「知性」「教養」とはなにか

米国はトランプ大統領の登場で「知性と教養ごっこ」が終わった。世界的にそういう時期になったんだろう。

たしか、弥生時代くらい昔に「ゲーム脳」ってのが流行って、そして今はその同じ方が「スマホ脳」て言ってるらしいから笑っちゃうんだけれども、若年層や若者の「コミュニケーション機器依存」というのは、ぼくが若い頃もあって、ぼくはアマチュア無線にハマっていて、そのために高校の英語で赤点取った覚えがある。その後、まさか韓国の大学教授になって、英語でものを教えていたわけだから、学校の英語なんていかにあてにならないかがわかる。

まぁ、それはともかく、2000年を超えると、若者が深夜のコンビニにたむろしている、などというのが話題になったこともあった。芥川龍之介は「なにか面白いことはないか?というのは不吉な言葉だ」と喝破している。若者が群れ集う。それは昔からあることで、その群れ集った若者は、大人の世界を壊していくこともある。

若年層は社会の中での役目がまだ定まっていないため、社会における自分の生きる位置がはっきりしていない。そのため、社会的な弱者というカテゴリーに入る。常に「強くならなければ生きて行けない」という切実な願望も強く、さらに社会参加というものへの渇望もある。未成年者の喫煙や飲酒なども、大人の世界への参加の願望がそうさせる、と言う説も昔からあった。であるから、若者は常に自分たちだけの集団を作って自己防衛をする志向が強い。

若年層にこういったことが昔からあるのは、こういった原理が人間の作る社会に存在しているからだ。その若年層の切実さに身を置ける大人はいない。自分の若い頃を思い出しても、違う経験しかないから、それが理解できないのだ。

最近の若者の無知や無教養を嘆く話は多いが、それは「知性や教養」といったものが、既に社会を構成している要ではなく、「かつて知性や教養を標榜していた人」がいても、実は大人の社会が「人のつながり」という目に見えないものでつながっていることを、若者が見抜いているからに過ぎない。「知性や教養」でかつて使われていた用語を隠語として、社会の中での自分の属している集団内のつながりを確認する作業に大人は忙しい。その大人を見て若い人間は無意識に思っている:「なんだ、知性や教養なんて、所詮は仲間を確認するだけのためのものだったのか」と。そして続ける。「おれたちはどうしてくれるんだ」と。

 


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください