頭の中を改造しないと生きていけない。今まで大切なものが大切なものではなくなり、今までゴミのように扱われたものが非常に重要な意味を持つように、世の中が変わった。

「シニアが元気」なのは、そういう「製造業が元気で豊かだった時代」に若い時代を過ごしたからに過ぎない。この先もシニアが元気になるには、シニア自身の頭の中を、製造業に特化した頭から、何にでも対応できる柔軟なものに変更していかなければならない。いつの時代でも、頭が柔軟でないと生き残れないのだ。