「サイコパス」の研究(1)

このところ、仕事などで当たる人に、「サイコパス」らしい、という人が何人かいた。そういう人の周囲からは、どんどん人がいなくなっていく。

考えてみれば「サイコパス」というのは荒涼とした精神世界しか持てなかった、という意味でやはり「可哀想」なんだな、とぼくは思うよ。自覚が全くされない、精神的な「欠陥」があるんだな。生まれつきの身体的な欠陥とか、そういう障害を持って生まれた人に、サイコパスが多いのは、自分の欠陥によって、精神的に大きなダメージを受けたトラウマがそうさせていることもある。その人が他人の優しさや情に反応して変わることは永久にないのはわかるし、できればつきあわないほうがいい、という判断になるのは、しょうがないところがある。こちらも社会生活を続けて行かなければならないからね。

でも、国とか自治体の行政などの制度で、そういう人を救うことは、それでも必要なんだと思うのね。サイコパスでも泥棒でも、人間は人間だからね。情がこもっていない反応しかなくても、それでいい、ということをしないと、行政そのものが「サイコパス」という「病」に陥ってしまう。それでは、いざというときの行政の役目が果たせないしね。それが国とか行政に必要な「無償の情の表現」でなければならなくて、それがあって行政と言うわけでもあるんだな。

たとえば「欠陥のあるその人」には、母親もいるだろう。親戚もいるだろう。本人には自覚がなくて、死ぬまでその病気の自覚がないから、わからないので、母親も含め、周りはそんなことは本人に一切言わないが、本人は「サイコパス」という精神的な「障害」なんだね。そういう子供を抱えることになった親、という立場になったらどう思うだろう。いや、きっとそういう人は多くいる。母親はそれが自分のことではないけれども、血を分けた我が子である以上、情もわくだろう。しかし、その情は子供に届かないだろう。でも、できればなんとかしたい、と思うだろう。

それでも悲しんではいられない。返ってくることのない情を注ぐのには理由はない。ただ愛おしいからそうするのだ。それが外から見たときに悲劇に見えたとしても、そうするほか、周囲の人間にはできることもないし、することもない。届かない気持ちを持つこともまた、人間として生まれたがゆえの生き様の一部であって、それを恥じることも、いやがることもない。

「精神病質」の1つである「サイコパス」は、なによりも本人の自覚がない、という一点において、いろいろな意味で厄介なことを周囲に生じさせるのだが、一般社会とは違う精神世界に住んでいる、という自覚がない本人は、結果として不自由な社会生活を余儀なくされても、当然、自覚がないのだから、改善ということもできない。

「サイコパス」の問題とは、実は我々が生きる社会全体の問題である、ということは、以上の理由によるんだな。人間という不可解なものが、そのまま目の前に現実としてある。それが「サイコパス」でもあると思うんだね。解決できない問題かもしれないが、納得はしないと先に進めない。

 



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