人工知能は騒ぎすぎ

現代の今、このときは、多くの人がスマートフォンなど身近なIT機器を当たり前に持つ時代になり、その上で通信を前提としたシステムで多くのサービスを便利に受けられる。これは、コンピュータのハードウエアの価格の短期間での劇的低下と、計算速度などの劇的な向上、ストレージなどの記憶部品の価格の劇的低下と劇的性能向上によって、可能になったものだ。例えば、現在、世界をつなぐインターネットの接続はぼくらは毎月数千円、ときには数百円で、道端でもそのサービスを受けられる。遠く離れた米国ホワイトハウスのWebページは、東京の下町の飲み屋の中でも読むことができる。国際データ通信回線は25年前なら毎月数百万円した。「身近になる」ということは「安価になって誰でもそれに接する機会が増える」ことだ。

そして、身近になったスマートフォンやPCで、人間どうしで会話をするみたいに、なにかを無料に近いお金と手間でやってくれるサービスを期待するのは、人情というものだろう。それをぼくらは「人工知能」という言葉で表現しているのであって、「人工知能」という「なにか」がそこにあるわけではない。

事実、私もこの業界に数十年いるのだが、20年以上前から、大手企業ではロボットが人混みの中、広い工場の中を動き回り、資材や工具を運んでいた光景を当たり前に見ている。そして、そういうものを自分でも作ってきた。そのロボットは、目の前に私が突然移動すると、その姿を検知して止まり、私が通り過ぎるまで、待ってくれた。誰ともぶつからず、その役目を果たしていた。工場内の無数のロボットの動きは中央の事務所のディスプレイにリアルタイムで描かれており、ロボットの故障もわかるようになっていた。繰り返すが、これは25年前の日本での光景である。

ただし、今と違うことがある。

「価格」である。当時は、こういうシステムを作るのに、数億円はかかっていた。今はおそらく数千万円でお釣りが来るだろう。毎月のランニングコストも劇的に低下した。私達がスマートフォンなどで受けられるサービスは、毎月数百円、あるいは無料で受けられるが、同じサービスを25年前に受けようとしたら、最低でも毎月数十万円はかかったはずだ。

要するに「シンギュラリティ」の基礎は「コスト」である。お金の話なのだ。人工知能も同じで、昔からこの業界で仕事をしているぼくらにとっては、昔から当たり前のことだった。しかし、今はそれが劇的に安くなり、多くの人の生活の視野に入ってきた、というだけのことだ。

そしていま、人間の組織が行っている「事業」を「ITシステム」が置き代える時代になった。かつてはコストが非常に高かったものが、非常に低いコストで手に入るからだ。

「IT」とはなにか?「人工知能」とはなにか?

それは「便利」「素晴らしい」で語られることが多いが、それは「お金」を無視した話だ。そして、今はお金を無視できるほど、かつてより豊かな時代ではない。

だから、ぼくは言うのだ。

「人工知能は無い。あるのは時代とともに変わるコストだけだ」。

 


 

「人工知能」だけではダメな理由

以前、私は国のバイオの研究所にいたことがある。そこで、ノーベル賞を取りそうな方々といろいろな話をした。ぼくの体質がアカデミックなものとは合わなかったこともあって、あまり長くはいなかったのだが、いる間にした勉強は楽しかった。そして、2014年、ぼくが韓国の大学の教授をしていたとき、あの「STAP細胞事件」があった。小保方さんの単独記者会見をオンラインで韓国の大学のPCで見ていた。

遺伝子の研究というのは、その究極のところには「人間を作る」というのがある。コンピュータも、その目的の究極には「人間の頭脳を作る」があることは、まぁ、「大前提」と言っていい。いずれにしても、みな「人間を模倣している」ことには変わりはない。コンピュータで「人工知能ができる」とは言うが、それは「脳」だけの話であって、その「脳」には、人間と同じ様々な経験をさせないと「人間と同じ」にはならない。だから、コンピュータをできるだけ人間に似せようと思えば、人間と同じことを感じるセンサーをつけ、人間と同じ経験をさせるしかない。人間がそうであるように、コンピュータも外部に対しての働きかけもできなければならず、その働きかけに対する結果を取り込んで抽象化しなければならない。となれば「人間そっくり」の人工知能には、明らかに人間と同じ「手足」「感覚」「アクチュエータ」が必要であり、それがついていないうちは、人工知能は人間のようにはならない、ということだ。

つまり、現在の人工知能は不完全だ、ということだ。手足がない。感覚がない。

本当の「シンギュラリティ」とは、そういう「人間そっくり」で「人間の友人になれる存在」ができなければ、完成はしない、ということになる。もしもこの先、シンギュラリティが来るとしても、短い時間ではそれは不完全なものにならざるを得ない。今でもその不完全によって、人間には不利益がたくさん出てきた。一番わかり易いのは、自動運転車の事故などだろう。

さて、そういう困難を克服し、全てが完成し、人間そっくりのコンピュータや人間そっくりの人工生命ができたとして、なんの意味があるだろう?ただでさえ狭い地球をさらに狭くするのか?人間と同じ、ってことは人間と同じくらい間違える、ってことでもあるんじゃないか?など、悩みが尽きることはないだろう。

こういった「人工頭脳」「人工生命」の研究とは、本当は人間が自らの成り立ちを知るためのものであって、仮のゴールとして「そこ」を目指しているに過ぎない。そのゴールに至る過程で、様々な知見を得ることができ、その知見を私たちの生活を豊かにするのに利用するのである。これが本当のこれらの研究の目的なのだ。だから「役に立つ」という観点でこれらの研究を見ると、結局は役に立たないガラクタばかりを作ることになるのだ。

 


「法人」と「人工知能」

亡くなったホーキング博士も「人工知能が人間に害する可能性がある」ことを警告していた。米国では、第二次大戦のときに亡くなったルーズベルト大統領は「企業が政府を凌ぐ」ことに危機感を持った。現代では後者は「Corporatism」として知られている。

私は「人工知能」というものはもともと無く、それは現代のコンピュータそのもののことを言い換えているに過ぎない、と思っているが、その議論はここではひとまず置いておき、おそらく一般的にわかりやすいであろう「人工知能」という用語をここでは使うことにする。

人間が自ら作った「人間みたいなもの」は、人間と同じ成長の過程を経ずに人間のように振る舞うことを、人間社会の中で許容されている。企業は「法人」という人間を構成員としてできた「機械」のようなものとして。人工知能は「機械で作られた擬似的な人」として。どちらも人間が作ったものだが、人間に似ているものの、人間と同じ成長過程を経てそこにあるものではないから、人間と完全に同じというわけにはいかない。

別の言い方をすれば、それは「人間ではないが、人間のために、人間に近く作られた」「モノ」であって、それを「人間」と同じ扱いをこの社会でするわけには、本来はいかない。それは、人間社会で生きる人間自身の子供のときのようなもので、「不完全な人間」であり、「人間である」と言うには、どこか大きな「欠陥」を抱えている。

それでいて、それが作られた目的は「人間社会をより発展させ強固にさせるもの」だから、どこかに人間以上のパワー(破壊力も)を持っている。言い換えれば、「企業」「人工知能」は、同じ子供でも、ジャイアンみたいな大人もてこずる暴力を行使できる子供のようなものだ。

だから、私たちが「人工知能」に漠然と抱く不安はそこから来ている。「企業」は、その問題点を「Corporatism」として、意識され始めているが、人工知能のそれは、まだ漠然としたものだ。

人が人のために作った「フランケンシュタイン」の示した暗喩が、現代の社会では見えやすいものではなくなっている。

「人工知能」「企業」。彼らに人間社会の大人になる学習をいかにさせて育てるべきか。あるいは、壊して作り直すべきか。

 


 

「AI」はリトマス試験紙のようなもの

今日現在、「AI(人工知能)」について、あれこれと良いことも悪いことも書いている人って実にたくさんいるんだが、まぁ、どれもうわっついた話ばかりで、現場のこととかって、まるでわかっていない人が多いですよね。実際のところ、コンピュータができた頃はぼくらはそれを「人工頭脳」って言ってたわけでさ、それ「人工知能」と同じ意味じゃん、みたいな。

要するに、現代のコンピュータは劇的な価格の安さで、劇的なスピードアップ、データ容量のアップが図れるようになってきて、これまでは一瞬で判断できなかったことを一瞬でできるようになった、ってことなんだね。だいたい、コンピュータは「考える機械」って呼ばれていたわけでありましてね、と、いうことで、「人工知能」という特別なシステムが昨日今日できたわけじゃないんだね。それをことさら「AIがー」って言う人はおそらく、よくわかっていないか、あるいは、のせられているだけか、ひょっとして、あんた、広告代理店のギョーカイ人?騙してカネとる仕事ね?みたいな人だったりするわけですね。

だから、今日現在、「AI」を商売道具として使っている人って、あまり信用しにくいんだね。おそらく、今日現在「AIがー」って人は消えていくんじゃないかと思うのですよ。ぼくはね。実質がないからね。

 


 

「人工知能」の行き着く先

このまま行けば、物流だって、ロボットの自動車が集荷に来て、ロボットの自動車が配送する、というところまで行くだろう。タクシーやバスは無人化が始まっていて、これが完全に稼働を始めれば、運転手さんは必要なくなる。非常時に手動の運転が必要なときに出てくる「非正規」な人がいれば十分だ。もっとも、その「非常時の運転手」だって、ロボットになる可能性は非常に高い。

工場なども、当然、「無人」が当たり前になる。であれば、工場労働の雇用はなくなる。当然だが軍隊というものも、ハイテク化すればするほど、その競争が激しくなればなるほど、「人」がいなくなる。徴兵制ができたとしても、軍隊では人は必要ない。であれば、徴兵制で集めた「人」は、遊ぶ。膨大な人数の人をどうやって食わせていくのか?という問題が当然、持ち上がる。

現代のデジタル化、ハイテク化された軍には、「人」は最小限でいい。数多くの兵隊を教育し、数多くの兵隊を養う意味がないうえ、コストも高い。どうせ高いコストを払うなら、ITに詳しい人材にコストをかけたほうがいい。

であれば、今度は「権力」というものも変わる。現代の「権力」というのは、多くの人の支持があるからこそ、多くの人を使うことができる。それが権力である。この「支配者」の支配する「人」が、支配者自身と同じ「人」であるから、意味があるのだ。であれば、そのどちらかに「人」が必要ない、ということになれば「権力」というのはいったいなのだろう?ということになる。

人は完璧に物事をこなせないから、「差」が生まれる。そこに競争が発生し、勝ち負けができる。しかし、完璧に物事をこなす「機械」が人間の行う勝負をすれば、当然「最強」になる。将棋、囲碁、チェスなどは既にコンピュータのほうが強いことが証明されてしまった。これ以降、勝負事には「白け鳥」が飛ぶ。「不完全な人間同士の勝負には意味がない」そう、機械に言われる。

麻雀をやるロボットはいつも勝つ。相撲やプロレスは、人間の不完全があるからこそ「試合」として成り立っていた。「完全」なロボットができようとしている今、これらの試合には意味もない。であれば、人間の序列にも意味がない。

コンピュータの発達は、人間社会を全く性質の違うものに変えざるを得ない力を、急速に持ちつつある。そして、人間が「完璧」を求める以上、この流れは止まるはずもない。ぼくらが競争だと思っていたものが、蓋を開け、そして当たり前のものになったら、それはこれまでの人間社会そのものの基盤になるあらゆる価値や原理をひっくり返すものになりつつある。

人間はこれから、新しい「生きる意味」をさがさなければならなくなった。

 


「人工知能」の不都合な真実

本当は「人工知能」というものはない。だいたい、コンピュータは「鉄腕アトム」の時代に「人工頭脳」と言われてこの世に登場した。人間に代わって「考える」ということをしてくれる機械だったからで、それってそのまま「人工知能」じゃないの?というものである事は言うまでもない。しかし、コンピュータが「人工頭脳」と呼ばれていた時代と、今のどこが違うのか?というと、まずはハードウエアが違う。

ハードウエアは、かつて10億円したものが、今は5千円も出せば手に入る。しかも、CPUの演算スピードは、過去と較べて現在は数百倍。メインメモリの量も、ストレージの容量も同じくらい現在は大きくなった。しかも昔と比べて劇的に安くなった。だから、以前は膨大すぎて実行にも時間がかかる巨大なプログラムを、現在なら小さなコンピュータで利用できるようになった。

また、インターネットの発達によって、現在のコンピュータでは手に余る大きさのデータなどを扱う場合は、インターネットを通してメーカーなどの巨大なシステムに接続して、こちらの小さなコンピュータではできない処理を肩代わりしてもらう、という「クラウド」の仕組みも、発達した。

この2つの「劇的な改善」で、小さくて安いコンピュータでもかなりの処理ができるようになり、ある意味「より人間に近づき」、「特殊なものであれば、人間を凌ぐ」こともできるようになった。それが昨今の「人工知能」と言われるものだ。

簡単に言うと、コンピュータの歴史というのは「人間の代わりに考えてもらう機械を作る」わけで、そうなると、人工知能、というのはもともとからあるコンピュータのことを、そのまま言っているだけ、ということになる。

また、コンピュータに人間のようなデータを蓄積させ、人間のように振る舞わせるためには、その「脳」の動きを模倣するだけではなく、手の感触とか、目で見たものの様子とか、要するに人間が持っている「五感」の機能なども備わって、コンピュータにおまけでついていなければならないが、現在はあたかもそういう「教育」をせずに、コンピュータが勝手に人間の真似をする、というように誤解されているところがあるのではないだろうか?そして、その五感が人間のように完全に働くためには、人間のように時間とともに成長するとか、そういうことも必要になる。現在のコンピュータには人間のような「五感」は特別な場合しかつけることはないわけで、そうなると、なんでもかんでも人工知能、ってことはありえないことだ、ということがわかるだろう。

ぼくらは、そういう仕事の最先端であれこれと作ってきたのだが、ぼくの周辺の誰もが「人工知能ブーム」には、かなり違和感を持っていた。それはつまり、技術というのは魔法ではなくて、当たり前のことを組み合わせてできているものであって、それが時代とともに性能が上がったり、安く簡単に手に入るようになったり、というに過ぎない、ということを、みんな知っているからだ。

ITはかつてキーワードを見つけて、そのキーワードで新しいものを紡いでいく、という感じがあって、それはそれで面白いのだが、モノを実際に作る最先端の現場では、中身をよく知る人もいるので、「なんだそれ?もうやってたことなんだけどなぁ」みたいな感じになる。とは言うものの、技術者も研究者も食っていかなければならないので、こういったキーワードを前面に出してくれるマスコミは、まぁ、それなりに役に立つ存在ではありました。ところが時代が代わって、マスコミが笛を吹いても、振り向くのは、インターネットもSNSも知らないおじいちゃん、おばあちゃん、あるいは役人だけ、という時代になったんですよね。で、このキーワード、どうしたもんですかねぇ、みたいな感じがあるわけです。

そろそろ、時代も変わる。そういう感じがあるんだよね。要するに、「人工知能」なんてキーワードは、マスコミの吹いている笛の音だ、ってことが、みんなわかるようになったからね。この先も同じビジネスモデルでいけるのは、どのくらいか、と指折り数えて、次の新しいパラダイムを探しに行かなきゃいけないよなぁ、と、そういう感じが現場ではあるわけです。

現場からは以上です。

 


もしも相撲をする人工知能つきロボットができたら

最近はなにかと騒がしい「相撲」の界隈だが、もしも、相撲をする人工知能を積んだロボットどうしの試合があるとしたら、どうなんだろう?

そもそも、「戦う」とはなんなのか?「戦いに勝つ」とはなんなのか?「戦いに負ける」とはどういうことか。人工知能は、あの映画「ウォー・ゲーム」みたいに、戦うことそのものが無駄なこと、と、悟ってしまったら、どうするのか?

それでも人間に戦いをけしかけられたら、おそらく、相撲ロボットどうしで通信をして「今回はあなたが勝ったことにしてくれ」なんて、裏で談合した「ショー」をぼくらは見ることになるのかもしれない(え?人間がやっても同じだろう?って?それは言わないお約束でしょ)。

そうなると、ファインプレー以外は見られない完璧な野球とか、持ち回りで価値が決まるプロレスとか、そういうものをぼくらは見させられるわけで、それが面白いものになるとはまるで思えない。「不確実なこと」があるからこそ、こういう「対戦もの」は面白いのであって、そういう要素がなくなれば、勝つのが最初からどこになるかわかっているドンパチのアニメと変わらない。

相撲に限らないが、要するに人間という不完全なものがあるからこそ、こういう「興行」は成り立っているのであって、不完全な人間という存在が排除されたら、その場で「戦い」の意味そのものがなくなっていくだろう。要するにそんなことだったのさ、というように、ね。そして、こういうものは面白くもなんともなくなっていくんででしょうね。

人間。この不完全な面白きもの。

 


人工知能は今いる人間のようにしか育たない

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

人工知能は「人間が作ったもの」である以上「人間の子供」と言っていいだろう。であれば、人間以上にはならない、とも言える。「子供は親の期待通りには育たない。親のように育つ」という。人工知能に期待する限界は人間の限界そのものだ。

ところが、芸術というのは「人間の限界」を広げる試みのことである。音楽でいえばサティからラベル、さらにはイーノや一柳慧に至るようなものだ。発表当時は「これは音楽ではない」などと言われたものが、時代の流れとともに「音楽」と認められ、音楽というフィールドを広げた。人間にとって「芸術」というのは、「人間の領域を広げる」ものでなければならない、という面がどうしてもある。絵画であれば、印象派が出たときもさんざん言われたのだ。「あれは絵画ではない」などとも言われた。

だから、人工知能に「印象派風の絵を描いて」といって、それっぽい絵が出て来るのは「芸術の領域」ではなく「模倣」である。「心地よいデザイン」は商売ではあっても、芸術ではない。それは「商業デサイン」である。

とは言うものの、芸術家といえど人間であり「食っていく」ことは必要不可欠だ。モノも食べればクソもする。仙人ではないから、お金も必要だ。だから、芸術家も、今は「商業デザイン」で食っていくことはしなくてはならない。しかし、それは「芸術」ではない。

将棋とかチェスなどは、限られた環境の中で、いかに世間の人たちに良いと言われる方向に向かうか、ということであって、これは「芸術」の領域ではなく「商業」の領域である。

本当の芸術家は「これまでにないこと」に興味を持ち、「これまでにないこと」を仕事にする。当然、それは発表したその場では「認められる」ことはないから、商業的成功とは無縁である。人間の活動領域を広げる役目を持って生まれた人間が「芸術家」である。

結果として、人工知能は芸術はできない。芸術家の代わりになるわけではない。しかし、現代の多くの人たちに必要なのは本来の意味での「芸術」ではなく、「芸術っぽい商業デザイン」であるから、それはそれでいいのかもしれない。

 



人工知能とマスコミの関係と実際の開発者の話

基本的なこととして「人工知能」とぼくらが呼んでいるもののイメージはマスコミが「こんなもの」というイメージがほとんどなんですよね。でも、報道するマスコミの人たちの勘違いは2つあって、1つは「自分が面白いと思ったものが世の中に広まっていく」という勘違い。2つ目は「自分たちは世の中のものはなんでも理解できる」という勘違い。最初の勘違いは今日、ネットというものができて、かなり崩れたね。だから、結果として嘘になっちゃった。後者は、まぁ、役人にもよくある勘違いではあるんだが、人間である以上、ルネッサンス的な人間はそうそういませんよね。

コンピュータもインターネットも目の前にあるけど、それがどういうものか、という全体像もdetailも、それを実際に触って開発している人にしかわからない。でも、マスコミ人ってのは「わかる」と思い込んで報道する。実際に触って動かすぼくらは「マスコミってバカじゃねぇの」って言いながら、「はぁ、そういうものでございますねぇ」と、表を繕って接するだけなんだな。本当のことは教えないですよ。多くの人は、ぼくほど意地悪ではなくて、意識もしていないんだけどね。

AIと呼ばれている現在のテクノロジーは、これまであったテクノロジーの集積と統合だから、その統合の思想や哲学が理解されていないと、全くわからない。実際にやっている人間は「面白いねぇ」と言ってやっているだけで、興味がほかのことに移れば、違うことを始める。未来永劫「AIの専門家」ってわけじゃない。「面白いねぇ」と言うのは、「世の中を変えていく種がここにある」っていうおもしろさもあるんだけど、それはマスコミには教えていないですよ。結果=Effectだけ、ポロっと見せる。「どうしてそうなるか」なんてマスコミの人に解説してもわからないからね。言わないですよ。

今は「AI」というキーワードがブームなだけであって、本当のAIなんてのは数十年前から研究しているわけですな。そして「機械が人間のように振る舞う」のは、なにが楽しくてそうしているかというと、楽しいからだね。それ以外じゃないですよ。なにかの役に立つからやってる、ってわけじゃないよ。

この人口過剰と言われているこの人間社会にさ、もっと人間増やしてどうすんのかね?それ、役に立つの?混乱がひどくなるだけなんじゃないんか?人間の経験によるディープラーニングだって、要するに「人間と同じ経験」しないと、人間らしくならんわな。でも、人間の経験というのはアタマだけじゃなくて「成長」「五感」「愛情」みたいなものもあるわけでしょ。赤ちゃんのときの母親の肌の感触とかもあるわけでね。それらを人間のように感じて生きるには人間と同じ大きさの人間と同じ、人間と同じ五感と四肢を持って、成長もすれば老化もするし、死ぬときは死ぬようなものを作らないと、人間らしくならんわな。そういうものが積み重なって「忖度」できちゃうわけだしね。つまり、人間で言えば、脳だけが発達する、ってことはありえないわけですね。反対側から見れば「人工知能に、どういう方法で、どういう経験をさせるか(データをインプットするか)」が、ディープラーニングでもかなり重要なことになってくるわけですな。なにせ説明原理がないものを経験で扱うわけだからね。となると、人間そのものを作らないといけないから、「人工知能」ではなくて「人工人間」を作らないと、ことは解決しないわけですよ。そうなると、ITじゃなくて、バイオのほうに重点が移る。人工生命から人工人間まで、一気にいかないといかんのですわ。で、ここまで増えて困ってんのに、なんでまたややこしい「人間もどき」を、人間自身が作らなあかんのか?ってことですな。

それはねぇ、研究の目的を「人間自身」にとって、人工の人間をつくるその過程で、人間自身とはどんなものか?ということがわかってくる。至って文系的な「われを知る」ことにそれがつながるから、楽しくて理解もしたい、となるわけですな。つまり、人間自身を作ることを目指せば、その過程で、人間やその社会自身の理解が進んで、楽しくなるべな、という、そういうことですよ。

 


IoTは25年前。人工知能も歴史は古い。

ぼくはITという言葉ができる前からこの方面の仕事をさんざんやってきたのだが、25年前には、今はIoTと呼ばれるものもあったし、ビッグデータも人工知能もほとんどそのままあった。特にIoTは、この名前がなかっただけで、実際にはぼくらはハードウエア、ソフトウエアを組み合わせて、様々な機器を作ってきた。それは当時お金が潤沢にあった、東証一部上場企業だけがお客様だったわけだが、今はそれが個人などでもできるくらい安くなった、というのが本当のところだ。

ぼくがある上場企業の工場に行くと、広大な工場の構内を縱橫に動くロボットたちがいて、それが資材や工具を運んでいた。そして、ぼくら見学者がその前を通り過ぎようとすると、さっと停止して、ぼくらが通り過ぎて安全なところに行くまで、じっと待っていた。この程度のことは25年前にやっていたのだ。

また日立が中心になって開発した大型コンピュータの本格的オンラインシステムは、JRの「緑の窓口」があるが、これは1965年からで、もっと前だ。ぼくらは緑の窓口があるために、昨今問題になっている飛行機のオーバーブッキングなどのトラブルもJRではほとんど聞かない。これは私が関わったわけではないが、かなりのお金を使って、本格的なオンラインのデータベースシステムをきっちり作って稼働させた、という意味において、コンピュータという世界の幅を大きく広げたもの、と解釈しても良いだろう。

25年前は日本も景気がよく、製造業は潤沢なお金を持っていた。ぼくらはコンピュータを使った工場のシステムなどをさんざん作って納入したが、その後、日本は景気が悪くなって、それらの工場はほとんど海外に逃げていった。今でも戻って来ない。そして、その当時はぼくらがやっていたようなハードウエアとソフトウエアを組み合わせた、今で言うところの「IoTシステム」なんかは、当たり前に同業者がいた。そんなに多くはなかったが、それでも当時日本ではぼくらがやっていたような開発の仕事をしていた会社は、数十はあっただろう。

今から思えば、開発もすごく楽しい、良い時代だったとは思う。現在のIoTシステムと全く同じだが、現代と違うのはかかるお金が違う、ということだ。今時であれば数千円で買えるRaspberry-Piみたいなコンピュータはもっと柄が大きく、数百万円から数千万円したし、当然、電気も食った。インターネットがなかった時代の国際データ通信回線は、速度も数百kbpsのもので、毎月数百万円した。そういうお金のかかるシステムを作って維持費を払ってさえ、当時の工場は儲かっていた、とも言える。そういう時代だったのだ、としかいいようがない。

だから、ぼくらが今どきIoTに関する座談会、とかそういうのを見ると「なんだ、まだこの程度かい」とか思っちゃうことも多いのだ。使えるお金の量が違うとはいえ、今ならもっと安いもので、もっとできることあるんじゃないの?なんでやらないの?という気にもなることもある。時代が変わり、世界的な不況のこの時期、安価なコンピュータなどは当たり前になった。国際通信回線もインターネットを通せば個人だって通信が可能なのは当たり前になった。

今どきのIoTとか人工知能に関する座談会とかをWebなどで読むと、「まだそこ?」みたいな不足感がどうしてもある。これは仕方無いなぁ、と思いつつ、できることから初めていこう、という感じかな?