米国大統領選挙の「争点・対立軸」は「持つものと持たざるもの」に強引に変えられたのだ。

今回の「ヒラリー民主党」対「トランプ共和党」の米国大統領選挙では、明らかにトランプ陣営の強さが目立っていた、と、私は選挙中から思っていた。今回の選挙でのトランプの陣営のすごいところは、この「対立軸」がどこかに従来からあるものの延長ではなく、米国社会の古い地層からそれを掘り起こし、自らの言葉で「変えた」ところなんだろうな、と、ぼくは思っている。

スタインベックの「怒りの葡萄」に描かれている米国の社会そのものが持っている禍々しいものを、トランプはこっそり裏庭で掘り起こし、それを「対立軸」に仕立て、通りに面した庭に飾った。従来の東西、南北という対立軸を消し去り、新たな対立軸を強引に自分の土俵に持ってきた。クリントン陣営はいわば「学校の優等生」だから、従来からある「土俵」しか知らず、その中で戦おうとして、結局はトランプ陣営に翻弄されて終わった。

ヒラリー陣営=米国のエスタブリッシュメントの反撃が始まっているが、米国社会の内部で持っていた「有色人種対白人」「民主主義対共産主義」「知性対反知性」という従来からの対立軸をトランプは土俵にすることを拒否し、「持つものと持たざるもの」という、新たな対立軸を土俵として作ったんだな。そして、この対立軸が米国の新たな病を作っていることを十分承知のうえ、また、自分も「持たざるものではない」ということも十分承知のうえ、対立軸を創造し、キャンペーンの土俵の上に載せた。明らかに米国社会に住む人たちの心の底にわだかまっているものを強引に引っ張り出した。この新たな鉱脈の発見は、おそらく、トランプがヒラリー陣営の妨害によって大統領になれなかったとしても、これから、米国社会そのものを大きく変えていく基本的な対立軸になる可能性がある。

本当に米国社会が恐れるべきは、トランプその人ではない。トランプを大統領として当選させた米国民そのものである。したがって、もしもなんらかの事件や問題が表面化して、トランプが次期米国大統領とならなかったとしても、このトランプが示した対立軸は大きな「しこり」として、米国社会に大きな変化をもたらすだろう。それが悪い変化なのか、それとも良い変化なのかは誰にもわからないんだけれども。

 


「本当はこういうことなんじゃないの?」っていう米国大統領選挙のお話

090812_193920ひょっとすると、トランプ自身も自らの「当選」にびっくりしていたのかもしれんね。今回の大統領選挙では、ヒラリーがメインでトランプは当て馬役、という役どころだったように見せていたはずなのに、いざ舞台に上がると、それがひっくり返っちゃった、って感じかね。予定調和が崩れたんだな。「主役」と「脇役の悪役」がいつのまにかひっくり返ったんだな。それが多くの米国人に望まれた、ってことがね、どちらにとっても、驚きなんだよね。

トランプ自身もそれをわかって「当て馬役」を引き受けた、ってこともあるのかもねぇ、と思うわけです。わざと嫌われるような「暴言」を吐きまくって、自分の役をしっかりこなそうとしたのかもしれないね。彼も米国の上位0.1%の高所得エスタブリッシュメントには違いないわけでさ。だから、トランプがこれからなんらかの圧力とかでいなくなったとしても、「なぜ彼が多くの票を集めたか?」という根本のところは、結局残っちゃうわけでね。その「なぜ」が解決されないと、これから米国の社会は大変なことになるんじゃないかと思うわけです。

その「残ったもの」が次の新しい時代を切り開いていくものなのかもしれないしね。いや、次の時代への予兆かも知れないけど、良くない予兆である可能性もあるね。そういうものが米国のみならず、世界の地表の下でうごめいている。

だから、ぼくにとっても、そしておそらく誰にとっても、トランプそのものへの評価なんてのはどうでもいいんだな。彼がいてもいなくてもいい。それが当て馬役の荒唐無稽な過激発言であっても、それを許し、肯定するか、許容する人が非常に増えた、ってことなんだな。なぜそれが増えたのか?そこが一番の問題だよ。なぜそういう人が増えたのか?力を持ったのか?ってことね。

たとえていえば、舞台で主役を張っているエリートくんを目立たせるために、「どうせ消えていくにきまっている」「当て馬」として、意味もなんにもない過激な台詞を吐く明らかな「バカ役」とか「悪役」を配しておいた、というのが全体のキャストだったんだが、いざ蓋を開けてみれば、その「悪役」のほうが人気が出てしまった、みたいな感じかね。

その昔、「ジーザス・クライスト・スーパースター」の劇団四季版を見たんだが、イエス・キリスト役の鹿賀丈史なんかよりも、ユダ役の欧州の舞台を数多く踏んだ寺田稔がとにかく深みも迫力もすごくて、明らかに寺田の演技や歌の迫力に、鹿賀が完全に飲まれてしまっていた、ってのを思い出した。あのミュージカルは、結果として、寺田ユダのための舞台だったといっていい。なにせ寺田ユダが最初に歌う場面を聞かせると、聞いた誰もがその歌が終わるまでじっと黙って聞き入る。聞いた誰もが、終わるまで息もせず、終わると「はっ」と正気に返り「はぁー」と息をする。そういう緊張感が溢れていた。あの言い知れぬ迫力は、明らかに鹿賀のイエスを食ってしまった、と言っていい。今でも寺田ユダの歌声は細部まで耳に残っているが、鹿賀イエスの歌はまるで耳に残っていない。

自分が見るに、イエス役の「ヒラリー」より、ユダ役の「トランプ」のほうが、上手だった。だから、一般的に聞けばあれだけの人種差別的「暴言」を吐きながら、多数に支持されたのだ、と私は思う。簡単に言えば「脇役」の配役を間違えたのだ。なぜ配役を間違えたかというと、トランプを凌ぐ人間的迫力のある演出家がいなかったからだ、と、私は思う。

まぁ、どの世界でも「正義」ってのは迫力はないものではあるんだけどね。