「モノ作り」社会の終焉?

このところ、ある機器を開発しているのだが、驚いたのは、その製品を作るための部分を構成する様々なパーツの「品質の悪さ」だ。

Webカメラ程度のものも本格的に長期で使い始めると、思い通りに動いてくれないだけではなく、Webカメラのための画像撮影のユーティリティも長く使っていると落ちる。それの土台となっているOSもライブラリも、あちこちに問題を抱えている。どれもこれも、安定して動くものがほとんどないのに愕然とした。

さらに、その画像を閲覧するブラウザも、長期で同じ動作をさせていると、動いたり止まったりする。つまり、一見動いているように見えるのだが、長期で同じ動作をさせると止まる、などの耐久テスト的なことはされていないのだ。

現在のIT社会がこういうものに支えられているのだとすると、その先行きがとても心配だ。

もっと、当たり前のものを、当たり前に作って欲しい、と思うのだが、現場の様子もわかる。納期に追われ、テストする時間を削られ、なんとか動かしても、長期のランニングテストなどできるはずもなく、それでも「まぁいいや。動いてるし」なんて言いながら納品して、客先のさらに先あたりでトラブルが発覚。調べると、自分が作ったところではないライブラリがおかしいとか、お手上げ。仕方がないから、そのトラブルのある部分を回避して作り直して、また納品。気がつけば採算割れ。これが現代のITの現場なのだ。

「当たり前のことを当たり前にやろうとしてもできない社会」がやってきたらしい。

おそらく、それが今という時代なのだ。

「モノ作り」というが、そのモノそのものが、多くの他の「モノ」で作られている、なんてのは当たり前にあることだ。自動車なんかを見てみれば、何万という部品でそれができている。ソフトウエアもそうで、現在はOSだけで数百万行なんてのはザラだ。数千円の小さく安価なコンピュータの中にそれだけの「モノ」が入っている。外見からは想像もつかないけれどね。そして、その中の1つに欠陥があれば、全部が動かなくなったりする。

つまり、製品としての「モノ」の品質は、それを構成している部品の「モノ」の品質に依存しているのだが、その元の「モノ」の品質がどんどん低下しているのだ。

特に、ソフトウエアは見えないから厄介だ。これは専門家が中を見ないとその実像は見えない。

やがて、「モノ作り」そのものが崩壊する、そんな予感がないではない。

 


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