映画「フルメタル・ジャケット」の世界はもう来ない?

1987年の米国映画で「フルメタル・ジャケット」がある。スタンリー・キューブリック監督だ。ベトナム戦争のときの米国。そして、その中でひときわ存在感を示してていた「教官役」の「ハートマン軍曹」こと「リー・アーメイ」がこの4月15日に亡くなったことで、この映画が再びあちこちで取り上げられている。

ハートマン軍曹役は最初は他のキャストだったのだが、演技指導をしているリー・アーメイの迫力とその発する言葉が非常にリアルでインパクトがあり、彼がその役に代わったのだ、という。リー・アーメイは、もともと軍人で若い兵士の教育役をしていたのだ。

しかしながらこの「フルメタルジャケット」では、ハートマン軍曹は最後は、おそらく、その教育に反発した誰かによって、殺される。それまでに、ハートマン軍曹の指導についていけない若者が自ら命を絶つ、という場面もある。

人間は、実は簡単に洗脳される。閉空間に閉じ込め、今の自分は取るに足りない小さなものだ、と、思わせて自分を全否定させ、その後に繰り返し同じことを聞かせ、新しい価値観を吹き込む。いわゆる日本語の「洗脳」と英語の「Brain washing」は正確には同じものではないのだが、勉強しておく価値はある。この映画は「洗脳」というものがいかに行われるかを描いた非常に秀逸な映画だと、私は思う。

ベトナム戦争の頃の米国は、平和な米国本土から、殺戮の戦場に若者を送り込む必要があり、もしも洗脳なしで若者を送り込めば、軍隊は大混乱となっただろうし、混乱がなくても、強い軍隊にはなれないわけで、軍にとって「強い若者を作る」必要があり「洗脳」は必要だったのだ。今のように、PCの画面でゲームのように操作できるプレデターのようなロボット兵器はなく、もちろんコンピュータもデジタル通信回線もなかった。そこで「戦争に勝つ」ためには、人間を戦場に送り込まねばならなかったからだ。

現在、この洗脳の技術は商品販売や自己啓発セミナー、新興宗教、新入社員教育などの現場に応用されて使われており、私たちはこれらのものへの警戒感を常に持つ時代となった。現代の「フルメタルジャケット」は軍隊ではなく、日常に潜んでいるのだ。しかしながら、現代の社会ではネットの普及により、また、スマホなどのポータブルな通信機器の普及により、洗脳ができる閉空間を作りにくくなっており、洗脳の技術も広く解明され、公開されるようになったため、洗脳にはあまり力がなくなった。これは喜ばしいことである。「IT革命」はこういうところでも「革命」を起こしているのだ。

ちなみに、現代の兵器は、不確定な人間に頼らずに目的を達する。コンピュータを内蔵した「スマート・ガン」は、デジカメの顔認識のような仕組みで、ターゲットに勝手に、かつ正確に弾が飛んでいくようにできているし、人間も「ターゲットが突然出てきたら反射的に引き金を引く」ように教育される。そこに、喜怒哀楽、哀れみなどの人間の感情が入らないような教育がされている。

デジタル通信技術(IT技術)はすでに不確定な人間を頼らない兵器と軍隊を作っている。私たちは、会社に通うように軍に通い、書類をPCのExcelで作るようにこれらの武器を使って、米国本土の軍内の事務所から、コーヒーをすすってマックのフィレオフィッシュをほうばりながら、PCの画面上の何処とも知らない場所の何処とも知らない人たちに、ミサイルを撃ち込むことができる。もう洗脳は必要ない。毎日のビジネスをするようにゲームをしていればいい。夕方には「戦場」から帰宅して子供たちと一緒に食事をすればいいのだ。「今日の学校はどうだった?」ってね。

 


 

世界のソフトウエア開発の主流は「オープンソース」。

最近はICTの業界も世代変わりの時期なんだなぁ、と、思うことの大きな変化に「オープンソース(Open Source Software – OSS)」がある。明らかに、旧世代と新世代の溝はここにある。実際、世界的にはOSSのソフトウエアを使うことが「主流」になりつつあるんだが、日本のメーカー系のソフトウエア開発者やその周辺は、いまだに1からコードを書く「スクラッチ」に普通にこだわっていることが多く、おそらく、今後はさらに日本のソフトウエアは大きく世界から遅れていく可能性が高い。

OSSで作られた製品は実は普通に身の回りに数多い。代表的なものはプリンターのファームウエアや、デジタル家電、最近はAI搭載スピーカー、そして、インターネットとの接続口に必ずあるルーターなどは、OSSを大幅に取り入れているものとして、知られている人には知られている。実は数多く、OSSは使われているのだが、多くの人は知らない。また、Webの開発で使われるCMSも、ほとんどOSSである。こちらはインターネット上に直に晒される環境のため、世界中野多くの人が使い、多くのエンジニアが常に監視しており、セキュリティは特に気をつけて開発されている。有名なOSSは、毎週のようにセキュリティ・パッチ(セキュリティの更新のためのプログラム)が配布されている。

物事の変化は「メリット」と「デメリット」の天秤で、「メリット」のほうが明らかに大きい場合、新しい変化が訪れる。日本で変化が起きないのは、日本という土地では、「デメリット」のほうが大きい、と考えられているからで、ある意味日本のICTの遅れというのは、「当然」と言われるのかもしれない。なかなか世界の流れに乗って「変わる」ことができない社会が存在し、その社会の中ではOSSのような新しい変化はなかなか市民権が得られないのだろう。しかしながら、ICTについてはインターネットなどグローバルなものがベースにあるので、OSSを当たり前に使った開発体制や製品が世界的にあふれている昨今では、明らかにOSSへの対応がなければ、日本のICTが全体として世界に遅れた「ガラパゴス」になることは避けられないように思う。

特に、「人工知能」「IoT」などの分野は明らかにOSSの独壇場であり、OSSなくしてこれらのシステムの開発はありえない。

OSSを使うメリットは以下だ。

  1. ソフトウエア開発の時間が大幅に短縮される。
    ソフトウエアの開発のコストはすべて「人件費」である。それはそのまま「開発にかかる時間」であることは言うまでもない。
    「半製品」として、あるいは「パーツ」としての「OSS」を使うことによって、当然ソフトウエア開発の時間が(一からソフトウエアを作るよりも)短縮される。
  2. 世界中のエキスパートが開発や検証に関わるためセキュリティが向上する。
    実はOSSが使われる大きなメリットの2つめはセキュリティの向上だ。世界中のエンジニアが「検証」しているのが現在のOSSであり、そのため、ネットのあちこちにOSSのセキュリティ情報があり、より安全なシステムを構築できる。また、セキュリティホールが見つかった場合でも、電光石火の速さでその情報がネットを駆けまわり、多くの人に周知され、あっという間に「修復」される。多くはその週のうちに、無料でセキュリティパッチが配布される。

それにしても、OSSへの「恐れ」を多く持つ日本のソフトウエア関係者は多い。なぜだろう?

日本でOSSが流行らないわけ。

  1. 「現在のOSS]と「フリーソフトウエア」を間違えている。
    現在無料で入手可能なOSSはPCのエンドユーザーが使っていた「フリーソフトウエア」とは全く別だが、これらが混同されている。
  2. 日本の開発者が時代についていけていない。
    日本の、特に日本のメーカーに勤務するソフトウエア開発者の多くは、若いときの経験が現在に生きるものだ、と思っているだろうが、ソフトウエアの世界では5年もたつと5年前の話は「弥生時代」である。10年前は「縄文時代」くらいの感覚の差がついてくる。特にここ5年での動きは非常に急であり、それ以前のICTの専門知識だけでは全く理解できないことが多い。この世界で仕事をする以上、常に勉強を怠るわけにはいかないのだ。
  3. モノ作り」への執着がOSSへの理解を拒否している。
    ソフトウエア開発は「モノ作り」「製品開発」だと思っているのは大きな間違いである。実際のところ、ソフトウエアは通常において不可視であって、非常に複雑なものだ。性質としては、人間社会とキカイの社会の中間地点に存在するものなので、製品として作ったつもりのものでも、リリース後に、常に新しい状態に保っておく必要がある。最近のWindowsなどのOSでのアップデートを見るとわかるだろうが、あれは「Microsoftの技術者の技量が落ちたから」長いアップデートの時間をとっている、というものではない。OSは「完成品」ではなく、社会とつながったものなので、社会の動きに合わせて、常に変わっていくものなのだ。つまり、世界的に、現代のソフトウエアというものは、従来の「モノ作り」の枠内で考えてはいけないものだ。

先進的なOSSを使ったソフトウエアの開発は、(1)まず機能要件をまとめた後、(2)その機能に必要なOSSをGitHubなどのリポジトリで探し、(3)実際に組み合わせて作ってみて、(4)機能の足りないところや不都合なところは独自開発する(多くはユーザーインターフェイスなどがそれに該当するだろう)。そういう流れになっている。既に10年ほど前から、入れ替わりの激しい家電である「テレビ」などは、OSSの塊である、と言ってよい。テレビを買うと、ついてくるマニュアルの後半分が全部英文のOSSのライセンスの表示に使われている、なんてことも多くなった。

最近多く使われている人気のOSSのライセンスページを開くと、それ自身が多くのOSSを使っていることがわかる。OSSがOSSを産む時代に入っており、ここで既に日本の多くのガラパゴスなソフトウエア開発は、数歩遅れている。開発者には「このOSSは、示されているライセンスに従えば、どのように使うのか?」などの法的な問題の理解も必要になっている。

時代は差別化が図れなくなったハードウエアの時代ではない。ソフトウエアが要の時代になっている。そしてそこには多くのOSSが当たり前に使われている。古い時代のソフトウエアエンジニアの時代は終わっている。

日本の某自治体、某役所では「OSS使用禁止の開発をお願いする」などという時代錯誤なものもあるようなのだが、明らかに的を外している、と言わざるを得ない。いや、古い時代のSEしかいないようなメーカーの人に騙されて、高い開発費を払わされていなければいいんですけど。

 


戦前も戦後も終わった世界

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「日本の戦後民主主義は破綻している」と言われることがあるが、流石にそれが民主主義ではなくとも、疲弊し、飽きられることは、ある意味当たり前のことだろう。日本だけでなく、多くの国で世界的な経済の力は弱くなっており、日本はその一部である、というに過ぎない。「強い政府」を求めている、その流れは、なにも日本だけではなく、世界的なものだ。それは現実的に私達の収入が減り、生活が苦しくなっている、という現実から来るものだ。

しかしながら「パックス・アメリカーナ」を誇った北米地域は既に疲弊の極みにあり、世界経済を下支えした「世界の工場」であった大陸中国も「眠れる獅子」の次の時代である「覚醒した獅子」の時代も既に通り過ぎつつあり、いま、世界は膨れ上がった消費と赤字に苦しみ、そこから抜け出せない。資本主義というものそのものが終焉のときを目の前にしているのだろう。日本経済のそれは、そういう世界の一風景にしかすぎない。

思えば、植民地主義の時代は「国家政府」という究極の大企業どうしの競争の時代であった。コストのかかる大量の武器と人を使って、植民地の陣取りを行ったが、それはそのコストに見合うだけの収穫が得られる可能性が高かったからであって、それ以上の意味はない。

現代という時代は、その「国家政府」がすべて疲弊しており、そんなことは信じたくはないが、それでも現実はそうでしかない、という時代になったのだ、ということだ。多大なコストをかけて植民地を作ったところでその果実は少なく、なによりもその多大なコストの負担に国家政府は耐えられなくなってきている。世界最大の軍を持つ米国でさえ、世界のあちこちで「撤退」を初めており、その理由は主に経済的なものだ。

これからの時代、人類が生き抜いていくために必要なのは、低コストで生き抜く知恵であって、高コストのために多大な富を得ることではないだろう。

世界的に「上向き」の時代は終わった。これからは「下を向いて歩く」時代に入ったのだ。

戦前という神話でもなく、戦後というノスタルジーでもない、全く違う世界が私達の前に広がっている。今までの経験はそのほとんどが通用しないだろう。


個人が裸で世界に放り出される時代

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実は、ハフィントン・ポストの日本のサイトにときどきコメントを入れているのだが、こちらの記事に以下のコメントを入れたら、辛辣すぎたらしく、コメントをはねられてしまった。

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「日本が」「日本が」って、それ、冷戦時代の「ウヨク」「サヨク」の考え方なんだよね。古いね。バカだね。国境なんてもう関係ないです。今は会社という組織でもなく、国という行政単位でもない、「個人」が世界に向かって裸で放り出されている時代なんですね。だから、「日本がすごい」「日本人がすごい」「僕も日本人だからぼくも当然すごい」とかいうのはもう通用しない。自分がすごくない人ほど、そういうものに頼るよね。でも頼れるものは会社でも国でもなく、自分しかいない。だから、組織に頼るあなたは全然すごくない。

今、世界はそういう時代になっていて、やがて日本人の「同胞幻想」も終焉を迎えている、という時代なんだと思うのですね。それが「格差社会」だから。こんな格差社会でまだ組織や国を信じる、ってことが本当はばかばかしいことだ、ということは、冷静に考えればわかることだよね。

でも、そんな「すごくない自分」を直視できないから、「なにかに頼っている自分」が美しい、とか思わざるを得ないんですね。そろそろ、目を覚ましたらどうか?