「現代」を変えたもの

現代世界を変えたものは、以下である。

1.情報の高速・低コスト化
2.物流の高速・低コスト化
3.人流の高速・低コスト化

「お金」は情報に姿を変えることができるから財貨の流れについては「1」に当てはめることができる。

結果として起きることは、

1.「地域」を隔てるものの消滅

である。であれば、「都会」と「田舎」の区別はなくなり、「国境」もなくなっていく。「地域」というものが、人類の歴史始まっていらい、「弱いもの」になっていくのだ。ぼくらはその時代が始まる入口にいる。

そして、最初に掲げた「3つの高速・低コスト化」という大きな変化を支えたものは、根本において「インターネット」である。

インターネットはそれまであった「電気の技術」が「アナログ技術」になり、その延長の技術の一つとして「デジタル技術」になり、それをベースにした「テクノロジーの組み合わせの哲学」であって、インターネットそのものは「テクノロジー」ではない。単にテクノロジーという側面からだけ見ると、インターネットはそれまでの電気技術の寄せ集めにしか過ぎないように見える。

「電気技術」→「デジタル技術」→「インターネット」→「情報流・物流・人流の高速化・低コスト化」→「地域をベースとしてきた人間の文明の破壊と新たな文明への入り口」。現在は宗教も国家政府権力も「地域」をベースにしたもので、これは数千年の歴史があるから、なかなかそれが消えていく運命になるとは思いにくいだろう。

人間の社会の時代の変化は、訪れるべくして訪れた。シェア・エコノミーも、この変化の中で生まれ、広い範囲で広まり、認知されてきた。

「人間の歴史」をこの壮大な「地域とそれに根ざした文化、その発生と消滅」という観点から振り返ることは、おそらく、人類の未来をうらなう、新しい仕事になるだろう。人類はその歴史ではじめて「地域」という「縛り」から開放されつつある。そういう新たな歴史が始まったのだ。

化学の世界でも「エントロピーの法則」がある。お互いになんらかのやり取りが成立している複数の場所が、時間とともに平均化していく現象だが、人間の社会でも、それが起き始めているのではないか?

さまよえる老年

外に出て、取引先と話をすることが増え、カフェでPCを開けて仕事のメールをすることが多くなった。企画書などを書くことやそのメモや調べ物も増えた。しかし、カフェなどでは落ち着かないだけでなく、集中してそのくらいやれば十分、ということも多いので、長くても2時間くらいしか、ぼくはいることがない。普通は1時間ほど、あるいはそれ以内だ。それでも自分では長いほうだと思うのだが、それ以上の時間いる人もすごく多いのがわかる。ぼくがカフェに入って、出てくるまでのあいだ、その周辺の人たちがほとんど変わらないのだ。

若い人ももちろん多いが、それにもまして、最近はご老人が多い。カフェで朝から晩までなにか本を読んでいたり、タブレットをいじっていたりする(のだろう。ずっといるわけではないのでわからないが)。なにか書く、ということをしている人はほとんどなく、タブレットや本を眺めているだけ、という人も増えた。要するに「時間つぶし」をしているらしいのだ。

日本は1950年の朝鮮特需で高度経済成長が始まり、オイルショックくらいまでは「順調に」経済成長していた。ぼくも、その時代に子供時代を送り、その頃は「今年より来年は絶対に良くなる」と、誰もが信じて疑わなかった。

その時代の都市部は企業などで働くサラリーマンが一般的で、毎年給与は上がるのが当たり前だった。もっとも、毎年、物価も上がった。いま、そういう企業も役所もなくなった。その、企業の黄金時代に企業人として技術者などをしていた人は、退職した今でも「元・XX電気」とか、既に退職した企業の名前を肩書にした名刺を自分で作って持っていたりする。そういう人には「元・XXにいらしたんですね。すごいですね」というと、それだけで満面の笑みが漏れ、話もうまくいくことが多い。しかし、あくまで「元」であって、いまどき、そんな「元」のついた肩書を、そうではない若い人が、本当にありがたがっているわけではない。それが現実というものである。

本心では「バカじゃねぇか?」と思っても、そういう人をノセてお金を引き出すビジネスをしている人は、そのあたりのことをちゃんと心得て、見えないところで舌を出す。

そういう「おじいさん」が、実際の商売の厳しさも知らず、持ち上げられて、アパート経営とかに手を出す。やる前から結果はわかる。「お金さえ出せば、あとはいたれりつくせりで、もっと大きなお金が入るビジネスになるはずです」。はぁ、そうですか。だったら、あなたにお金を貸すから、あんたの名前でやってみてくれませんかね?もっとも、万が一、失敗したときのために、担保もいただきますが、そりゃ、成功間違いないんだから、あなた、絶対に大丈夫ですよね?というのが、正解であるが、そこに話を持っていくわけには行かないのが、「営業マン」という職業である。営業マンはそこまで読まれたら、さっさと引き下がるしかない。

日本のおじいさん元サラリーマンは、そういうノウハウを知らない。世の中の厳しさを知らず、いい時代を過ごしたのだ、という自覚もない。だから、簡単に騙される。シニアの活躍の時代である、というのであれば、まずは世界のどこいらへんに自分はいるのか?ということから、「自覚」を育む必要がある。

あなたがもし、高度経済成長期に、エンジニアとか研究者であったのであれば、まずは自分のいる現在の位置を世界から眺め、自分の持つ「元XX」の肩書を捨てることをおすすめする。そこから、次の時代を切り開くことができるだろう。



あなたの中にいる「鬼」を飼いならせ

虐待をする側はそこまで酷いことをしているとは思っていない。「会話をしない」という「ネグレクト」程度でも、現代においては、それは明らかな犯罪であるにも関わらず。また、虐待の加害者は、自分が自分の運命に対し仕返しをしている、という「言い訳」を自分に対して行うので、もともと虐待を受けていると感じている側でもある。しかしながら、実際の行動によって人は評価され罰せられるということが、加害者の頭からは消えるため、虐待は虐待として世間に認知される。その時に、虐待の加害者が特定され、後戻りできない「加害者」として、世間に登録され、さらなる世間からの虐待にさらされる。

虐待の加害者となりそうな、あるいはなっている自分の行動を自分自身で客観的に眺め、自分の行動を律することがなければ、虐待の加害者は、さらに虐待の深みにはまると同時に、具体的な犯罪者として世間に登録される。その末路は哀れであることは言うまでもない。それがこの人間社会に生きる、と言うことである。それを仏教の用語では無間地獄と言う。

虐待の被害者の悲惨は言うまでもない。一方で虐待の加害者は、本人が望むと望まざるとに関わらず、一生を「虐待の加害者」として生きなければならなくなるという面において、生き地獄をじわじわと経験せざるを得ない。おそらくそれは、はやく加害者より先に天に召され、虐待死した被害者以上のものになる。

自らの中に潜む「鬼」を飼いならす知恵を持ってしか、虐待はなくならない。賢くあれ、冷静であれ、と言うことは、そう言うことである。虐待を受け、それでも優しくあれ、という自制は、虐待された経験ではじめて産まれるのは、そう言うわけだ。虐待を受けた経験者が、誰に対しても愛情深く接することができるのは、自らの中の「鬼」を飼いならす知恵を天から授かり、それを多くの人に知らせる義務を負うからだ。

虐待された経験を持つことで、虐待の加害者の中に潜む鬼が人を食い殺し暴れるのをこの目で見ることは、命に関わる経験であり、ときに命を本当に落とすこともある。しかしそこから生きながらえて、生きるこの場に這い出てきた、鬼の姿を見たあなたは、自分の中に潜む鬼もまた、同じような姿であなたの中に潜んでいるのを見て、戦慄を覚えるはずだ。その鬼は「復讐の炎」の中に住んでいる。

そんなあなたに必要なのは、その微笑みと真心で鬼を飼いならす知恵を、より多くの人に知らせることである。