「無敵の人」になりきれない

 

つい先日、JR横須賀線に乗っていて、集中して仕事がしたかったので、グリーン車に乗った。グリーン車なんて贅沢な、と思うなかれ。千円でお釣りが来る移動中の個人環境である。食べ物や飲み物は出ないが、ちょっとした仕事の空間として適当な感じがする。なによりも個人席でPCを出して使える。しかも、私はそんなにたくさんグリーン車を使っているわけではない。毎月1回、あるかないか?だ。

そして、PCを使っていたのだが、飲み帰りの老人が「キーボードの音がうるさいからやめてくれ」と言ってきた。こういうのは初めての経験だったので「すみません。音が出ないようにします」と言って、スマホの画面のキーボードに切り替えた。なにせクラウド上のファイルを書いているところだから、PCからだろうが、スマホからだろうが、なんとかなるのだ。とは言うものの、私の使っているPCはキーボードの音がガチャガチャするような機種ではなく、かなり静かなので、おかしいな、とも思ったのだが、私もときを経て人間が丸くなったのか、反発などせず、「すみません」とだけ言った。

すると、それを言った老人は、しばらくすると、私のその席の近くにある自分の席を立って、他のところに行ってしまった。老人の目は怖くて私が見ることはなかったが。

明らかに「IT機器を使いこなす」みたいなイメージのことに「腹が立って」いるのがわかった。それが感じられた。飲み帰りだったのだろう。顔が赤く、酒臭かったので、ここでヘタに答えると、刺されるかもしれない。最近の老人はキレると怖いらしい、と思って、理不尽ではあるとは思うものの、丁寧な言葉で返しておいたのだが、やっぱ怖かったなぁ。

まぁ、そういうご老人が最近は多くて、いや、自分もそろそろ「老人」と言われる年齢に片足突っ込んでいるとは思うのだが(←いや両足だよ、という声も聞こえないではないが、聞かなかったことにして)、困ったものだなぁ、と思った。自分より良い思いをしている、と思える人に異常な嫉妬心と攻撃を仕掛ける、「無敵の老人」が増えているのだ。ここは、危険を避け、「君子危うきに近寄らず」である。

とはいえ、私のこれまでの人生では「トッププレイヤーはいいが、そうではない人は置き去りなのか?」という疑問を投げかけられることが多かった。嫉妬もあるだろうし、嫉妬のベースとなっているものは、おそらく「自分は変化の速い世界に置いていかれる」という焦燥なのだろう。そして、今はさらにさらに、社会の動きのスピードは速くなっているのは間違いない。当然、落伍する人はさらに増えていく。親は考える。「子供を落伍させないためにはどうするか?」と。親も自分がそうならないためにはどうするか?と。老いてなお、世の中とのつながりを持つことは、その世の中のスピードにあったスピードで自分を変化させていくことだが、それは老いと同時にできなくなってくる。それは死期が迫っている、ということだ。世の中のスピードが速くなればなるほど、死期は間近に、すごいスピードで迫ってくる。キレて「無敵の人」がいてもおかしい世の中ではない。

暴走老人社会が、やがてやってくるのだろう。そして、それは止められない。

 


 

タブレットは生産性を下げる

このところ、満員電車によく乗るのだが、中でタブレットを使う人がいる。スマホを使う人はもちろん多いが、つり革にもつかまらず、立ったままスマホを使う「ワザ」があるのだ。これには驚いたが、見ていると器用なものだなぁ、と感心する。

それはともかく、タブレットを使っている人も多い。タブレットを使っていると、画面が大きいのはいいのだが、自分の場合は、すぐに使わなくなる。満員電車で出しにくいし、夜寝るときに使うと、重いので手が疲れる。図体が大きいので、電池も大きく、電池が持つのはありがたいのだが、タッチパッドの画面の面積も大きく、なにかとミスタッチも多い。いや、あくまで自分の場合は、なんだが。買ったときは良いように思うのだが、すぐに使う頻度が減る。どこかの時点で充電を忘れて放置、という感じだ。

やはり自分としてはキーボードがついているものでないと、長い文章が書きにくい、というのもあって、やはりタブレットからは遠ざかる。しかも、最近は画面の少々広くなったスマホもあって、タブレットの出番はますますなくなってきた。みんなタブレットって、どう使っているんだろうか?

 


「本を読む」が「知的」である、という感違い

最近良く言われることに「子供に本の読み聞かせが知育に良い」とか「ビジネスマンは本を読むと知的になって成果があがる」などの話がある。とは言うものの、最近書店に行ってみても「XXの営業のノウハウ」とか「XXマーケティングとは」みたいなビジネス書ばかりである(でなければ「一帯一路の罠」とか「韓国経済崩壊」みたいな本ばかりだ)。現代の出版にちっとも「知的」は雰囲気はない。直接お金につながらないことなどは、ほとんど「紙の本」として売れないので、お金にならず、出版社も「出版大不況」で食えないところがほとんどだから「売れる本」ばかりが書店に並び「紙の本ビジネス」の断末魔の叫びをそこここに見る、という、悲惨な状況だ。紙の本は売れていない。出版社も潰れたところや事業縮小したところも多い。

一方、通勤電車の中でも、お昼休みのレストランでも、スマホをやっていない人を見ることは稀になった。かつては新聞を広げて通勤するビジネスマンも多かったが、今はスマホである。間違いなく、時代が変わってきた。某有名な作家は「これから紙の本は出さない。電子出版だけにする」と宣言した。世の中が変わりつつあるのを感じる。

そこで「紙の本」で育った編集者などがネットメディアに移ることも多くなり、そこから紙メディアに援護射撃のつもりかもしれないが、書店に並んでいる本のランキングなどを出して、しぼみつつある「市場」になんとか活を入れようと必死だ。正直なところ、私もごく小さな鼻垂れ小僧の時代(そういや、最近はみそっぱ、とか鼻垂れ小僧、っていないんですけどね)から、紙のメディアに育てられた身であって、長じては自分の本を出すことができて、それが売れたから、それなりに祝杯を上げたこともあった。しかし、今はそういう時代ではなくなってきている。

「本を読む」ことだけが「知的」でもなくなった。活字に親しむことが「知的」でもない。私の子供の頃は日本も高度経済成長期で、各家庭には必ず「百科事典」がズラッと並んでいて「うちの子は勉強好きで。。。」などと専業主婦が我が子自慢の火花を銀座の風月堂の喫茶店あたりの井戸端会議で散らしていて、その火花のとばっちりで、出てきたコーヒーは冷めることはまずなかったわけだが(←少しおおげさ)、今や「本」を知的だと思っているのは、その時代に子供時代を過ごしたご老人だけになってしまった。

朝の通勤電車でスマホを開けば、新聞各紙のサイトまで行くこともなく、ネットニュースが溢れており、テレビも見る必要がない。ゲームをしたければゲームをすれば良いし、自分のしごと関係のニュースを知りたければ専門誌のWebを見れば十分事足りる。文学作品も「青空文庫」で、紙の出版に適さないようなマイナーな作家のものも読めるようになったし、出版事情は大きく変わった。音楽もアナログのレコードからCDに、CDからダウンロードに、ダウンロードからストリーミングに変わった。音楽はおそらくライブのみが価値のあるものとして残るんじゃないか、と私は思うのだが。

この大きな時代の変化で「本」も「電子書籍」が当たり前の世の中になりつつある。朝9時にWordのファイルで入稿した「本」は、その日の夕方には電子書店に並び、欠品や取り寄せもなく、その場でダウンロードして読めば良い。音楽と行く道が同じなのであれば、書籍もダウンロードから常時接続による「ストリーミング本」だって、一部で出てきているから、これが主流になる可能性もあるだろう。電子書籍では文字の大きさを自由にできるので、目が悪くなっても文字を大きくでき、レイアウトも変わるから、厳密なタイプセッテイングそのものが無意味になる。

時代は変わっている。変わる時代に抗するのはおそらく無駄である。なぜならば、新しいもののほうが速く、劇的にコストが安く、同じ効果が得られるからだ。かつてのアナログレコードが「特異な趣味」として生き残るのと同じように、紙の本も生き残るだろう。しかし、生き残るだけで、過去と同じようには戻らない。時計は動いていて、人間のちからではそれを止めることはできないからだ。

 


 

「お金持ち」は「小さなカバン」を持っているか?

世の中には、様々な人がいて、様々な「個性」がある。「お金持ち」というのや「貧乏」というのはその人についた「属性」だが、「個性」になることもあるし、「個性」を形作る要素の1つであるかもしれないが「属性」と、よく見間違われるわけではありますね。

つい先日も「お金持ちは小さなカバンを持っている」という広告の記事があった。その広告の邪魔をする気はないから、特になんの記事であるかを特定することはしないけれども、実際「お金持ち」は目立つし、その人が小さなカバンを持っていると、それも目立つだろう。もっとも、その人が大きなカバンを持っていても、目立つんじゃないかと思うわけだが。

だいぶ前に、世界の大富豪と言われているMicrosoft社の創業者であるビル・ゲーツ氏が日本を訪れ、テレビに出演したことがあったが、彼はそのとき、先っちょの壊れたボロボロの靴を履いていた。「なるほど、金持ちはボロボロの靴を履くんだ」とは誰も言わない。また、商品を売るための広告に使えないこういう行為は、当然、共有されても、広告宣伝の記事になることはない。「お金持ちにもいろいろな人がいるものねぇ(つまり、個性だよねぇ)」で終わりである。

また、これは話だけだが、ORACLEの創業者で元CEOのラリー・エリソンは、飛行機で移動するときは、ファーストクラスに乗らず、いつもエコノミークラスだという。ビジネスの厳しさを言うときによく引き合いに出される話だが、この話も最近は聞かなくなった。飛行機会社の広告には使えないからだろうとは思うが、当然、そういう記事はあまり出ない。

簡単に言えば「金持ちはこういうことをする(こんなものを持っている)」という話や「タレントはみんなハワイが好きだ」という、そういったものの1つとして「金持ちは小さなカバンを持っている」というのはあるのだと思うわけですね。それは個性を無視した話であって「自分もお金持ちになりたい」と思う人が、この「原因と結果」を勝手に逆転して解釈し(つまり原因と結果が見えないのね)「小さなカバンを持てばお金持ちになれる」というように、勝手に考えて小さなカバンを買いに走る、という消費行動を惹起する広告記事として、今ひとつ、いかがなものか?とは思うわけなんですよ。いや、売れたかもしれないね。

今のネットの世の中に限らないんだけれども、ちゃんとしたお金持ちになれるほどの頭脳があれば「原因と結果」の逆転などはしないわけですよね。つまり、こういった広告に乗せられて「そうだよね!」と頷く人は、永遠にお金持ちにも、何者にもなれない、ってことだね。意地悪でごめんね。

 


 

「専門家」が見えない時代

今の世の中は「専門家」へのリスペクトが少ない社会なんだな。専門家でなくても、ある程度はできる。たとえば、専門家は「クルマを作って、そのクルマで目的地に行く」ことを考える。当然、「一般人」は「できているクルマを買って、そのクルマで目的地に行く」。あるいは「タクシーにお金を払って、タクシーで目的地に行く」のが一番の「近道」かつ「安価」になる。
どちらも目的を達することができ、そして、おそらく後者のほうがコストも低く、到達までの速度は速い。
しかし、確率はそう多くないとは思うが、途中で事故が起きたり、あるいは、クルマがエンコしたりすると、手軽に目的を達する方法しか知らない「専門家ではない人」は、結局は中身のわかる「専門家」の助けを借りるしか、目的を達する方法はなくなる。しかし、そういうシチュエーションは確率として減っている。だから「専門家ではない人」は、事故があったときだけ、専門家に来て欲しい、と思う。しかし、「手軽かつ安価に」に慣れすぎているので、「専門家」も「手軽かつ安価」だと思ってしまう。しかし、「専門家」はそれで食っているのであって、めったなことでは安い対価では動かない。あるいは、安い単価であれば、それなりの対応をするしかない。
結果として、「専門家ではない人」は、「専門家は(普段は)必要ない」と考える。しかし、いざというときのために、専門家が要るのだが、その「いざというとき」のために、ずっと専門家を待機させて雇うほどのお金は考えていない。まぁ、こういうったことが延々と続いて、あちこちで火を吹き始めているのが現代という時代だろう。こういうことは自分のところだけだと思っていてはいけない。やがて、あちこちで火の手が上がって、専門家は足りなくなり、高騰するのは、目に見えている。今のほうが安いのだ。
今、ITについても、「専門家は必要ない」と思う「素人」は多い。実際、素人でも扱えるように、と専門家が作ってきた膨大なインフラやサービスがあるから、それができるだけのことなのだが、「利用者」はそのことを知らずに使っている。専門家のしごとのおかげだが、この時点で「専門家」は「素人」からは見えないところにいる。
「専門家」と「素人」のコミュニケーションも減っている。これはだんだんとクライシスへの接近を意味しているのだが、ほとんどの素人はそのことを知らない。専門家だけが「このままでは大変なことになるよ」と警告するのだが、「素人」は聞いていない。そして、「大変なこと」は、確実にやってくる。
あの3.11のときみたいに。