マーシャル・マクルーハンについて

ぼくがマーシャル・マクルーハンのことを知って興味を持ったのは、高校生のとき、図書室にあった竹村健一氏の本でだった。読めば「内容がメディアを規定するのではなく「メディアが内容を規定する」という、面白いことが書いてあった。今となっては当たり前のことだが、今の言葉で言うと「コンテンツがメディアを選ぶのではなく、メディアがコンテンツを選ぶ」ということだ。内容が外形を規定する、という従来の考え方ではなく「外形が内容を規定する」という考え方は当時は新鮮だった。しかし、あっという間にインターネットの時代になると、「メディア」は「インターネット」というインフラの上で多様化して現れてきており、テクノロジーの様相が随分変わった。

デジタル通信テクノロジーは、そのネットワーク・トポロジーを規定するだけで、その中を通るデータは気にしてない。そのデータが音声であろうが動画であろうが静止画であろうが文章であろうが何でも良いのだ。つまり、マクルーハン流に言えば「メディアがインターネットを選ぶのではなく、インターネットの上では何でも選べる」のだ。そうなると、マクルーハンの時代には「テレビ」というメディアが新しく、それがどう世の中を変えていくか、という議論だったが、今はインターネットがどう世の中を作っていくか、という議論になる。つまり、「時代の流れ、社会の変化」が、かつては(マクルーハンの時代には)「テレビ」というメディアに規定されていたのだが、今は時代とインターネットが渾然一体となって、新しい世の中を作っていく、というモデルに変わりつつある、ということだ。

つまり、インターネットは社会インフラとなり、「人間社会とはインターネットのあるところだ」ということになったのだ。

インターネットの出始めのときに「これは面白い!」と飛びついたのだが、それはテクノロジーではあるのだが、実はテクノロジーと言ってしまうと大きく間違えるところもある。それは「テクノロジーを支える思想」がまさに地上の人間社会に具体的に降臨したものなのだ。ぼくらはその最先端でインターネットそのものを作ってきた。やがてぼくらが作ったものの上に、みんなが社会生活を営みはじめた。ぼくの目から見ると、そんな感じだった。

そのとき、ぼくらは思ったものだ。「ぼくらはマクルーハンを超えた」と。

そして気がついたのは、実はインターネットは「テクノロジー」ではなく、思想であり哲学なんだな、ということ。だから、インフラ足り得たんだが、これを「テクノロジー」という言葉でくくると、大きな間違いを犯すことになる。でも、それはわからない人には永久にわからない。テクノロジーはそれを実現した手段にしか過ぎない。

それが「テレビの時代=アナログ技術の時代」と「インターネットの時代」の大きな違いなんだね。そもそも、なぜアナログではなく、デジタルなのか?この変化は必然的に起きたものだが、なぜそれが必然なのか?そのことを答えられないと、実はマクルーハンとそれより後の世代がどのように変わっているのかが見えない。そもそも、デジタル技術はなぜ生まれ、なぜ普及したのか?それを説明できないうちは、インターネットの本当の意味さえ咀嚼できないだろう。そういう人は時代の変化の表面だけを見ているから「テクノロジー」という言葉しか思い浮かばないし、まぁ、そういう人はそういう人で構わないとは思うんだが。

結論としては、いまどきのメディアは「Broadcast」のみ、ということはなく、インターネットがあることによって、「Broadcast」も「双方向」も「個別同士の通信」もみんなできる。しかも、文字テキスト、音声、静止画、動画、なんでも使える。それは従来からの概念の「メディア」ではない。インターネットはインターネットなのであり、それ以外ではない、という存在となったのだ。このことの理解に「テクノロジー」という言葉は似合わない。むしろ「Revolution」のほうが似合うだろう。

マクルーハンの「古き良きテクノロジーの時代」は終わった、とぼくは思う。

 


 

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