我が師

思い出してみれば、ぼくにはこの人と定めた「師」はいない。いままでに一人もいなかった。「人につく」のじゃなくて、「ファクトにつく」感じだったから、たしかにそのときそのときにいろいろ教えてもらったり、恩を受けた人はいる。「一生の恩」というのは、親に対してはもちろんある。ただ、親以外となると「人に心酔する」ということはなかった。自分も完全な人間ではないし、他人も完全な人間はない。そう思っていたから、古い形での「師」というのはいない、とずっと思っていた。今でもその感じは持っている。

深町純のピアノで「仰げば尊し」をCDで聞いた。

小学校、中学校、高校、大学と進学したが、どこでもその卒業式に歌われていた歌だ。だから、よく覚えている。「仰げば尊し、我が師の恩」というやつである。ピアノ演奏を聞きつつ、つい口に出る。しかし、同時に違和感がある。「自分には心酔するような師」というのはいなかった。だから、違和感があるのだ。そういうことが普通なんだろうか?たとえば、あるひとが「師」だとしよう。しかし、師も人間である以上、周囲の環境によって変わるはずだ。であれば、昨日まで「仰いで、尊かった」師も、今日は「ただの人間のクズ」かもしれない。其の逆だってあるだろう。人間は変わるのだ、と、ぼくは小さい頃からそう思っていた。その変化が当たり前だと思っていた。結果はぼくはこの年齢になるまで「師」を持たなかった、ということになる。

この人間認識は間違っていたのだろうか?と思い出すと、やはり間違っていなかったと思う。「師」はいない。変転し、変わっていく人間がそこにいる。それだけだ。

「仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも はやいくとせ」

よく覚えている歌である。それを歌わされたときの違和感とともに。

 


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