グローバリズムと映画:「沈黙 – サイレンス -」

キリスト教の本義は他の宗教と同じく、そのカルト性にあります。救済だけでなく献身を要求する。いやむしろ、献身のご褒美として救済が語られる。そうでなければなぜ「信じるものは救われる」なのでしょうか?「救ってくれたから信じます」ではなぜないのでしょうか?なぜ「慈悲」が最初に来ないのでしょうか?

あるいは、「沈黙」のテーマであるようになぜ一番必要なときに神は「救ってくれない」のでしょうか?

逆を言えばわかりやすいでしょうか。「信じないものは救われない」のです。信じても救われる保証はないのです。これは「神との不平等な契約」なのです。つまり、まず「献身」があり、その献身の結果としての「救済(リターン)」がある。しかし、そのリターンは保証されていない、という契約です。Give & Takeはまず神が献身による恩恵を受け取ってから、神が慈悲を下し人を救済する。これが「神との契約」ということです。この順番は、この順番だから「宗教」が「宗教」たり得るのです。当然ながら、国家政府も似たようなことをします。国家政府も宗教も本質的に「多くの人を集めて同じ方向に向かわせる」のが、これらの人間の作った社会の有り様なので、だいたいにおいて、似たようなものにならざるを得ません。ときによっては、宗教や国家だけではなく、企業も同じようなものである、と感じることもあります。それは現代の日本ではときどき「ブラック企業」と呼ばれるようですが。

しかし、国家政府は税収で成り立つので、国民を締め上げれば税収は減り、国家政府が成り立たなくなる。反対運動も起きます。また、企業は目的が「お金を儲けること」です。非常に明確な目的を持っており、Give&Takeもはっきりさせている。会社と社員の契約に不満であれば、最後には会社を出る、という選択もできます。それらは有限の囲いなのです。国家政府はかつては無限の囲いのように見えていましたが、今は違います。だから、宗教だけが現代に残された「最後の人間を縛る囲い」ということになります。その宗教が自分を救ってくれない、ということがわかったとき、「背教」が起きます。

神が救ってくれない以上、自分で自分を救うしかありません。そして「信じた」自分も救わなければなりません。つまり矛盾の中にいる自分を、心理学で言うところの「(自己の)合理化」でなんとかするしかない。それが「信仰をより深めて、悟りの境地に達する」ということです。人間は神を創り、神との不平等な契約に苦しみ、その不平等な契約に自分をあわせて生きていくことを強いられ、それを達成した人を「悟った人」と言うわけです。

だからこそ、キリスト教には、「家族よりも神を愛せ」という根本がある。キリスト教における「愛」は「男女の恋愛」でもなければ「家族愛」でもありません。あくまで「神への愛」だけです。だから、こういうこともあるわけです。これはかつてのオウム真理教からキリスト教に至るまで、宗教と名のつくものはすべて同じです。そして、この行為は「慈悲」とは違う側面を持っているがゆえに、宗教自身が矛盾をさらけ出すところでもあります。

「沈黙」に見るように、宗教の矛盾がさらけ出され、それに多くの人が「No」を言うのが、現代です。それは過去の時代と現代の「環境の変化」によって顕在化したものです。

宗教とは、もともと地域に根ざすもので、その地域から出られない人たちを前提とします。同じ地域にいる限られた資源としての「人」を奪い合う。そこに他宗との争いも生まれる。しかし安価で速い航空機と一瞬で地球の裏側でも情報を安価にやり取りできるインターネットの出現によりグローバリズムが表に出てくると地域性は当然揺らぎます。「生きてここにいられないのであれば他の地域がある」という風穴が地域の閉塞を破ります。そこに従来の地域に根ざした国家や宗教の重さが減っていく因みがある。多くの難民は、自分の土地とは違うところにどういう土地があるか、という情報を得られることによって、今いる地域から、他のより住みやすいと思われる地域に移動をするための行動を起こします。それは他の地の情報があるからです。過酷な条件で仕事をすることを強いられている人は、転職サイトで転職先を探して転職します。情報があり、それが手の届くところにあるからです。企業は転職を簡単にされたら困るので情報を遮断しますが、現代では完全な情報の遮断は無理でしょう。この変化は後戻りできない変化です。地域を越えた情報の流通をいま阻止したとしても、既に情報は人々の頭の中に大きくどっしりと根を下ろしているからです。

「沈黙」はかつて篠田正浩監督が一度映画にしています。両方を見るとわかりますが、スコセッシの時代の宗教解釈と篠田と遠藤の時代の宗教の重さが違います。ここに着目すると、スコセッシの旧時代性はむしろ宗教が元気だった時代へのロマンでありノスタルジーであることがわかります。つまりスコセッシにとってのキリスト教(の苦悩)は「過去」であり遠藤と篠田のキリスト教は「目の前の現実」なわけです。だから、拷問の場面などのむごたらしい映像がなくても、篠田版のほうが迫力があるのです。むしろ、だからこそ、スコセッシは拷問の場面などのリアリティの追求で、話題になるように映画を作らざるを得なかったのだろうと私は思います。

ぼくがインターネットを始めたとき、その変化はぼくが目指したものである、当時そういう世界を明確に意識していた、と言っておきましょう。実際そうであったからこそ、ぼくは渾身の力を込めてこの仕事をして来た。それが戦争を減らす手段の1つである、と思ったからです。これはぼくがインターネットを仕事にしてきた大きなメインの理由です。そういう意味でスコセッシの現代における新しい解釈の「沈黙」の軽さを作ってきたのは僕らであった、と言っておきます。そしてそれは、ぼくにとって、とても望ましい変化です。