東京哀歌

毎年、正月休みとか夏休みの時期になると、東京で生まれ育ったぼくは、がらんとした東京の姿を数日にわたって見ることになる。「もうこのまま、東京には誰も帰って来ないのじゃないか?」「そのまま、東京は廃墟になるのじゃないか?」という思いが湧き上がる。それは子供の時から正月と夏休みの毎年二回感じていた恐怖感だが、今でもその恐怖感は消えない。いや、今その思いを強く思い出す。

思えば、東京という街は、田舎者が集まって賑わっているところだ。仕事で稼ぐためにやってくることが多い街だろう。田舎にいるよりは東京のほうがチャンスがあるからくるのだ。結婚のチャンス、起業のチャンス、より良い生活をするチャンス、より高い収入を得るチャンス、集まった人に自分を知ってもらい、有名になるチャンス、世界から集まった美味しいものを食べられるチャンス。etc,etc…

であれば、この先、リモートオフィスが当たり前になり、ホワイトカラーの仕事が地球のどこででもできる時代になれば、当然、東京へ来る理由が減る。さらに原発事故やパンデミックなどのクライシスが襲えば、東京にいる理由は全くなくなることだろう。東京とは、気がつけばそんな弱くゆるゆるな基礎の上に成り立っている、まぼろしの都なのかもしれない。今となっては、だが。

近年になって、子供の頃のそんな思いを強く思い出すのは、既に東京というところが、そこにいる理由を半ば失ってきている、という事実によるのじゃないかと、最近は思っている。

高度経済成長の時には、東京を目指して人が集まり、都会ができた。集団就職。上京。里帰り。このキーワードのどれもこれも、東京という場所が、人が生きるためのあらゆるものが比較的容易に手に入ったことを示しているだろう。出会い、仕事、人が生きるためのハブ。それが東京。

最近は正月明けとか夏休み明けに思うのだ。「あぁ、今年もみんな帰って来てくれた。明日からまた、前の日常に戻る」と。そして思い直すのだ。「次の休みが始まり、明けた時には、みんな東京には戻って来ないのじゃないか?」と。そうなったときの、廃墟・東京の姿を、寂しく頭の中に思い描くことがある。そしてそうなったときの様子は、きっと正月休みの東京になるんじゃないか、と思う。ぼくはその時に覚えるであろう戦慄の気持ちとともに、年末年始のガラガラになった廃墟のような東京の街を、歩いて写真を撮っている。

まるで異国の都市に迷い込んだ写真家みたいに。

 


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