「NHKの映らないテレビ」も要らない。テレビは要らないから。

SONYの株主総会で株主がNHKの映らないテレビを売ったら売れるという提案をした、という話があって、それがあちこちで盛り上がっている。実際、SONYは業務用のTVチューナーを持たない「画像モニター」を製品として持っているので、チューナー部分でNHKを見られないようにするだけのことで、製造は難しくない。あとは放送法がどうなっているか?放送法でNHKの映らないテレビの製造がメーカーに許されているか?罰則はあるか?などが問題になるのだろう。

とはいうものの、最近の若い人はテレビをほとんど見ない。地上波に至っては、「なにそれ?」状態である。私も1998年にインターネットの常時接続を自宅に入れたら、新聞は必要ないので、新聞の勧誘が来ると「うちはインターネットでみんな見られるからいりません」と断ったし、PCの前に座る時間がどんどん増えて、とてもじゃないがテレビを見る時間はなくなった。人間には一日は24時間しかないから、情報過多の時代には、どうしても入ってくる情報メディアの取捨選択はせざるを得ない。はっきり言えば、

テレビそのものが必要ない

時代がやってきたのだ。地上波のテレビは、現在60歳以上の人が見るか、YouTuberのコンテンツ作りの素材の草刈り場となっている程度である。日本ではこれから高齢者人口が急激に増えていくので、テレビは高齢者向けの番組しか流さなくなってきており、既に若い世代からは見放されたメディアである、と言って間違いはないだろう。映像コンテンツはインターネットの動画サイトで好きなものを好きなときに見る、そういうことが主流の時代がやってきたのだ。

テレビでも「詳しくはインターネットで」という言葉が増えた。商品を大量に売るためのコマーシャル・フィルムも、既にインターネットの動画サイトでは発表しても、テレビには流さない、というところも増えた。要するに「テレビからネットへ」の流れはもはや止めるべくもない、というところまで来ているのだ。

それでも、先日、私はテレビのスイッチを入れた。モニターとしてだ。チューナーはケーブルTVのもので、米国のドラマを見たかったからだ。それを見て、テレビのスイッチは切った。地上波を見ることは全くない。韓流が好きな人には、KBSの番組をケーブルTV経由で見られるので、それがおすすめだ。

NHKが見られないTVはおそらく売れない。TVそのものが全部なくなっていく時代に入った。残るのはチューナーを外した「モニター」だけだ。ところで、チューナーなしのモニターって商品としていっぱいあったと思うんだけれども、なくなっちゃったのかな?

 


 

マーシャル・マクルーハンについて

ぼくがマーシャル・マクルーハンのことを知って興味を持ったのは、高校生のとき、図書室にあった竹村健一氏の本でだった。読めば「内容がメディアを規定するのではなく「メディアが内容を規定する」という、面白いことが書いてあった。今となっては当たり前のことだが、今の言葉で言うと「コンテンツがメディアを選ぶのではなく、メディアがコンテンツを選ぶ」ということだ。内容が外形を規定する、という従来の考え方ではなく「外形が内容を規定する」という考え方は当時は新鮮だった。しかし、あっという間にインターネットの時代になると、「メディア」は「インターネット」というインフラの上で多様化して現れてきており、テクノロジーの様相が随分変わった。

デジタル通信テクノロジーは、そのネットワーク・トポロジーを規定するだけで、その中を通るデータは気にしてない。そのデータが音声であろうが動画であろうが静止画であろうが文章であろうが何でも良いのだ。つまり、マクルーハン流に言えば「メディアがインターネットを選ぶのではなく、インターネットの上では何でも選べる」のだ。そうなると、マクルーハンの時代には「テレビ」というメディアが新しく、それがどう世の中を変えていくか、という議論だったが、今はインターネットがどう世の中を作っていくか、という議論になる。つまり、「時代の流れ、社会の変化」が、かつては(マクルーハンの時代には)「テレビ」というメディアに規定されていたのだが、今は時代とインターネットが渾然一体となって、新しい世の中を作っていく、というモデルに変わりつつある、ということだ。

つまり、インターネットは社会インフラとなり、「人間社会とはインターネットのあるところだ」ということになったのだ。

インターネットの出始めのときに「これは面白い!」と飛びついたのだが、それはテクノロジーではあるのだが、実はテクノロジーと言ってしまうと大きく間違えるところもある。それは「テクノロジーを支える思想」がまさに地上の人間社会に具体的に降臨したものなのだ。ぼくらはその最先端でインターネットそのものを作ってきた。やがてぼくらが作ったものの上に、みんなが社会生活を営みはじめた。ぼくの目から見ると、そんな感じだった。

そのとき、ぼくらは思ったものだ。「ぼくらはマクルーハンを超えた」と。

そして気がついたのは、実はインターネットは「テクノロジー」ではなく、思想であり哲学なんだな、ということ。だから、インフラ足り得たんだが、これを「テクノロジー」という言葉でくくると、大きな間違いを犯すことになる。でも、それはわからない人には永久にわからない。テクノロジーはそれを実現した手段にしか過ぎない。

それが「テレビの時代=アナログ技術の時代」と「インターネットの時代」の大きな違いなんだね。そもそも、なぜアナログではなく、デジタルなのか?この変化は必然的に起きたものだが、なぜそれが必然なのか?そのことを答えられないと、実はマクルーハンとそれより後の世代がどのように変わっているのかが見えない。そもそも、デジタル技術はなぜ生まれ、なぜ普及したのか?それを説明できないうちは、インターネットの本当の意味さえ咀嚼できないだろう。そういう人は時代の変化の表面だけを見ているから「テクノロジー」という言葉しか思い浮かばないし、まぁ、そういう人はそういう人で構わないとは思うんだが。

結論としては、いまどきのメディアは「Broadcast」のみ、ということはなく、インターネットがあることによって、「Broadcast」も「双方向」も「個別同士の通信」もみんなできる。しかも、文字テキスト、音声、静止画、動画、なんでも使える。それは従来からの概念の「メディア」ではない。インターネットはインターネットなのであり、それ以外ではない、という存在となったのだ。このことの理解に「テクノロジー」という言葉は似合わない。むしろ「Revolution」のほうが似合うだろう。

マクルーハンの「古き良きテクノロジーの時代」は終わった、とぼくは思う。