戸塚ヨットスクール事件とはなんだったのか?

ネットのニュースに「戸塚ヨットスクール事件」の戸塚氏インタビューがあった。

戸塚ヨットスクール事件で問題になったのは、体罰そのものではなく、体罰によって、子供の死亡事故などが多く起きたからだ。体罰の否定はその延長上にある議論である。

我が子が社会に出る前に、戸塚ヨットスクールで命を落とした我が子の変わり果てた姿を見る親の心は、察するに余りある。しかもその子を「子供がこの世でより良く生きていくため」と称して、自らそこに送り込んだのは、他ならぬ親の自分自身である。後悔してもしきれることはなかろう。その親のそれからの一生を思うとき、胸ふたがれる思いがするのは、私だけではないだろう。

子供と言っても人間なので、生まれつきや、生活環境などで必ず耐性の強弱などの個性が出る。その個性によって、本来は教育の方法論なども個々に変えるべきであって、子供全員に一律の教育でなんとかなる、という「十把ひとからげ」の「無個性」を、一律に強制するから、死亡事故などが多発したと見ることができる。これは、「スパルタ教育の是非」とはまた、別のことである。

「教育とはこうあるべき」という戸塚氏の話は、私とは理念が違うけれども、日本という、いち地域のある時代における教育の方法論として、現実に多くあったこと、かなり多くの人たちに支持されたことがあったことは、認めざるを得ない。

当時の日本という地域では「高度経済成長」を支える「ロボットのような一律の心理的・身体的個性を持つ数多くの人間」を必要としていた。それ故「スパルタ教育」による「人間の教化・一律化」は「教育」という名前のもとに推進されており、その時代の空気をしっかり読んだ非公式教育ビジネスとして成立した。

これは、義務教育課程を行う学校教育などの公式教育も、当時同じ方向を目指していた。しかし当時は高度経済成長期そのものが終わりかけており、それと同時に「一律の人間を作る」という教育のあり方を批判する動きも大きくなって来ていた。このような時代背景の中で、それまでの高度経済成長期に必要であった人間のメンタリティや身体的機能そのものが、変わりつつあった。

現在はIT技術の発達により、それまでの工場労働の多くは、リアルなロボットのほうがコストが安くなることがわかってきた。現在必要とされる労働者像は「ロボットを制御する」側のものとなってきており、戸塚ヨットスクール事件が話題になった当時とは、明らかに周辺の時代状況が違う。

当時は戸塚ヨットスクールの教育メソッドによって、子供の死亡事故があっても、それは全体から見れば、大したことではない、という世間の空気もないではなかった。社会的に弱い立場にいる「子供」の死亡事故は「大したことではない」と切り捨てる人がそれなりに多くいた。「日本の政府(国体)を守るためには、少数の若者の命はなくなってもやむを得ない」とする「特攻隊」のそれと、メンタリティ的に似ている、と言って言い過ぎではないだろう。

私はその時代に若いときを過ごし、教育にも興味を持った。やがて訪れるであろうAIとロボットによる工場労働の時代の基礎を作る仕事を、私は選んだ。いま、それは実を結びつつある。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください