「本を読む」が「知的」である、という感違い

最近良く言われることに「子供に本の読み聞かせが知育に良い」とか「ビジネスマンは本を読むと知的になって成果があがる」などの話がある。とは言うものの、最近書店に行ってみても「XXの営業のノウハウ」とか「XXマーケティングとは」みたいなビジネス書ばかりである(でなければ「一帯一路の罠」とか「韓国経済崩壊」みたいな本ばかりだ)。現代の出版にちっとも「知的」は雰囲気はない。直接お金につながらないことなどは、ほとんど「紙の本」として売れないので、お金にならず、出版社も「出版大不況」で食えないところがほとんどだから「売れる本」ばかりが書店に並び「紙の本ビジネス」の断末魔の叫びをそこここに見る、という、悲惨な状況だ。紙の本は売れていない。出版社も潰れたところや事業縮小したところも多い。

一方、通勤電車の中でも、お昼休みのレストランでも、スマホをやっていない人を見ることは稀になった。かつては新聞を広げて通勤するビジネスマンも多かったが、今はスマホである。間違いなく、時代が変わってきた。某有名な作家は「これから紙の本は出さない。電子出版だけにする」と宣言した。世の中が変わりつつあるのを感じる。

そこで「紙の本」で育った編集者などがネットメディアに移ることも多くなり、そこから紙メディアに援護射撃のつもりかもしれないが、書店に並んでいる本のランキングなどを出して、しぼみつつある「市場」になんとか活を入れようと必死だ。正直なところ、私もごく小さな鼻垂れ小僧の時代(そういや、最近はみそっぱ、とか鼻垂れ小僧、っていないんですけどね)から、紙のメディアに育てられた身であって、長じては自分の本を出すことができて、それが売れたから、それなりに祝杯を上げたこともあった。しかし、今はそういう時代ではなくなってきている。

「本を読む」ことだけが「知的」でもなくなった。活字に親しむことが「知的」でもない。私の子供の頃は日本も高度経済成長期で、各家庭には必ず「百科事典」がズラッと並んでいて「うちの子は勉強好きで。。。」などと専業主婦が我が子自慢の火花を銀座の風月堂の喫茶店あたりの井戸端会議で散らしていて、その火花のとばっちりで、出てきたコーヒーは冷めることはまずなかったわけだが(←少しおおげさ)、今や「本」を知的だと思っているのは、その時代に子供時代を過ごしたご老人だけになってしまった。

朝の通勤電車でスマホを開けば、新聞各紙のサイトまで行くこともなく、ネットニュースが溢れており、テレビも見る必要がない。ゲームをしたければゲームをすれば良いし、自分のしごと関係のニュースを知りたければ専門誌のWebを見れば十分事足りる。文学作品も「青空文庫」で、紙の出版に適さないようなマイナーな作家のものも読めるようになったし、出版事情は大きく変わった。音楽もアナログのレコードからCDに、CDからダウンロードに、ダウンロードからストリーミングに変わった。音楽はおそらくライブのみが価値のあるものとして残るんじゃないか、と私は思うのだが。

この大きな時代の変化で「本」も「電子書籍」が当たり前の世の中になりつつある。朝9時にWordのファイルで入稿した「本」は、その日の夕方には電子書店に並び、欠品や取り寄せもなく、その場でダウンロードして読めば良い。音楽と行く道が同じなのであれば、書籍もダウンロードから常時接続による「ストリーミング本」だって、一部で出てきているから、これが主流になる可能性もあるだろう。電子書籍では文字の大きさを自由にできるので、目が悪くなっても文字を大きくでき、レイアウトも変わるから、厳密なタイプセッテイングそのものが無意味になる。

時代は変わっている。変わる時代に抗するのはおそらく無駄である。なぜならば、新しいもののほうが速く、劇的にコストが安く、同じ効果が得られるからだ。かつてのアナログレコードが「特異な趣味」として生き残るのと同じように、紙の本も生き残るだろう。しかし、生き残るだけで、過去と同じようには戻らない。時計は動いていて、人間のちからではそれを止めることはできないからだ。

 


 

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