あなたの中にいる「鬼」を飼いならせ

虐待をする側はそこまで酷いことをしているとは思っていない。「会話をしない」という「ネグレクト」程度でも、現代においては、それは明らかな犯罪であるにも関わらず。また、虐待の加害者は、自分が自分の運命に対し仕返しをしている、という「言い訳」を自分に対して行うので、もともと虐待を受けていると感じている側でもある。しかしながら、実際の行動によって人は評価され罰せられるということが、加害者の頭からは消えるため、虐待は虐待として世間に認知される。その時に、虐待の加害者が特定され、後戻りできない「加害者」として、世間に登録され、さらなる世間からの虐待にさらされる。

虐待の加害者となりそうな、あるいはなっている自分の行動を自分自身で客観的に眺め、自分の行動を律することがなければ、虐待の加害者は、さらに虐待の深みにはまると同時に、具体的な犯罪者として世間に登録される。その末路は哀れであることは言うまでもない。それがこの人間社会に生きる、と言うことである。それを仏教の用語では無間地獄と言う。

虐待の被害者の悲惨は言うまでもない。一方で虐待の加害者は、本人が望むと望まざるとに関わらず、一生を「虐待の加害者」として生きなければならなくなるという面において、生き地獄をじわじわと経験せざるを得ない。おそらくそれは、はやく加害者より先に天に召され、虐待死した被害者以上のものになる。

自らの中に潜む「鬼」を飼いならす知恵を持ってしか、虐待はなくならない。賢くあれ、冷静であれ、と言うことは、そう言うことである。虐待を受け、それでも優しくあれ、という自制は、虐待された経験ではじめて産まれるのは、そう言うわけだ。虐待を受けた経験者が、誰に対しても愛情深く接することができるのは、自らの中の「鬼」を飼いならす知恵を天から授かり、それを多くの人に知らせる義務を負うからだ。

虐待された経験を持つことで、虐待の加害者の中に潜む鬼が人を食い殺し暴れるのをこの目で見ることは、命に関わる経験であり、ときに命を本当に落とすこともある。しかしそこから生きながらえて、生きるこの場に這い出てきた、鬼の姿を見たあなたは、自分の中に潜む鬼もまた、同じような姿であなたの中に潜んでいるのを見て、戦慄を覚えるはずだ。その鬼は「復讐の炎」の中に住んでいる。

そんなあなたに必要なのは、その微笑みと真心で鬼を飼いならす知恵を、より多くの人に知らせることである。

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