「すべての人」にプログラミング教育をすべきかどうか、って言うとそうじゃないと思うんだよね。「好き嫌い」もあれば「向き不向き」ってのもあって、要するに人間には「個性」ってものがあるわけだからね。

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最近は、オバマ大統領の「プログラミング教育必須」みたいな発言に、IT教育業界の人が色めき立って、コンピュータプログラムへの公教育への導入の話がどこでもされている。ネット上でも、「コンピュータ」「プログラミング」「教育」というキーワードで引くと、それはもう、たくさんのネット上の記事がヒットする。言い換えれば「盛り上がっている」と言っていいんじゃないかと思う。

ぼくは1980年代の終わりごろから、請われてプログラミングの教育をいっぱいしてきた。おそらく、その当時の他の同業の人の何倍もやったんじゃないかと思う。でも、そこで得た「大事なこと」ってのは、実にシンプルで当たり前のことだった。つまり、プログラミングの教育、といっても、通常の公教育の科目である「算数」とか「社会」「英語」とかにも「向き不向き」があるように、プログラミングにも「向き不向き」があるんだな、だから、不向きな人にいくらプログラミングの教育をしても、全然身につかない、ってこと。当たり前なことなんだが、要するにそういう当たり前のことを目の前にしたんだね。これは、他の教科がそうであるように、まぁ、時代を超えてそういうことってあることなんだな、ということね。

たとえば、ある「生徒」は、自分のプログラムの悪いところを指摘されると、「あ、こりゃいかん」って、全部消して、全く新たにプログラムを作ろうとするのね。いや、あなたのプログラムはここだけ直せばOKだから、って言っても、「いや、最初からやります」って言ってさっさと自分のプログラムを消して、一から書きなおそうとするわけ。これね、その人の「性格」で、「潔癖」なところがどうしても出てる、ってところなんだよ。悪い性格じゃない。他のことでは「良い性格」って言われるところかもしれない。でも仕事で、制約のある時間の中で、なんとかして動くプログラムを書かなきゃいけない、という場面って当然多いわけだが、そんなところで小さなバグ1つのために、いちいち最初から全部のプログラムを書き直す、なんてのは、そりゃ、あなた、永遠に完成なんかしないわけですよ。仕事にならないよ。でも、その人の性格が悪いってわけじゃない。「向いてない」ってことなんだな。これは「個性」だね。その人の「個性」。その個性にはその個性にあった仕事とか生きる道、ってのがあるんだよ。だから、それを否定するんじゃなくて、肯定して「この仕事はあなたには向いていない」ってことを、その人が自覚する必要があって、むしろそういう性格が向いている他のことで生きていく道を探すのがいいと思うのですよ。人間って、それくらい、みんな違うの。これだけじゃないけど、ぼくが教えた大勢の人の中にはそういう人もいて、そういう性格を変えようとしても変えられなくて、そういう性格を変えてプログラミングできるようにしなさい、とも言い難くて、まぁ、しょうがないわな、それは君の性格だからな、だから、あなたの人生の時間を無駄にしないように、違うことをしたほうがいいよ、って言うのが、ぼくができる精一杯のことだった。で、いろいろ教えてきてわかったのは、こういう「個性」もさまざまで、それを一律になんとかしようとしても無理、ってことなんだな。

今の日本の「公教育でプログラミングを教える」に限らないんだけど、人間一人ひとりには、それぞれの個性があって、それぞれに違っていて、だからそれぞれに向き不向きがあるんだよ、そういう一人ひとりがいかに社会を作って、みんなが気持ちよく生きていくか、ということを、やっぱり真剣に考えるべきだし、それをするのが「近代国家の条件」だと思うんだよね。なんのかんの言っても、また、マイナス成長とはいえ、世界の10本の指に入るGDPを持つ「先進国」である日本は、そういう「人の個性」ってのをちゃんとわかったうえで、社会を作ることがいいと思うのね。無理な人に強制するんじゃなく、無理なら無理でその人の個性で生きる他の場所がある、ってのが、本当の「豊かさ」じゃないか、とぼくは思うんだな。

思うに、日本の教育ってのは、ひとり残らず工場の工員を作ろうとしている、って感じがある。いや、私の「感じ」だけですけどね。だから、人間を機械のように個性の無いもの、っていう前提があって、その無個性な機械になにか都合の良い機能をつけていく(=教育していく)という、それが教育だと思ってるところがあるんだろうね。でも、工場の工員は「ロボット」という本物の機械になっちゃうし、事務も経営もコンピュータがやっちゃう、という世の中になるよ、って言われているわけでさ、じゃ、どういう人間を作っていけばいいの?ってところに、戸惑っていて、なにもできてない、ってのが本当のところなんだろうね。「これまでやってきたことと違う。どうしよう?」ってね。

で、プログラミングの教育、というのもあるんだけど、それも向き不向きってあるんだよ。「算数」とか「英語」でもそうだしね。ぼくは中学校では「数学」「国語」「社会」は良かったけど、「英語」はだめだった。高校生のときなんかアマチュア無線に夢中で、英語は赤点とったこともある。いや、さすがにそのときは青くなったけどね。だから英語で人を教える仕事をすることになるなんて(昨年と一昨年、ぼくは韓国の大学でコンピュータ学科の教授をやっていたんだよね)、全くもって自分でも意外だったし、ま、そういうこともあるんだよね。「不向き」でも、なにかのきっかけや必然でやることになっちゃう、ってこともあるわけでさ、人間ってのはわからないもんだなぁ、ってことなんだわ。

今でも「ぼくは学校のときは数学とか算数はまるでダメでして」って言う人、いるよね。普通に何十年も歴史がある公教育でさえそうなんだから、プログラミングの教育なんてのも、そういう個性を考えて、一律にしないで、まずはSPIの簡易版みたいな適正検査からやって、その生徒に「自分は向いているか向いていないか」という自覚をさせるところから、こういう教育は始めるべきだと思うんだな。で、向いていないに人は無理して成績あげよう、なんてしないで、「できない」ことに卑屈にならずに「どういうもんか一度は触ってみてね」で終わってもいいと思うんだよ。

教育は特にそうだけど、教える側は「優等生」のことばかり考えている。でも、本当に大切なのはそこから落ちこぼれる人も絶対にいて、ほとんどの大多数は「教えてもらったからといって身につくわけでもなく、好きになるわけでもない」ってことだね。つまり、落ちこぼれの人のほうが多いわけ。つまり、そういうマイナスの面が出ちゃった人に、卑屈にならずに、そういう個性を自覚しつつ、楽しい人生を送ってもらう、ってことはけっこう重要なことなんじゃないの、ってことね。日本の教育にはそういう「落ちこぼれた人」は「自己責任」とか言っちゃってその人から生きる自信を奪う、ってことをしちゃう、って面があると思うんだよね。でもさ、誰でも「向き不向き」ってあるんだよ。体育をやる、ったって、全員をスポーツ選手にするわけじゃないんだからさ、プログラミングも、まずは「向き不向きの自覚」っていう、そういうところから入っていくと、それが国民の本当の幸せにつながると思うんだよね。ぼくはね。

 


 

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