手軽な360度カメラの登場は従来のジャーナリズムの終わりを意味する

とにかく、どこでも360度カメラの映像 – 特に動画 – が見られる世の中になった。問題のアレッポの街を歩く映像などは、まさに自分がそこにいるかのような臨場感だ。遠くに聞こえる爆撃の音。顔を上げれば硝煙で真っ白い空。下に目を向ければ瓦礫となった町並み。左や右に視線を向けるのも自由自在だ。まるで自分がそこにいるかのようだから、「臨場感」はこれに勝るものはない。

映画もニュース報道の映像も、もう信用できない。それは情報の発信者が見せたいものだけが切り取られた映像でしかなくなった。目の前に戦場で泣いている子供がいても、振り返ればそこには映画のセットがあり、笑顔の子役の親とかカメラマンが見えるのであれば、その映像はフェイクであることがすぐにわかる。しかし、360度の映像ではそういうウソはつきようがない。このカメラがあの学生運動の時代のデモの真っ只中で使われたら、ぼくらはどんな映像を見ることになっただろうか?360度カメラはfakeを拒否する。

とは言うものの、360度カメラが普通になれば、360度のフェイク映像を作る「商売」もまた現れるのは、世の常だ。当然のことながら、そういうビジネスへの対価はさらにアップするだろう。

私達は今まで、テレビなどでは「情報発信者の見せたいものだけを見てきた」わけだが、360度の映像はそういう撮影者の意図は完全に無視され、現場のそのままが映る。言葉の世界でもそれは始まっている。DeNAの騒ぎでキュレーションサイトが続々閉鎖しているが、「まとめ」なんてのはある方向を持った意図的なものであって、そのまとめさえ必要ない。

言葉も映像もジャーナリズムはもう必要ないのかもしれない。360度カメラとネットがあれば十分。心地よく響く言葉もいらない。検索エンジンがあれば十分。今はその2つの時代のちょうど間に、ぼくらはいるのかもしれない。

360度カメラとはそういう存在なのだ。

 


 

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