今望まれているのは「先の見えないIoT」ではない

IoTにかぎらず、人工知能もそうなのだが、現代のICTのキーワードは、明らかに「流行り」を示唆するだけの「バズワード」にすぎない。誰かが煽ろうして、盛り上がってお金が取れるようにしたい、というだけのことであって、ほんとうにそれが役に立つかどうか?ということは「ポーズ」だけだ。

つまり、このキーワードが流行れば、世間はこのキーワードにお金を出すだろう、ということだから、実際にそれが役に立つかどうか?というのは二の次なのではないか?そして、世間もそういうものに飽いてきたのではないか?ということだ。

日本が景気の良い時代だったら、そういったビッグマウスが一番儲けることができただろう。しかし、時代は世界的な景気後退で、これが100年前だったら、そのまま戦争、という時代にならざるを得なかった。しかし、今は世界的に張り巡らされたガチガチのサプライチェーンもあり、金融資本の情報網もある。国という単位で植民地を奪い合うことにはコストがかかりすぎ、直接的にそれができない時代にもなった。さらには、情報を国の政府が独占できる時代でもなければ、その必要もない。そういう時代のITというのは、明らかに「正直で正確な情報」をいかに速く相手に届けるか、ということに尽きる。そして、IoTや人工知能は、いかに正確に判断を下すか、判断の元となるデータをいかに速く、正確に取り込むか、という時代に入った。

結局のところ、浮き彫りになったのは、これまでのITとはなんだったのか?ということだ。その問いかけが不十分だった、ということだ。鉄腕アトムは1960年代に出てきたのに、いまだに実現していないし、「便利」であるはずのITがいつのまにか、トレーニングが必要な難しいものに変わっている。その証拠に、かつては「Fool Proof」という言葉があった。日本語にすれば「サルでも使える」ということになるだろうか?今はその言葉はなく、人間のほうにリテラシーとかスキルというかたちでの「便利の押し付け」があり、その結果として学習能力の低い人間には差別が待っている。

これが、私たちが望んだ「ITによる便利な社会」なのだろうか?

今、IoTや人工知能に求められているのは「fool proof」の復活だ。人間の社会を本気で便利にする仕組みをITで作ることが望まれている。

 


IT業界のキーワードはこんなふうに変遷している

鉄腕アトムの頭脳は「電子頭脳」だったわけで、要するに「人工知能」と同じもののことを言っていたんだな。イメージ的にはね。それにしても、ITの業界のこういった「流行語」は、これまでいろいろ変化してきているんだが、その本質をちょっと解説しよう。
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まず、1980年代後半くらいだと、「マルチメディア」とかって流行ったわけですよ。この頃のキーワードはITという言葉もなかった時代なんだが、米国からやってきた横文字のキーワードをそのまま日本のマスコミでありがたがって使っていて、なんの問題もなかったんだね。そして、2000年くらいに「IT(Information Technology)」だよ。つまり、この頃までのキーワードは「名は体を表す」だったから、キーワードを聞けば、とりあえずなんらかのイメージが浮かんだんだな。「マルチ」「メディア」だから、メディアがマルチになるんだな、くらいはわかったわけですね。
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そして、2000年を超えてくるあたりで、IT業界のキーワードがかなり変わってきた。たとえば、「Web2.0」なんてのがその代表だが、こうなると、もうキーワードを聞いただけじゃ、中身がわからない。「Web」の「2.0」。ははぁ、次世代のWebのことだね、まではわかるんだが、それが具体的にどのように変化するかは、キーワードだけでは、全くイメージできない。「すげぇぞ」あるいは「すげぇのが来るぞ」くらいな感じしか受けないわけですよ。もうね、「すげぇ:って言われても、なーんにも驚かないもんね」みたいに構えちゃうよねぇ。なんだか、押し売りのセールストークみたいになってきたわけだ。「このゴムひも、すごいんです」って言われているような、そういう感じ。
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で、現在のIT業界のキーワードは「IoT」「人工知能」かねぇ。ぼくは様々な日本の名だたる大企業の工場のシステムとかをずいぶんやってきた。もちろん、ぼくが全部引き受けたわけでもなく、そういう規模でもないわけで、そのシステムの「部分」をやっただけだけどさ、それでも、今のIoTと全く同じことはその工場の中で動かしていたし、僕らも作ったしね。世界ネットワークも動いていたしね。たとえば、1990年くらいかな、ぼくが仕事でシステムを作りに行った某社の工場では、ロボットが広い工場の敷地をあちこち走り回って、資材や工具を運んでいたわけですよ。人が目の前を横切ると、ロボットのセンサーが人を検知してその人が通りすぎるまで待っている、なんてのは当たり前だった。つまり、今、IT業界で流行っている「IoT」「人工知能」なんてキーワードは、既に一定以上の成果が20年近く前にはできているものばかりでね。ぼくはこれらのキーワードを「リバイバル・キーワード」って言ってるんだが、今はそういう「リバイバル」の時代なんでしょうね。つまり、ちっとも先進的じゃなくて、悪く言えば「蒸し返し」なんだな。
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でも、20年以上前と今が違うこともある。価格だ。最近はコンピュータ機器の価格が劇的に下がっていて、通信料金もまた劇的に下がっているので、そういうものが一般の消費者にも行き渡って来る下地ができた、ってことなんだな。かつては数億円したコンピュータが数千円で手のひらに乗る。かつては毎月数百万円かけた通信料金が今は数千円で済む。もちろんコンピュター機器が食う電気の電力も下がっている。そういう時代の変化が、コンピュータの利用を広げているんだな。かつては大企業しか導入できなかった生産管理システムを、おじいちゃんの町工場でも使えますよ、ってことですね。
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で、にわか仕立てのなんにも知らない「ITジャーナリスト」って、そういう20年以上前のことって知らないんですよ。だから、「世界ではじめて」なんて言って、恥かくわけです。iPhoneに指紋認証がついた、って大騒ぎしたときも、この手の質のあまりよろしくないライターは「業界ではじめて」なんて表現を使って、恥かいたわけだね。iPhoneより先に、スマートフォンに指紋認証をつけたのは富士通でさ、それを知らなかったんだね。で、クレーム受けて「ごめんなさい」したことがあったのね。これは昨年の話だったかな?これは数年のスパンの話であって、20年とかのスパンの話じゃなくてもこうだからね。最近のITライターは「先天性健忘症」を患ってる人が多いのかね。若いのに、病院通いは辛いだろうなぁ。
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ということで、ITの業界のキーワードは、(1)「名は体を表す」の時代から、(2)「抽象化でよくわかんない」に変遷し、今は(3)「古いものを新しいものと錯覚させる」という、そういう本質的な変遷を経てきたんですよね。「騙されるな」とまでは同じ業界の人間として言いたくはないけど、温故知新で歴史を大切にして欲しいよな、とも思うわけです。いや、これは日本のIT教育とかがそういうことを怠ってきた、ということでもあるので、他人のせいじゃなく、ぼくらのせいだ、ということでもあるんでね。困ったことですよ。
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「発達障害」は個性を抹殺するためのキーワードとして使われている。

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「発達障害」は昔は「個性」と言われていた。しかし、その当時は、いわゆる「学校の学習についていけない人」にも、仕事があった。世界的に景気が良かったのだ。そういう人でも必要とされていた。しかし、これからの世の中はそうではない、と思われている。周囲の環境も変わったのだ。しかし、これからも「発達障害」はどんどん増えていくことだろう。

しかし、自分が発達障害であった、と診断された場合は、それを自分の「個性」と考える必要があるし、実際「個性」なのだ。世の中がどうあれ、流れて移ろっていく世の中とは違う道を自分は自分の個性と一緒に人生を歩む必要がある、と覚悟することだ。人間一人ひとりは、それぞれに個性があって、それぞれに生きる道がある。「世の中に生きる人間には一律の普遍の価値があって、その価値にあわなければ生きている意味はない」という言い方をするのは、人間全体に対する冒涜である。今でこそ「発達障害」という「言葉」ができたが、私が子供の頃にはそういう言葉はなかった。だから、学校の成績の良い子供と悪い子供はそれぞれがそれなりに生きていた。今は「発達障害」という言葉で差別をされる。人間の世の中の価値観にも流行り廃りがあるのだ。普遍のものはない。

有名な画家、写真家、企業の管理職、会社の社長、政治家、といった人たちにも、実際に近くに寄って話をしてみるとはっきりと「発達障害」と言っていい人たちがいる。それでも、その人達は個性と自分のちからで、人並み以上にこの世の中を生きている。「個性」があって、バラエティがあるからこそ、人間の社会は生きていて面白い。それは「例外」なんかではなく、もともと人間の社会は「例外のかたまり」なのだ、という認識が必要なのだ。

この話は「東京都民でないと日本人ではない」という話と似ている。実際、東京都民であるいくつかの条件に1つでもあわないと、「東京都民ではない=日本人ではない=人間ではない」というように解釈されたりする。だから、多くの人は東京に集まって生活することを考える。結果として、東京は「東京都民以外の人の集まり」となるから「東京人≠東京人」という、よくわからないことになる。現象としては、それが連休やお盆・正月の「帰省ラッシュ」になるのだ。つまり「発達障害」というのは、現在の学校教育でやっている教育に「あわない」人をひとくくりにして、社会から抹殺するためのものである、と言ってもいい。日本の学校教育の基準にあわない「個性」を切り捨てるための方便に使われている言葉が「発達障害」である、と言ってもいい。

必要なのは「発達障害」と診断されても、「それは今の世の中だから」と、大きなことと受け止めないことだ。そういうものを大きく受け止める時代ではない。自分に自信を持ち、自分の個性に自信を持って、明るくこの世の中を生きることだ。よく国際化というが、本当の国際化というのは、多様な価値と個性を認めることであるとすると、それは「発達障害」などという言葉で個性を一刀両断してその人から生きる自信を奪うことではない。この「発達障害」という言葉が罪深いのは、それが「その人に生まれつきのもので生涯変わらない属性」という言い方をされ、本人の根本から、その人の生きる力を奪うことによって、社会の中の競争を自分に有利に働かせたい、という人たちがいる、ということだろう。

ぼくの子供の頃、ぼくは「学校の勉強に向いていないのではないか」という、今で言う「発達障害」という言い方を親がされたことがある。実際、好きなことしかしなかったし、学校の成績もあまり良いとも言えなかった。大学も入れる大学に入った、という程度だ。しかし、ぼくは20冊以上のIT関連の本を書き、韓国で大学教授もした。それが結果だ。

人は「個性を生きる種」である。その個性が集まって「社会」を作る。いかなる理由があっても、この社会の中の多様性を否定することは、そのまま人間を否定することと同じだ。