音楽とかのこと。

普段はあまり書かないんだが、自分のことを書く。まずは音楽中心に。自分のメモとして書いてみた。

高校生の時は吉田拓郎とかが全盛で、ぼくもフォークソングクラブに入った。顧問の数学の先生が、先生をしつつプロのブルーグラスのバンジョー弾きであったため、ブルーグラスにハマる。歌集の日本語訳などで英語を勉強し歌で発音を覚えた。そうしているうちに音楽の嗜好は様々なジャンルに飛び、聴く方じゃクラシックから邦楽まで何でもかんでもだったし、スピード感のあるシカゴやB.S.T.などのブラスロックはよく聴いた。

やはりポップス系は多く、フォークギターを弾き、ピアノも自宅にあって、まぁよく音楽の勉強はした。楽典もこのあたりで勉強した。和声学も勉強した覚えがある。しかし高校生の時って、自分で作詞作曲していたし、下手なアレンジもした。気がつけば友人たちとミュージカル作っていた。これを学園祭のときに杉並公会堂でやったんだから、今から考えると「無謀」という一言。若かったなぁ。

その時は裏方のPAまで一緒にやっていて、どうやって両立していたか、未だに自分でもナゾ。やっぱポップスは多かったね。クラシックもよく聴いた。大学あたりでシンセサイザーを自作して自分で多重録音して楽曲を作った。このあたりで基本的にキーボードになったなぁ。

で、社会人になって最初に就職したのがオーディオメーカー。でもさ、小さなメーカーの技術者ですよ。出身大学は三流だしね。どうしようか、これからの人生、って思ったよ。いや、本当に。気がつけば、ピアノの即興演奏にハマり、深町純さんと知り合う。深町さんは高校生の頃のFMラジオで自分の番組を持っていた。ある日AERAを読んだら深町さんが出ていて、洗足学園シンセサイザー科初代学科長だったのが麻薬で挙げられ、3か月に一回、ライブを六本木ピットインで、寂しくも派手にやっているというので、行った。

コンピュータ音楽をずいぶんやっていた深町さんは、ぼくのC言語の本を読んでいてくれた、ということで親しくしてくれた。で、深町さんっはその後くらいから、フュージョンから即興演奏に興味が移った。ぼくも深町さんの真似事みたいに即興演奏が楽しくて仕方ない。で、今に至るので、まぁ音楽はこんな感じで楽しんできた。だから、ぼくの音楽は他のひとのものとはかなり違う。深町さんはその後、ライブを恵比寿のアートカフェ1107というところでやるようになって、ぼくもそこのオーナーの鈴木さんといろいろ話をするようになった。鈴木さんは、森昌子さんを作った人だったから、彼女がプロダクションをやめたときのホームページを作らせてもらったりした。

その頃、台湾の人たちと会うことがあって、台湾新聞の日本語版をやっていて、取材、記事書き、写真、ビデオ、編集、などなんでもやった。今でも関わっているけどね。

とか、音楽大好きでITもやっていたんだが、大学生の時のアルバイトは出版社で編集。文章を書くことを叩き込まれた。大学では、半導体の研究室だったけど、電気回路の勉強をして、その後コンピュータの勉強をして、どれもこれも楽しかった。大学を出てしばらくした頃、コンピュータ言語の本を書かないか?ってことを言われて、C言語の本を書いた。けっきょく10年くらいのあいだに100万部くらい売れた。その後、ぼくはコンピュータ関係の本を20冊以上くらい書いた。

で、コンピュータの仕事をしているときに、産総研(経産省)のバイオの研究所に行かないかというので行った。バイオは素人だったから、いろいろ必死に勉強した。気がつけば、勉強ばかりしていた。しかも一流の人たちに囲まれて。だから、自分は他人から見て、つかみどころがないんだよね。ルネッサンス的、っていう感じかも知れない。よく言えば。ただし、どれもこれも楽しくてしょうがなかった。国立の一流の大学を出たわけじゃないし、未だに博士も修士も持ってないけどね。まさか、東大の研究所の研究員をやり、産総研の研究員をやり、韓国の大学の教授やるとは、人生ってわからない。しかも高校生の時に赤点取って親に大目玉食らった英語で教えたという。自分でも信じられん。あ、会社も経営したんだった。しかもカリフォルニアとか韓国の支社も持った。韓国の友人はここでできていて、今でも大変に世話になっている。気がつけば波乱万丈と言ってもいいかも知れないけど、自分ではそういう自覚はない。好きなことをやってきた。楽しい。それだけだったんだな。

で、今に至る。な、わけですよ。まぁ、こんな人もいる、ってことで。

 


【再掲】天才の人生

 

深町純は2010年の11月22日に亡くなった。でも、深町さんが亡くなった直後、深町さんの奥様とお話をしたら、奥様も「なんだか、死んだっていう感じがいまひとつしない」と言っていた。

深町純さんは音楽が好きだったのではなく、音楽そのものだった。彼には音楽の道があり、音楽の神が宿っていた。彼がショパンを弾いたとき、ショパンが彼にピアノを弾かせたのだという。彼がショパンを弾いた鎌倉の教会で、彼はある曲を弾いたあとに、深々と頭を下げた。普段、彼はそんなことをしない。でも、そのときは珍しく頭を下げた。それは、観客に対してではなく、神として彼に宿り、彼に曲を弾かせたショパンその人に対して、だった。と、彼を知る誰もが思った。おそらく、それは間違いなかろう。

他のプロの演奏家がショパンを弾くと、「ひいひい言いながらショパンの後をよちよちとついていっている」という感じがどうしてもする。でも深町さんの場合は「ショパンと一体になって、ショパンが彼にピアノを弾かせている」と思う。

最初の話に戻る。ショパンが死んでもなお、今の私たち、あるいは演奏家たちの中に生きているのと同じように、深町純はその肉体が滅んでも、なぜかいま目の前にいて、音楽という大きな人間の文化の歴史の流れの一部として、彼がその真ん中を、この時代の文化のリレーの「選手」の一人として、大きな役目を背負って、生まれて、そして死んだのだ、と思える。だから、彼自身にとっても、自分の肉体はどうでもよかった。

深町純は、「音楽」が人間の姿をして、現代に現れた、という「現象」だったのかも知れない。だから、彼が死んでも、なぜかそこに生身の人間の匂いがしないし、それが彼の「生」であり「死」であったのだろうと思う。そしてそれはおそらく、人間としてこの世に生まれ、ごくごく限られた、連綿と続く人間と音楽の歴史に選ばれた人だけが辿ることができる人生だったのだろう。

彼が死んで、悲しい、と思う。大きななにかがなくなった、と思う。でも、それは悲しいことでは、なぜか無い、という面もどうしてもある。

「天才」とは、そういうものなのだろう。

天才を友人に持ち、天才とともに生きられた時間を持ったというだけで、ぼくもなぜか自分をちょっとだけ誇らしく思っている。

The man has a dream , that walking with the giant. — from the Movie : ‘Mary Poppins’ . by Walt Disney.

※お断り: ビデオでは深町さんの命日を彼の本当の命日の翌日23日としています。これは、深町さんの友人であった僕たちが訃報を受け取った日です。この日まで、僕達の中には彼は生きていたのです。明日、またどこかであって、深町純と音楽談義ができる、と思っていた気持ちが打ち砕かれた日です。そして、これをそのままにしているのは何故かというと、できるだけながいあいだ、彼にこの世にいて欲しかったから、という気持ちを込めたから、そのままにしています。そう、1日でも。

※ 来月は深町さんが亡くなって4年めになります。
おまけ: