オールデジタル時代に「死ぬ」人

「これからいなくなる人」について書こう。

人間とその社会というのは常に「変化」の中で生きている。であれば「変化の中にいる」ということは、まさにそれが「生きている」ということだ。「変化には対応しなくてよい」と決めたときが、「死出の旅路の始まり」である。それは組織も人も同じだ。この世に生きていたいのであれば、常に自分自身が変化していることが必要だ。

ところで、今という時代は「紙と固定電話の時代」から「インターネットのインフラを使ったコミュニケーションの時代」への変化のときだ。だから、両方が混在している。「震災のときは固定電話がつながりやすい」という話(都市伝説)があったが、そのNTTでさえ、電話交換機はインターネットの技術を使ったものに置き換わり、交換器はコンピュータであり、デジタルである。表向き「アナログ」に見せているだけだ。アナログを好ましいと思う、旧世代の人たちに配慮しただけだ。

それは「見せかけのアナログ」であり、「キッチュ」である。サイバー戦争が主流になりそうなこの時代に、鎧兜での戦闘というファンタジーを見ているのと同じだ。

壁掛けの時計だって、時計の中身はデジタルであって、表向きアナログに見せているだけだ。「アナログが好き」という人のために、であって、その世代の人々が消えれば、より効率の良いデジタルオンリーに変わっていく。アナログの機械式腕時計が人気だが、その設計段階ではCADを使っているはずであるし、量産時の工場では、部品やアセンブリには、手作業は入るものの、当然ITの恩恵に預かっているはずだ。加えて、その職人さんは、自分の生活を成り立たせるために、スマホで家族と連絡を取っているはずだし、一世代前の携帯電話もデジタルであることに変わりはない。その職人さんが乗っているクルマは、走っている道路は、と考えれば、今や全人類でデジタルから逃れられるのは、未開の地で一般人間社会から隔絶された生活を送る少人数の人たちだけ、ということになる。

自分を置き去りにして、先に先に進んでいくように見える「現代の人間の文明」は、自分が世の中から置いて行かれるような恐怖のようで、それはそのまま自分の納得のいかない死に直結するような、そういう気分がするはずだ。

思えば、ぼくがやってきた仕事は、「古いもの」を「新しいもの」にどんどん置き換えていく仕事だったような気がする。そのために、自分が最先端を走り続けていたのだが、半ばそういう意識があり、半ばそういう意識はなかった。折しも、資本主義の終焉の時期、世界は貧しくなり、効率化は避けられない。無駄はなくならざるを得ず、気がつけば人間という一番非効率なものの終焉で、それはあるのかもしれない、という恐怖さえ芽生えてきた。

かつて、インターネットができ、その上でSkypeのような「IP電話」ができたとき、米国の巨大電話会社「AT&T」の幹部は「それはビジネスチャンスだ」と言った。一方で、日本の巨大電話会社の幹部は「それは法律で規制しないといけない」と言った。いまやIP電話全盛であり、国際間の電話などは、日常的に無料か、ほとんど無料に近いIP電話が使われている。

常に前を向くことで、人は明るくなれるし、過去に残る悲しみも喜びも新しいものに変えていける。常に前を向いている人にとって、過去の悔いは未来への糧に変わり、人生の苦しみは未来の自分や次世代の人たちの喜びへの道だ。

 

 

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