「そんなのは現場の責任だ」という経営者はこうなるのか?

JR西日本で「天皇」とさえ呼ばれた井出氏が、東洋経済でこのように書かれている

ところで、ぼくはあのJR西日本の福知山線の事故のとき、その乗客の一人として命を落としていたかも知れなかった。偶然の居眠りがぼくを救った。

飛行機事故の事例を集め、事故の事後解析の様子も含めて映像化して放送しているナショナルジオグラフィックの「メーデー」という番組をときどき見る。飛行機は非常に巨大で複雑なもので、そのごく一部にちょっとした破綻が生じると、飛行機という、多くの人を載せて空を飛ぶ巨大システム全体が墜落などの巨大事故に見舞われる。管制塔のシステムなどや滑走路の整備など、飛行機を動かす外部のシステムも重要なシステムの一部だ。当然、ソフトウエアもそれに含まれる。

わたしたちの現代社会は、ある物事一つが周辺のものと密接かつ多岐に渡ってつながり、なんとか成り立っている。だから単純に物事を分かったつもりになるのは、危険極まりない。明晰な頭脳と複雑なものに対する挑戦こそが、現代社会における「技術」の真髄である。複雑さを軽視するのはそれが見える頭脳が無いからである。その頭脳のない人間はリーダーとして失格なのだ。それが現代という時代である。

 


AIもオープンソースだしね

いま、ソフトウエアの開発のほとんどは「オープソースソフトウエア(OSS)」を組み合わせて作る。そして、そのOSS自身がまた、他のOSSの組み合わせでできていたりする。ソフトウエアは巨大になり、複雑になっている。この流れは止めることができない。

そして、OSSだって人間の作るものだから、バグがあったりするが、そのバグを直すなんてのも、あまりに膨大であるためにできなくなっていたりする。つまり、プログラマがソフトウエアの1行1行を知っている、という時代ではない。そのため、OSSの実行中に停止するなどのトラブルがあれば、そういうシチュエーションを回避する方法を探る。ソフトウエアそのものを書き換える、なんてのは全体のバランスを崩すので、できなかったりするのだ。

先日も、あるOSSを使うことがあって、それがちゃんと動いていれば便利なのだが、そのソフトを呼んだきり返ってこない、なんてトラブルがあった。しょうがないので、使い方を変更し、だましだまし使う。中身を見るなんてのは、コスト(人件費)が高くなるから、まずやらない。

おそらく、某巨大OS会社のアップデートなどでOSそのものが起動しなくなる、なんてトラブルは、そういうことにも起因しているのかもしれない。であればそれを直すのは多大なコストがかかりすぎ、誰もやらない。

ソフトウエア開発の時代は変わった。しかし、それにちゃんとついていける日本のソフトウエア開発会社も、人もいない。

ソフトウエア開発崩壊の日が近いのかもしれない。そして、今やデータベースもOSもAIも、オープソースであることが当たり前になっている。


 

サイバーセキュリティが盛り上がってきてはいるが

最近はテレビのニュースなどでも、サイバーセキュリティの話題を取り上げるように、やっとなってきた。先日、米国アトランタが大規模なハッキングに会い、行政を電話と紙でおこなわなければならなくなった、など、まるで悪夢のような状況が展開されている。しかもなかなか収束はしない、という。当然、ある時点でのバックアップは取られているだろうから、過去のどこかの時点のデータに戻って再開はできるとは思うのだが、規模が規模だけに、時間がかかっているようだ。

それだけではなく、一昨年あたりから各国の政府や大企のWebサイトなどが軒並みハッキングの被害に遭っており、この傾向はさらに拡大していきそうだ。

現状、サイバー攻撃をうける側で言うと、日本は世界4位に入っており、まさにハッキングされる大国、と言ってよい。それなのに、企業や役所でのサイバーセキュリティ対策はほとんどされていないといってよい。ハッキング対策や、もしも侵入されたときの対処などを迅速にできる技術者もかなり不足しており、問題は大きくなるばかりだ。

日本はハッキングされ放題の「サイバー犯罪者の天国」になりつつあるのかもしれない。

私もこの状況に鑑み、サイバーセキュリティを怠ることこんなことになる、という本を電子書籍で出している。しかし、その売れ方などを見ると、こういったネガティブな話題への意識は今ひとつのようだ。ネガティブであっても、やらなければならないことはやらなければならない。いま、日本はそういうときを迎えているのではないか?であれば、勇気を持って立ち向かう、そういうときが来たのかも知れない。


 

IoTをやるなら「インターネット」とか「センサーとかを知らないと

IoTのプログラムを組むとき、Raspberry-Piがあればいい、C言語でプログラムが組めればいい、ということだけではない。IoTというのは「Internet of Things」の略だ。ということは、インターネットで通信ができるプログラムを組める必要がある。また、センサーのことについての知識も必要だ。その入口はこの本でわかる。ということで、4冊めのKindle-KDPでの出版です。日本の技術者をIoTで賢くしたい。

 


 

「孤独死」はなぜ増えたか

日本はなぜ「孤独死大国」になったのか?日本の社会は「会社単位」で、戦後に作られた終身雇用の制度が広まり、法律の前提も同じ前提で作られている。一律に個性を考慮に入れず「人はせいぜい60代で死ぬ」と言うことを前提に制度などが作られた。

なにせ、「サザエさん」の「年長者」である「波平」は50歳という設定である。今は50歳代といえば、まだ十分に若い。

その上で、定年などの制度も定着した。しかし日本の社会は戦後の高度経済成長で急激に豊かになり、平均寿命が劇的に伸びた。

制度はそれに追いついて変化していくべきだが、それができず、会社の実務を制度的に退く、定年後の日本人は、ほとんどの社会との縁が切れる中で生きていかなければならなくなる。会社以外の縁を持たない日本人のほとんどは、その時期から「孤独」を味わう。長生きをすればするほど、孤独は深まる。

加えて、日本社会では、資本の要請として「物事をよくわかっていないが体力的なパワーを持つ」、「若者」を持ち上げ、稼がせて搾取する、という労働の構造を持っている。これは、高度経済成長期の製造業などで求められ、作られた人間像の名残りである。

時代による社会の急激な変化に、法律などの社会制度や人々の意識が変えられないうちに、人の身体が変化しているのだ。日本人の高齢化と孤独死はこうやって作られている。人間には、上り坂の時代の後には下り坂の時代もあるが、健康寿命が伸び、高齢化が進むと、それまで上り坂の時代が終わると、どんどん死んでいた人たちは、下り坂の時代にも多く生きながらえる。このことが考慮されていない社会制度下の日本という地域においては「孤独死」が増えるのは当然のことだ。

「どのように人は死を迎えるべきか」という問題のありどころが、20年ほどの時間で急激に変わったのが、日本という地域の社会だ。

一方「孤独死のほうがいい」と言い始めた人たちもいる。誰にも迷惑をかけない、という意味での「孤独死」は、死後にかける迷惑の大きさが大きい人も、そうでない人もいるだろうが、要するに「縁を切る」ということは、貧しさなどの原因によって、意識的に行なわれている、ということもあるのだろう。「孤独死」は選択の問題であると同時に「選択させられる状況の問題」であり、それはやむを得ず行なわれている、ということかも知れないし、あるいは「意識的に選ばれてそうしている」のかも知れない。そういうことをかんがえなければならないほど、日本の社会も価値観などは多様化している。

 


 

「Amazonいじめ」が始まる

米国大統領トランプ氏が「Amazonへの課税強化を行う」とツィートした(日本時間2018/03/29)。その前に、G20(主要国会議)で話合われた議題の1つが「多国籍企業対策」となっていて、ある筋からの話では明らかに「Amazon対策」である、ということが言われている。

第二次世界大戦の1940年代の米国の大統領にして、米国切っての知性と言われたルーズベルト大統領は「今までは、王政専制から国家専制の時代になったが、これからは企業専制の時代になる可能性がある。国家として規制の強化などをしなければならない」というようなことを言っていた、とのことだ。実際、米国ではいま「コーポラティズム」が大きな問題となっており、「企業とはなんなのか?」という疑問の声が大きくなっている。

実際、Amazonに限らず、タックスヘイブン(Tax Heaven – 税金の天国)を使った「税金逃れ」は、当然のこととして行なわれており、現代ではケイマン諸島などが名前にあがることが多い。

米国自身でも「デラウエア州」というタックスヘイブンがかなり前からあって、そこでは企業は各種の税を払わなくてよかった。そこはもともと、デュポン社のホームグラウンドで、小さな州である。その政策も、デュポン社優遇のためにできたので、タックスヘイブンができていた、ということだ。そのため、20数年前に米国で買い物をして、日本にモノを送ってもらう、などのことをしたときは、「シッピング(出荷)はどこからにしますか?デラウエアからにすると、関税なしになりますよ」などと勧められたことも、何度かあった。米国企業は大から小まで、税金対策のために、ペーパーカンパニーの本社をデラウエアに作ったものだった。

いま、国を超えた経済規模を持つ、巨大な多国籍企業が世界の動きに大きな影響を与えている。その筆頭がAmazonである。そのAmazonは、タックスヘイブンを存分に使い、最低限の税金しか払わない。膨大な利益は、常に事業拡大のための再投資に向けられ、株価は高いものの、株主へのリターンはない。結果として、このままAmazonが成長を続ければ、「投資-株主へのリターン-株主の再投資」という「資本家を中心とした世界」、資本主義のサイクルの破壊が進み、資本主義自身が危うくなる可能性も出てきた。当然、各国の政府の通貨などにもこれは大きな影響を与える。たとえば、Amazonがあるとき仮想通貨のみでの取引をする、ということになれば、明らかに各国の政府の税収は無視される。ところによっては破算する政府も出てくることだろう。しかも、Amazonは既に小さな国家など吹き飛ばすほどのお金=信用を持っている。経済基盤は国籍を超えて存在し、つぶしようがない。

当然のこととして、Amazonは好むと好まざるとにかかわらず、国の政府とは敵対関係にならざるを得ない。究極の資本主義とは、すなわち資本主義のゴールだ。そこに大クライシスが待っていても、私たちはそれと無関係に生きているということはない。Amazonは資本主義に一番忠実な組織であるがゆえに、極端に短い時間に資本主義のゴールが見えているところまで来た。人々はそれに恐怖しているのだ。

Amazonの成長を止め、資本主義の成長を止める、という「対症療法」しか、資本主義のゴールまでの道を伸延する手は、今のところない。ゆえに、Amazonはいじめられる。

 


「AI」はリトマス試験紙のようなもの

今日現在、「AI(人工知能)」について、あれこれと良いことも悪いことも書いている人って実にたくさんいるんだが、まぁ、どれもうわっついた話ばかりで、現場のこととかって、まるでわかっていない人が多いですよね。実際のところ、コンピュータができた頃はぼくらはそれを「人工頭脳」って言ってたわけでさ、それ「人工知能」と同じ意味じゃん、みたいな。

要するに、現代のコンピュータは劇的な価格の安さで、劇的なスピードアップ、データ容量のアップが図れるようになってきて、これまでは一瞬で判断できなかったことを一瞬でできるようになった、ってことなんだね。だいたい、コンピュータは「考える機械」って呼ばれていたわけでありましてね、と、いうことで、「人工知能」という特別なシステムが昨日今日できたわけじゃないんだね。それをことさら「AIがー」って言う人はおそらく、よくわかっていないか、あるいは、のせられているだけか、ひょっとして、あんた、広告代理店のギョーカイ人?騙してカネとる仕事ね?みたいな人だったりするわけですね。

だから、今日現在、「AI」を商売道具として使っている人って、あまり信用しにくいんだね。おそらく、今日現在「AIがー」って人は消えていくんじゃないかと思うのですよ。ぼくはね。実質がないからね。

 


 

インターネットが始まった頃

いまや、スマホ、PC、ケータイ、スマートスピーカー、と、インターネットにつながらないものはない、という時代である。インターネットが正常に動かない生活はもはや考えられない。私たちの知らない社会の裏側でも、人と人のコミュニケーションだけではなく、さまざまなインフラがインターネットに接続されており、既に、インターネットは「止められないインフラ」となった。「デジタル社会」という「デジタル」を含んだ単語は多いが、「デジタルが社会である」、そういう時代になった。既に、デジタルではないものを探すほうが難しい。そして、「デジタル」はインターネットに即につながる。

私達がインターネットを始めた頃、それは米国で始まっていて、米国にはしょっちゅう行った。円高で日本の景気も良い時代だったから、米国に行くお金とかはあまり気にしなくても良かった、という時代でもある。いまの感覚で「米国に行く」というのとは、ちょっと違う。日本からのノービザ渡航は当たり前にできていたし、私が米国の行き始めたときは、ANAの国際線が始まった時期で、東京からLAに就航したANAの新しい便に乗ったこともあった。

その時代、「インターネットってなに?」とよく聞かれた。今でも思い出すのは、その頃の「IT業界人」の扱いだ。いや、その時代はITという言葉がなかったから「コンピュータ業界人」になる。「なにやら、一人で、多くの人がわからないことを嬉々とした顔でやっていて、わからない言葉を使う、暗い人たち」だった。ネガティブな評価はあってもポジティブな評価は少なかった。SONY、富士通、日立、三菱、シャープもPanasonicもUNIX(今はLinuxになっちゃったけどね)のコンピュータとかを作って売っていた。日本企業が元気な時代でもあって、工場ではインテリジェントなロボットが広大な敷地の工場の中で、工具や資材を運んでいた。そのロボットの前に私の足を出すと、ロボットはさっと止まって、私が通り過ぎるまで待っていた。こんな風景が当たり前だった。

この時代のことは話せば長くなるが、私の会社はコンピュータと通信をやる会社だったのだが、当時はまだそういう会社は少なく、黙って仕事をしているだけで、仕事が向こうからやってきた、という感じだ。

で、なにが言いたいかというと、その時代でも、インターネットが出現したときは、ほとんどの人がそれがどういうものかわからず、社会の片隅で、ぼくらだけが「これはすごいことになるぞ」という予想と信念を持って、なんだかわからないと言われた「それ」と格闘していた、ということだ。

おそらく、今という時代でもそれはあって、迫害され、虐げられ、無視されるものの中に、近い将来に世界を席捲していくものって、きっとあるんじゃないか?誰も理解できないから、誰もが無視した、そのものの中に、時代を切り開く新しいものがあるんだろう、と言うことだね。いやもう、人に認められないことをやる、ってのは、精神的にすごくキツイですよ。

だから、ぼくには「イノベーション」なんて言葉を軽々しく使う人には、正直反発してしまう。「うまくいきそうなものに乗っかってるだけ」が、「イノベーション」の言い換えだからだ。本当の世界を変えるイノベーションは、おそらく、今言われているイノベーションよりももっと深く、そして、多くの人にはわからないところに埋まっている。そして、それを見つけて、目を輝かせて掘り起こす人も、今もまだきっとどこかにいるのだ、と、希望をつなぐ。

 


帰りたい、帰れない

最近は、日本でも無料のWi-Fiが使えるカフェなどが増えてきた。そこで、気持ちよくモバイルしていて、「さぁ、帰ろう」となると、WindowsOSなどがUpdateをはじめて、席を離れられない。こういうの、なんとかしてくれんかな、と思う。

 


なぜ本を書くのか?

ちょっと自分のことを書こう。

なんで本を書いているのか?一言で言えば自分の書く本の目的は一つだ。「ITを通して自分を含めた日本人を賢くしたい」。これはもう30年以上前に上梓し、国内でおおよそ100万部を出した「入門C言語」「実習C言語」「応用C言語」のシリーズを書いたときから変わらない。コンピュータは人を賢くする道具として最初は考えていたし、今もそう思っている。しかし、多くのIT企業が「売れるもの」だけを目指した結果、「IT」はクルマのように、中身を知らなくても乗りこなせるものになり、多くの人はその中身を気にしなくなった。使えればいい、と。

あのAppleがApple][を発売したとき、それは「知的自転車」と呼ばれた。人間の活動領域を広げ、知を楽しみ、生きることを豊かにする。それが「知的自転車」の意味だった。パーソナルコンピュータとは、そういうものだった。私もまた、そのカルチャーに感銘を受けた人間の一人だ。私の周辺にもそういう人たちがいっぱいいた。あのときの感動はまだ自分の心に刻まれたままだ。

出版というと、おそらくこれからは紙ではなく電子出版にならざるを得ない。正直なところ紙の出版では食えない時代が始まっている。紙の出版は好きかと言えば好きだ。多くの人と関わって、1つの本という作品を仕上げていく過程は、それ自身が人生の楽しみでもあった。しかし、出版社はどこも例外なく儲からず、火の車である。今日ベストセラーが出ても、それは明日には消える。そういう時代がやってきた。

私はこの時代の変わり目に「電子出版」を選ばざるを得なかった。もちろん、紙の出版ができるならそれにこしたことはないし、まだ電子出版がすべてだ、と言える時代には早すぎる。しかし、流れは変わった、と感じる。昔にこだわっている場合ではなくなってきている。

「本を書く。本を出版する」その行為は、書くテーマと知識などのリソースがあれば、なんとかなる時代になった。おそらく、これからが電子出版の「旬」の時代だろう。