「国」単位で考えることの愚かさ

「従属と謝罪について」という、コラムがあって、じっくり読ませてもらって、正直なところぶっ飛んだ。

「戦後」を生きてきた日本人の一人として、こういう「屁理屈のこねまわし」が実態と合っているかと言われれば、ちっともあってない、という感じが、少なくとも私は、する。

「二つのうちせめて一つに絞って欲しいと(口には出さなかったが)願ってきた。」って、それ、妄想だよね。実態と違うよね。その証拠はどこにもないよ。勝手に書いてる人が「そう思ってるんですが」というだけの話。だいたい、日本という国は多数の「日本国民」」から成り立っているのであって、一人の人がその主張の両方を持っているわけでもない。人格と国の考えが1つだ、ということ自身が「妄想」ではないか、と、私は思う。

実際、この文章の中には「そういう二分法はあまり一般化していないが、私はそうだと思う。」というくだりがすぐその後にあるから、これは「私はそう思っている」というだけのことで、私はその「思う」が要するにあったはずのない「妄想」である、と断じる。だから「その結果、戦後の日本外交は「対米従属」に針が振れるとアジア諸国との関係が悪化し、アジア隣国と接近すると「対米自立」機運が高まるという「ゼロサムゲーム」の様相を呈してきた」。という、その言い方が現実とあまりに乖離している、と私は断ぜざるを得ない。

この文章では「アジア」とひとくくりにしているが、台湾を忘れているし、その台湾にも、この人はあまり造詣は深くないだろう、ということがよくわかる。しかし、台湾を考えずに、日本をとりまく戦後のアジアは語ることができない。そこを見ていないのは、アジアの様相が実態としてちゃんとつかめていない証拠だ、とわたしは思う。

ついでに言うなら「村山談話」の時代と「鳩山首相」の時代をいっしょくたにしている、とか、時代的にこりゃ違うだろう、というものがごっちゃになっている。まるで「白人と黒人を足したら黄色人種になった」みたいな言い方である。時代の状況をこの人も見てきただろうに、あまりに乱暴な接着をしてしまう。アロンアルファでも、こういった全く違う時代状況の事象の接着は不可能ではないか。セメダインとかに聞くと「いや、できますよ」とか、あっけらかんと言うかもしれないが。さすが日本の技術である。

「アメリカ」とか「日本」とか「韓国」とか「中国」なんて「国」単位の話ばかりしているから、頭がおかしくなる、というのの典型だと思うのですね。頭の中でそれぞれの「国」がゲームのようにくるくる回ってるんじゃないでしょうか?でも、国とか地域とかって、そんなに単純なものじゃない。「信長の野望」みたいな古いゲームなんかを長くしてると、こういう頭になりがちだ。歴史的にも、また地理的にも、社会的にも。簡単に言えば、国の政府・官僚と国民は一体じゃない。そして国民も一体じゃない。そこのところが、現実のこととしてわかっていない。この人は「観念」で考えていて、現実のその場にいないで、実態を目の前に見ていないからすごく変なあたまでっかちの妄想だけが独り歩きする。「日本は」というとき、この人の頭の中には、みな同じ考え方をしている「国民」がいて、それが政府で総意としてまとめられているはず、とか、政府の考えていることがすべて国民に支持されている、とか、そういう前提しか、考えられていない。

ぼくはもちろん日本人だけど、しばらく台湾を実体験して、仕事にして、勉強してきたから、そういう「実態」「現場」を無視してきた人たちがいかに変な妄想に陥るか、ということがすごくよくわかる。歴史を勉強し、その歴史に立ち会った人たちと話をし、その歴史の表と裏の両方で、いかに多くの人が苦労し、いかに多くの人が命を落とし、いかに多くの人が喜怒哀楽を紡いできたか。その現場を知らずして、こういうことを語ると、こういう変な妄想になる。

今の日本でこういう「妄想ブロガー」が支持されているとしたら、それこそ大変な話だ、と思わざるを得ない。混沌の歴史を肌で感じたことのない人たちの「妄想」が、いかに危険で意味の無いものであるか。それがこの文章によく表れている、と言える。国も国民も一つではなく、そのばらばらになる傾向はもっと進んでいる。それが今のアジアであり、日本だ。

自分の妄想によるロジックを正当化するためには、実態など目の中にない。そういう人は、ひょっとしたら増えているのかもしれないが。

 



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