「翔んで埼玉」という「バブルの残り火」

この「翔んで埼玉」という映画の「差別」の相手が「岩手県」であったら、それはおそらく、「田舎者」と言えば東北弁で喋る、というテレビなどで使われるリアルすぎる差別表現となってしまうので、コメディが成立しなくなってしまう。日本における「差別」とは、山本七平がかつて喝破したような「空気」「当たり前にそこにある、崩されざる前提」のことである。「埼玉」のような「コメディとして笑って見ていられる」ものは、「自嘲」で許される程度のものでしかない。

この映画はあくまで商売としてのコメディの成立を前提とした「埼玉ネタ」の扱い以上のものではなく「差別の告発映画」ではないのだから、その程度のものだ。興収10億を短期間に稼いだという意味では、個々のビジネスとして成功と言って良い。昨年の「カメ止め」も、ビジネスとして成功したが、こちらも映像製作者自身の「自嘲」がベースになっている。

いま日本という地域の経済は、下降の真っ最中であり、ごく近くの過去にあった、繁栄の時代の残渣を貪り、その最後の残り滓のサーベイに忙しい。「日本すごい・日本万歳」「バブル時代の懐かしさ礼賛」は下り坂の日本という地域に住む日本人の悲鳴にも聞こえる。

バブル時代に「埼玉」への差別のようなものを戯画化した魔夜峰央という作家の目の付けどころは、バブル時代に都心だけでは都市の住宅需要が追いつかなかった東京という地域において「都市郊外」としてのホワイトカラーの供給基地として発展をはじめた「埼玉」という地域の振興と大きな関係がある。

彼の寄って立つところは、パタリロから始まる一貫したギャグの道具としての、小リッチ層(昔の言葉で言えばプチブル)の成立そのものの振興住民に対する「小差別」の利用だが、この「ギャグの道具」としての「小差別」と「自嘲」は、「ブスは通りを歩くな」というたけしのギャグの成立ににも底通しているものがあると思うのは、私の考えすぎだろうか?。

「成金」を嗤い蔑むことによって、たいして歴史もなかった「日本の明治エスタブリッシュメント」を相対的に永久なものとして「空気」の一部とすることに成功した、戦前の歴史の、それは繰り返しである。

明治から昭和にかけての「発展」が終わりかけているこの時期において、これらはみな、崩れゆく日本という地域の経済の中にある庶民の「ええじゃないか」と同じ現象の現代的表現であるようにも、私には見える。

日本社会の経済的成功からの転落の時代の一コマに「埼玉」は相応しい題材に見える。笑って見ているその観客の笑いのツボがどこから来ているのか?という「内省」などというものは、いつの時代の庶民にも、所詮は無かったものではあるのだが。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください