インターネットは「テクノロジー」ではない

インターネットというのは、デジタル・テクノロジーをベースにしているが、テクノロジーそのものではない。デジタル・テクノロジーを使った「革命」だったのだ、というのが、私の見方だ。

その昔、電気の発見があり、電灯ができた。そのテクノロジーの起こしたことは、人間の活動時間を増やす、ということだった。このときは「テクノロジーと人間社会の変化」は直につながっていた。しかし、インターネットが起こした革命は「人間を地域という軛から開放した」ということだ。

現在の人間の社会の秩序は、かなり昔から、基本的に「地域」で区切られてきた行政区画ごとに作られてきた。しかし、良きにつけ、悪しきにつけ、インターネットは地域を超えた人間どうしのコミュニケーションができるようにした。そのため、これまで数百年にわたって人間社会をかたち作ってきた「地域」というものを根本的に否定した。さらに、人の流れ、モノの流れも、飛行機などの地域間を安価で大量にすごいスピードで誰でもが移動できる手段ができて、さらに「地域」というものの重要性が減った。

しかし、人間の社会はここ数百年以上にわたって、宗教なども含め「地域」をベースにしてきたもので成り立ってきた。「地域」が大前提なのだ。「地域」はあらゆる人間社会の基礎だった。しかし、現代においてはその「基礎」そのもの、その前提を否定、あるいは弱体化することができるテクノロジーが出来、それを「地域消滅」に持っていくための、新たな文化が生まれた。それがインターネットだ。

だから「テクノロジーの発達が人間社会を変えた」のは間違いないのだが、それは「テクノロジーを使って人間社会の文化に革命を起こし、人間社会を変えた」のである。人間の社会は今までの旧文化と新文化の過渡期にあり、それぞれが混ざり合い、淘汰のための闘争を始めたのだろう。そして、最後は「新しいもの」が勝たざるを得ない。おそらく、そういうことが、これから始まるのだろう。いや、そうであろう、と思って、ぼくらはインターネットに飛びついた。変化は大きな変化ほど楽しいからだ。

 


 

いまだ、テクノロジーは教養にはなりにくい

私は、ITの世界を既に30年はやっている。ITという言葉ができる前からだ。技術者であり、研究者であり、技術に関連する書籍などの執筆者であり、人に教える立場であり、という、そういうことで。

しかし、ここ数年で多くの人がスマホを持つのが当たり前になってきて、ハイテク機器が当たり前のように身近になった。加えて、映画、写真、音楽、文章書き、などなど、あらゆる分野で「IT」が使われることが当たり前になった。以前は私は専門家だから、そういう世界の下支えをする役目だったのだが、いま、スマホやPCを使うのは「普通の人」にも当たり前になったかのように見える。

だから、よく勘違いされるのは「三田さんの知ってることを教えてもらえば、自分でもできる」と思う「素人」がすごく増えたってことです。その裏側にある大きなバックグラウンドが見えないのに。

ぼくは趣味で写真をやっていて、以前は仕事にもしていたんだけれども、よくあるのは、私が写真を撮っているそのすぐ後ろで、アマチュアと思われる人が真似をして写真を撮るんですよ。こちらにしてみれば「なんだこいつ、つきまとってきやがって」みたいな感じなんだが、本人はプロの仕事を真似して良い写真が撮れると思っているんだね。でも、そういうアマチュアの写真は、もう撮っているその場で「ダメ」なのがよくわかる。「なぜあの人と同じことを同じ場所でしているのに、自分には素晴らしい写真が撮れないんだ?」って、帰って思っていることだろう。

専門家の目的に向かった行動は、実は目に見えないそれまでに蓄積した多大な経験や知識に裏付けされているから、たとえ手とり足取り教えたとしても、アマチュアは決してプロにはなれない。プロになる「道」というものがあるのだ。

いま、私達の周りには、「ドローン」「自動運転車」「人工知能」「スマートスピーカー」「呼べば答えるスマートフォンのアプリ」など、様々なハイテク機器があるが、どれもこれも一朝一夕にできたものではないし、ソフトウエアやハードウエアの間違いもある。ぼくら専門家はそれがどこで問題を起こしそうか、それを作った人の気持ちまでわかるから、それらの問題を回避して使うことができるので、「これは危ないな」と思う使い方はしないし、そういうものに使うこともしない。専門家ならではの「知恵」が常に働いている。無意識にでも働いているのだ。だから、同じものを同じように使っても、素人とはかなり差が出る。これはしょうがないことだ。

だから、最近になって「テクノロジー」が「教養」と結びつくのは、非常に危険だと感じている。というのは、みんなの手にしているそのハイテク機器は動いているときは夢を実現するもの、と思えるだろうが、一度止まればただの文鎮である。文鎮で済めばまだいい。「夢の」自動運転車の事故などでは死者さえ出ている。そんなことになれば「テクノロジー」「教養」などという牧歌的なものはふっとんでしまう。その問題がいつ解消されるのか?などはわからない。

結局のところ、いくら高度なハイテク機器でも、作るのは人間である。であれば、間違いもあるし、不具合もある。それは「ちいさなこと」「将来は必ず解決されること」だとは限らない。小さいがどうしようもない致命的なものもある。「これから人工知能があちこちで使われるようになると。。。」などという議論を多く聞くが、人工知能には、根本的な問題がまだまだある。バグなどという小さなものではない。

飛行機・旅客機などは非常に複雑なシステムの上に成り立っており、機内、機外を問わず、それを飛ばすシステムがバランスよく、小さなトラブルなども回避しつつ動くことで、輸送サービスが滞りなく動いている。しかし、1994年、中華航空140便の名古屋空港での事故は、人間のシステムとコンピュータのシステムのConflictが生んだ悲劇だった。システムはシステム単独で動くわけではなく、暗黙知も含めた人間のシステムの中で、人間のために動くものだ。そして、それがときには人間のシステムとConflictし、こういう悲劇を生む。この問題を、あるとき、たまたま同席した日本の航空工学の権威と言われる先生に聞いたところ「人間系と機械系のConflictの問題はまだ専門でやっている人がいない」とのことだ。そう前の話ではない。

テスラやUberの事故などの話は多く耳に入ってくるが、結局のところ「自動運転車はまだまだ」というのが、現状での結論ではないだろうか?もしも、テクノロジーに教養、というものをくっつけるのであれば、そういうことから、きちんとしていかないと、やがて、人間社会は大きなクライシスを自らの中に抱え込んで行くことだろう。おそらく、現状は能天気に「テクノロジー&教養」などと言っている場合ではないのではないか。

むしろ、これから、「テクノロジー」が「教養」で語られるような、そういう時代を作っていかなければならない、というのが、私の命題の1つである。