報道というのは「エンターティンメント」であって「現実を知らせている」とは限らない。

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熊本の地震の報道だが「大変です」という報道は「儲かる報道」だから「これでもか」というくらいされる。しかし、「大丈夫です」という報道はお金にならないからされない。だから報道だけでこの地震を見ている私たちは「熊本全域が大変なことになっている」という理解をすることになる。
実際は、ビデオなどで写される事故現場の周辺では、普通に自動車や人が行き交っているのが見える。つまり、「激甚な現場」そのものは地域的にも数的にも、全体から見るとあまり多いものではない。お金にならない映像は流されないだけだ。
 
もちろん、地震前よりははるかに「行きにくい地域」になったことは確かだが、全域がそうなっているわけではない。
 
同じことは、大地震の数日後に訪れたサンフランシスコで経験した。route 880の高速道路のサンドイッチ事故、落ちたベイブリッジ、なかなか鎮火しないマリーナ地区、などなど激甚な被害があったところはたしかにあったのだが、街のほとんどは問題なかった。マスコミは商売だから、お金になるところだけ映像として流す。だから「大丈夫です」「無事です」という報道はほとんどされない。それはいつもと変わらないことだから、お金にならないからだ。結果として報道を見ているだけの私達は「サンフランシスコ全部がだめになった」という認識をする。しかし、その認識は間違っている。
 
私達が本当に欲しい情報は「現地の親族は無事か?」「現地に行って大丈夫なのか?」「現地全体のどのくらいがだめで、どのくらいが大丈夫なのか?」ということだ。しかし、その「本当に知りたいこと」はマスコミは流さない。お金になる「絵」だけがマスコミの報道することだ。つまり「災害報道」とはそういった「エンターティンメント」である、というだけだ。ぼくらはテレビの中の映像としてまるで映画を見るみたいにその映像を「泣いたり、憤ったりして楽しんでいる」のである。繰り返すと、それは「エンターティンメント」である。
 
エンターティンメントである以上報道とは「報道されている内容が楽しめるものであるかどうか?」が一番の価値になる。「正確に現地の様子を伝えているか?」は二の次である。
 
しょせん、マスコミとは商売でやっているものだから、そういった程度のものである。「報道という名前のエンターティンメント」を僕らは見ているだけだ。
 
報道というものの本質は「正しいことを主張する」ことではない。「遠隔地にある変わったこと」を社会全体に知らせ、社会全体の動きにそれを反映させることだ。そして、その動きのあるところに「お金」すなわち「価値」が生じる。報道とはビジネスであって、ビジネスである以上、そういうものだ。報道というものに「良心」というものがもしあるとすれば、そういう自分たちの姿も一緒に画面に映し出すことによって、「本当の現実」を知らせることが必要になる。その自覚なくして「まともな報道」などできないだろう。