「あいさつおじさん」を問題にする人たち

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「あいさつおじさん」というのが、いる。朝から「おはようございます」というのを日記代わりに書く人はFacebookに多い。特に高年齢の人になるとその割合は増えるようだ。その人の一日にぼくが興味があるかといえば、まず、ない。「孫が生まれましたかわいいです」ああ、そうですか、てなもんであって、自分の親族であればともかく、そうでなければ他人ごとである以上の意味はない。目の前を通りすぎて行くだけだから、目の前の道路に自分とは関係のないクルマが行き交うような、そんな感じだ、と、今は思っている。自分でも以前はこの記事の筆者と同じように「うざいやっちゃな」とは思っていたが、最近は考え方を変えた。

世慣れしている「おじさん」だからこそ、読むほうが全然読んでなくて無視していても、別に構わない、と思って書いている、ということもおそらくあるだろう。書く方は自分の日記代わりなんじゃないかと思う。この筆者のように「SPAMと同じだ」というのであれば、別に無視しても構わない。今のFacebookには、特定の友達のタイムラインを表示させない、というオプションを設定できるのだから、朝の挨拶くらいしか見た事の無いような「友達」で、かつそれが自分にとって面白くもないと思えば、それを使えばいい。

現実の対人関係は、その人が目の前にいれば、どんなつまらないことを言われても、なんとか答えなければならない、という場面が多くなるが、Facebookでは誰が読んでいるかわからないし(あえて調べればわかることはわかるが)、書き込んだ向こう側の人が、自分の書いたことを読んでどう思うかも、「いいね!」さえ押されず、表明されないことも多い。PCの向こう側にいる人の意見は反対意見かも知れないし、それでもいい。

おそらく、この記事の筆者は「人がなにかを表現する」ということは「表現に対するレスポンスを必ず期待しているものだ」「だから表現する人には目的がある」「表現を受けたからには受けてこちらもなにかしなければならない」という思い込みがあるのだろう。人の関係というのは、そういう関係もあるのだが、そうでない関係もあるよな、というところには思い至らないのだろうと思う。

あくまでなんとなく、だけどそれは「命令されて行動する」人の感性であって、「自分で自分を律する」という生き方を知らないから、そうなるんじゃないかな?と、勝手に思ってみたりする。小さい頃から、「言われたことはする」というように育てられていて、精神的に自立していないから、自分の行動を促される「コトバ」である、命令とか指令ではない「コトバ」というものがこの世にはあるのだ、ということが、まだわかっていないから、こういう記事を書くのかもしれない。悪く言えば「奴隷根性がしみついている」ということじゃないか?。いや、あくまで「悪く言えば」だけれどね。

そういえば、ネットを見れば「鈴木なんとか馬のクソ」くらい存在する、匿名でねちねちと絡んでくる「俺を無視するな」系のコメント書きと、それは似てる感じも、根本的なところで、する。

あなたは他人の表現を無視していい。他人もあなたの表現を無視することだってある。かならず自分の周辺の全ての人とかかわらなければならないわけでもない。え?それが不安だって?寂しい?それは自立していない証拠だよ。