「コンピュータ屋」という仕事


現代という時代は、コンピュータなしでは人間社会が成り立たないほどになった。特に都市部ではそうだ。さらに現代ではこれに「インターネット」が加わった。つまり「通信」である。今ほどコンピュータやインターネットが一般的ではなかった時代に、ぼくらはコンピュータの仕事を始めた。そのとき、ぼくが思ったのは、「これからはどんな分野でもコンピュータが必須になる。そういう社会が来る」ということだ。これに加えて、後で「通信」が加わった。実際にぼくが最初のコンピュータに触ったのは、1970年ごろが最初であって、プログラミングをしたのは、大学のコンピュータルームだ。そこでしかコンピュータを触ることができない時代だった。その頃はPCは一般的ではなく、大型コンピュータのタイムシェアリング(Time Share ring System – TSSと言った )が主流だった。大学を出る頃にはPCがマニアの間で使われはじめ、ぼくも当時高いシステムをアルバイトをして買った。

その頃から、コンピュータはあらゆる分野に使われはじめ、2018年のこの時期で見れば、コンピュータを使わないところはなくなった。音楽や映像といった商業デザイン、芸術から、クルマなどの工業製品、製造業のみならず、サービス業、と、あらゆるところで使われており、それぞれが「通信」をしている。そういう世の中に変わった。

大学を卒業するとき、いろいろ悩んで「これからはコンピュータだ」と思って、まずはオーディオメーカーに入った。そのときも、ひと波乱があって、本当は教育雑誌の編集者の道を歩もうと思っていたのを、一夜でオーディオメーカーに変えた。そのときの出版社の社長に言ったことは「これからはコンピュータの世の中になる。そこで生きて行きたい」であって、そこまではっきりとではなかったが、若い自分には軋轢もあったし、惨めでもあったけれども、コンピュータ屋として生きていくことにした。その当時、オーディオメーカーでも、入ればデジタルの世界に切り替わりつつあり、LED表示の音量インジケーターのICなどは普通に使われ始めていた。

会社の先輩にはPCが大好きなマニアの方がいた。そして、どんどん知識を吸収していって、その会社も転職し、本当のコンピュータ屋になった。気がつけば、ハードウエアの設計、ソフトウエアを作り、システムで動かす仕事をしていた。

しかし、そのあたりから社会の動きが変わってきた。コンピュータを核とすると、コンピュータの技術者というのは、他のあらゆる分野の仕事をしなければならないわけなので、そこから先は、今から考えれば、新しい仕事をする度に、別の世界を知る楽しさがあった。ぼくは楽しかったが、他の人ではついていけない、という人も多かっただろう、と今は思う。なにせ、ダムのコンピュータシステムをやったかと思うと、3か月もたつと、医療のコンピュータシステムを作り、という生活だったから、基本的に「世の中のあらゆることに関わった」ということになる。しかも、それぞれの業界のことを短期間に勉強し、専門用語でモノが話せるようにしないと、お客様と意思の疎通ができない。一言で言って「コミュ障」ではできない仕事である。そして、仕事が終わる頃には「三田さん、この業界で働きませんか?」と言われるくらいになる。でもぼくは他の次の仕事の話をもうしていて、そこに行かなければならない。

気がつけば、コンピュータで本を書き、バイオ(遺伝子)の研究所にいたし、キャッシュレジスターの会社のシステムを作ったり、韓国で大学教授をして、。。。いや、自分でも短い人生でめまぐるしく仕事を変えてきたような感じになる。それらの核になるのはやはり「コンピュータ」であり「通信」であった、ということだ。なにか一筋にやってきたかというと、たしかに自分では「IT」で一貫はしている。その後、長じてからは新聞記者もやったし、ビデオを作り、写真も仕事でやった。音楽は趣味にすることにして、など、自分でコントロールを効かせてきた(つもりだった)が、完全に違う分野も、新しいことをするのが楽しくてしょうがない、という自分の性格には合っていた。ぼくはいろいろなことをしていて、なにか一筋、と見えない、ということになるけれども、実は自分の中ではみんな一つのものだが、それは自分以外の人間には理解できないことも多いだろう。特に、日本の社会のように「何か一筋・人生これ1つ」でないと、評価されない社会では、「わからない」と言われるのがオチである。「安定」しようとしても、できなかった、というのが本音だ。

いや、ぼくのやってることは結局は1つなんだがなー、とは思うが、そうは見えないんですよね。どうやら「変化に強い」のはそうなんだと思うのだが。


 


 

25年くらい前の「コンピュータ屋」は、今で言うIoTの技術者だったから、ハードウエアもソフトウエアもデータベースもわかってて当たり前だった。

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ぼくはあまり昔話って好きじゃない。前は良く言ってたけど、この10年くらいは目の前の仕事が忙しくて、昔話どころじゃなくなった。で、その25年くらい前にはコンピュータにもいろいろなCPU部分のハードウエアがあって、特に日本のその業界では「NECのPC98シリーズ」が一番多く使われていた。他に、IBM-PCとか、Apple-IIとかってあったけれども、日本じゃなにかというと「PC98」が当たり前だった。事務処理にはまだコンピュータは沢山使われていなくて、むしろ工場の制御とかダムなんかのプラント制御とかに、PC98はたくさん使われた。だから、今この記事を読むと、昔の話がぼくの心の中でよみがえる。大手のあの企業の工場も、あの企業の工場も、みんなぼくらがやった仕事だ、って思い出す。守秘義務があるから、どことは言えないけど、あんなことやこんなことをやった。ロボットもちゃんとインテリジェントなものが動いていたしね。

つまりさ、その頃のぼくらってのは、アナログ電子回路、ハードウエア、ソフトウエア、みんなできて当たり前だった。その上で、お客様のところに行って、要件を聞き出して、どんなハードを作ったり組み合わせたりして、どういうソフトウエアを作って入れればいいか、なんて考えた。お客様とのコミュニケーションがちゃんとできないと、この仕事もできなかった、と言っていい。つまり、ソフトウエアだけの技術者、なんて使い物にならなかった。だから、コンピュータ技術者のほとんどは、今で言うところの「IoTの技術者」でなければならなかった。

インターネット以前の時代、僕たちもPC98を使って、東証一部上場の企業の工場のシステムなんか、たくさん作ったよ。重ねて言うけど、守秘義務があるから、どことは言えないけどさ。で、今も動いてるはず。なぜかというと、当時はPC98の値段も高かったけど、それを大量に工場のラインで使うということもできた「日本企業がお金持ちの時代」だったんだね。今は全然違うけどね。実は当時のコンピュータでは、PC98を使うほうが安かったんだよ。あの時代のIntelとかで作っていた産業用のボードコンピュータのほうが遥かに値段が高かった。シングルタスクのOSも多かったし、マイクロプロセッサ用のマルチタスクは出始めで、ぼくらは結構早い時期から、iRMX(intel Realtime Mutitasking eXecution)とかも使ったね。って言っても知ってる人は少ないだろうけど。もっとも、仕事によっては、自前でマルチタスクのモニタを作ったりもした。コンテキストスイッチングの仕組みを考え、スケジューラも自分で設計した。ところで、PC98はその当時は1枚で数十万円から数百万円する産業用のボードコンピューターよりも安かった。いや、外資系のすごくお金が余っているところではそういうコンピュータを使ったよ。OSはだいたいがMS-DOSとかのマルチタスク機能をもともと持っていないOSだったから、予期しないタスクとかが裏で動いてシステムが知らないうちに重くなる、ってこともなかった。だから、使いやすかったんですね。いや、プログラムが組みやすかった、というほうがいいかね?マルチタスクのOSは小型コンピュータには珍しかったし、使いにくかった。でも、なんとかして使ったこともあった。

CPUの性能が低いぶん、OSもプリミティブで、オブジェクト指向も一般的ではなかったしね。その当時では最先端の、光ファイバを使った光LANのシステムもぼくらが作って最初に某プラントで使って実用化した。通信用のCoProcessorに、高速シリアルの入出力を持つ、PROMでプログラムを焼くi8751を使った。それが使えるようにした、PC98用のインターフェースボードも作った。TCP/IPもなかった時代、自分たちがプロトコルを作って決め、プロトコルスタックを自分たちで作って、そのスタック間のインターフェイスもぼくらが決めた。これで光でLANが動き始めて、実際の某現場で動きはじめたときは感激だったねぇ。

要するに、当時(1980年代くらいまで)は、そういう時代で、PC98を工場なんかの制御に使う、ってのは、実は一番安くて一番安心な選択だったんですね。とは言うものの、パソコンもWindowsとかからしか知らない今時のスタバでiPhoneとMacBookAirなんかで記事書いてるライターじゃ、この辺りのことは話をしてもわかんないだろうけど。だから、こんな記事で「驚き」になっちゃうんだろうね。

だから、昔が良かった、とは思わないけど、ITに関わる技術者は、昔ほど能力が高くなくても、なんとか使える時代になった、ってことだな。