「報道」はどう変わるだろう?

ぼくは「報道写真」をやっていたことがあったのだが、報道写真では、ブレていようがボケていようが、とにかく世の中に出すスピードが報道の価値を決める。そういう視点で言うと、スマホのカメラの有用性は言うまでもない。当然、インターネットやSNSなどがベースにあってのことだ。撮影したその場でアップして公開。そうなると、どこの報道機関でも、そのスピードにはかなわない。写真を吟味するヒマも、写真を公開するかどうか問い合わせるヒマもない。数秒で終わりだ。

報道では、細かい解説を必要とするようなものは以外と少ない。たとえば「XX大学のXX先生のXXの会場での写真」だけで、その写真を見る人には、情報として十分なのだ。なぜ、その人がそこにいて、業績はなんで。。。それは、その報道を見た人が、必要であれば、ネットで一瞬にして調べられるから、まぁ、どうでもいい、という範疇の情報になる。なにせ、報道の情報を読む人は、その先生の関係者であることは少ない。忙しいのだから、ちょっとわかればいいのだ。であれば、報道は「写真(ビジュアル)」「スピード」が全てである。リアルタイムでなければ、報道の意味は100%とは言わないまでも90%以上はない。マスの情報の消費とは、要するにそういうものである。送り出し側がいくら丁寧に作ったところで、読む側は一瞬しか読まず、評価もそれなり。であれば、送り出し側でコストを掛ける必要も、本当はない。ただし、世の中の経済が豊かであった時代には、そういう「無駄」も許された、というだけのことだ。

今や、BBCなどの大手メディアでも、現場の記者はスマホで画像をアップしスマホで記事を書き、それで終わり、という時代だ。報道である以上、それで十分なのだ。また、「報道機関」の意味もなくなってきた。SNSでアップすれば、会員は当たり前に、それ以外の人もすぐにその情報にリーチできる。解説の記事部分を必要としている人も非常に少ない。必要なのは、目の前で起きていることがその場で多くの人に伝わることだ。

そこで、私が普段やっている「報道」でも、iPhone7plusだけで写真を撮り、すぐにFacebookにアップする、という方法に切り替えた。前は一眼のデジカメを持ってきていたのだが、もう意味はなくなった、とぼくは判断した。デジタル技術は報道を劇的に変えた。今まだ変わっていないところでも、すぐに変わっていくだろう。この流れについていくことができなければ、報道写真はもうできない。報道という事業が権威を持った時代も終わった。

いま、ぼくがデジカメを持って写真を撮るのは、自分の「芸術」をするためであって、それ以外ではない。「報道」であれば、迷わずスマホカメラで行く。いや、自分のでなくてもいい。そこにいる誰かのほうが、スマホを構えて写真を撮るスピードが速い、ってことだってあるだろう。

そして、「初報」こそが報道の命であって、後続の解説は、90%読まれない。意味がほとんどなくなった。新聞でも、よほど暇な人でなれば、ほとんどの記事はキャプションを読んで、写真を見て終わりだろう。興味がありそうなものだけ、記事の中身を読む。私たちが見るレガシーメディアの報道というのは、読む側にとっては、多くの無駄を提供されている、と言っていい。「私は鉄道に興味があるから鉄道の報道だけを読みたい」「鉄道というと経済も関係あるから、経済の記事も読みたい」「それ以外のものは必要ない」。それがユーザーのニーズだ。そこから「必要ないものにはおカネを払わない」まではたった一歩の距離しかないのが、現代の「デジタル双方向」の時代だ。

新時代の「報道」とは、つまり、そういうものではないか?であれば、報道とは「マスメディア」がなくなり中小の「専門メディア」だけがあって、それを読む側がチョイスする、というやり方でないと、やがて採算があわなくなってくるだろう。

既に子どもたちは、テレビを見ずにYouTubeで好きなものだけを見る時代だ。目の前に「報道」という事業が変わる、次の時代の扉がかすかに開きはじめているのだろう。

 


IoTと報道

IoTについては、いろいろと新しいお話があって、ご相談も受けているのだが、元気のいいのは日本国内ではなく、外国がらみ、というものがかなり多い。加えて、「外国」といっても、アジア関係がやはり多いのは、このご時勢では当たり前だ。アジアでは日本が一番、という時代ではなくなった。

私が新聞を作っていた時代には、弱小零細新聞であったために、とにかくできるだけ速い報道を心がけた。大手の報道機関では組織ががっちりしすぎていて、外に出す情報はさまざまな社内の人の手を通るのでとにかく遅く、その遅さが読者の不満をもたらしている、と考えたからだ。なにも重大な事件ではなくとも「昨日あった有意義なセミナーの記事がなぜ今日出ないのか?」という疑問は前からあった。大きな報道機関であれば、組織的な問題で報道の遅延が発生し、小さな報道機関では人がいなくて手が回らないため、遅延が発生する。やはり不正確な情報はちゃんと裏取りをして、正確な情報にする必要があるのは言うまでもない。

しかし、ICTのこの時代、私はその報道機関のBLOGを活用した。まず、現場の取材にはビデオとカメラの両方を持っていき、PCも持っていった(三脚も含め、機材の重量は8kgくらいになった – これでも十分に軽いはずだ)。そのファクトが始まりそうだ、という時点を狙って取材に行くところまでは今までの報道機関とは変わらない。現場で取材しつつ、メモを取るのではなく、直接PCでオンランでBLOGに原稿を書く。速報性のあるものはとにかく短く、数行でもいい。「早く表に出すこと」が、他の報道機関とは一線を画したものにしたかったからだ。

「スピード」「正確さ」。この2つを自分の報道の大きな目標に掲げ、現場で、ときにはそのファクトが終わる寸前に写真を含めたニュースをBLOGに上げた。ビジュアルは大事である。どんなヘボ写真でも1枚あるとないとでは大きな違いだ。当然だが、どこよりも速い報道になる。これが多くの他の報道機関にも注目されたこともあった。まぁ、一番速いから、パクられたこともあったけれども。後で問題がある記述が見つかったら、躊躇なく修正する。修正が大幅な場合や重大な事項の場合は必ず「お詫び」を入れておく。これもまた、報道の重要な記録になるだけでなく、それ自信が報道の正確さを担保する。そして、それ自信が報道である。

また、BLOG記事の「誤り」はなぜそれが起きたかを、後でもいいのでちゃんと追求しておく。それもまた記事になる。コラムでもいい。

そこでは毎月1回、紙の紙面を作るのだが、BLOGで上げた記事を集積していた。それは「毎月のダイジェスト」みたいな感じになった。結果として、BLOGの速報がデイリーならぬ「Hourly」の詳報になり、紙の紙面はその月刊ダイジェストのようになった。主従が逆転したのを感じた。

やがて、リアルタイムのツイキャスやリアルタイムのライブビデオストリーミングの時代が来たし、アマチュアでも「生のデータなら」それを報道できる時代になった。時代が変わった。しかし、「スピード」だけでなく「正確さ」「取材」「論点の整理」。そのノウハウは明らかにアマチュアのこれらのものでは「現場の雰囲気を伝える」のみにとどまる。ここに報道のみならず教養の差が出る。基礎を知る第三者の目が明確にあって、はじめて「まともな報道」になるのではないか?と私は考えた。しかも、現代は「速く」つたえなければ意味がない。

IoTの技術は、現場の温度や湿度、天気や放射線の量、記者の血圧や脈拍、そういったものを逐一遠隔地から伝える。現場の緊迫感はそういうもので取ることができる。デスクで知りたい現場の様子は、原稿を現場で書きながらでも、スマホで本社とやりとりができる。徹底的なハイテク武装での報道は「速さ」と「正確さ」のためにあるものだ、と言うのが、そのときの私の結論だった。報道は人間から人間に発せられるメッセージの1つである。である以上、現場に居る記者の健康状態も重要な情報になる。IoTでの報道は新しいコミュニケーションの可能性を持っている。

2008年から2011年。ぼくはそんな報道の現場にいた。今もまだ、その「大目標」は生きているだろう。

 


「報道」の意味が変わった

ea101687最近は目の前でなにかあると、みんなスマートフォンのカメラを向け、SNSにその場で投稿する。当然のことながら、報道機関はその映像を規制することはできないし、その映像をSNSで多くの人が見る、そのスピードには報道機関は追いつくことは構造上ない。「スクープ映像」は報道機関の独占物ではなくなった。しかも、それを世の中のあらゆる人たちに届ける「メディア(媒体)」も、報道機関という会社組織などの独占物でもなくなった。さらに加えて、その伝達のスピードは究極にまで高まった。「速報」ということでは、既に世界的に報道機関が生きていける場所はかなり狭くなった。そろそろ、既成の報道機関は「速報」から手を引き始めている。

既成の報道機関はXXの専門家、というネットワークを多く持っている。しかし、その専門家もSNSで自分の意見を投稿する時代である。意見はなんの編集も経ずに隠すこともなにもなく、そのまま世の中に出ていく。無名の人のコメントであっても、その中身にインパクトがあり、ちゃんとしていれば、それが広がっていく。「識者のネットワーク」は価値を減らした。

既成の報道機関であっても、最近は「間違い」が目立つ。それをSNSなどの公の場で指摘されることもある。そうなると、報道の信頼性が失われる。

これから生き残る報道機関とは、これらの、これまであった「権威」が無いところで、これまで報道機関でしかできなかったことをする報道機関である。それを日夜脳漿を絞って考え、試行錯誤することが必要であり、それを実際にする報道機関が生き残るだろう。報道機関を会社組織などのかたちで採算を考えて継続させていくためには、失ったものと、自分たちのちからで得る他にはないものを、しっかりと把握し、その特徴をいかにお金にしていくか、ということを考えなければならないだろう。

インターネットが世界の報道のすべてを変えている。ぼくもまた、この流れを作った一人として、今の世の中をどちらかと言えば楽しんでいる。変化は楽しい。

 


報道というのは「エンターティンメント」であって「現実を知らせている」とは限らない。

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熊本の地震の報道だが「大変です」という報道は「儲かる報道」だから「これでもか」というくらいされる。しかし、「大丈夫です」という報道はお金にならないからされない。だから報道だけでこの地震を見ている私たちは「熊本全域が大変なことになっている」という理解をすることになる。
実際は、ビデオなどで写される事故現場の周辺では、普通に自動車や人が行き交っているのが見える。つまり、「激甚な現場」そのものは地域的にも数的にも、全体から見るとあまり多いものではない。お金にならない映像は流されないだけだ。
 
もちろん、地震前よりははるかに「行きにくい地域」になったことは確かだが、全域がそうなっているわけではない。
 
同じことは、大地震の数日後に訪れたサンフランシスコで経験した。route 880の高速道路のサンドイッチ事故、落ちたベイブリッジ、なかなか鎮火しないマリーナ地区、などなど激甚な被害があったところはたしかにあったのだが、街のほとんどは問題なかった。マスコミは商売だから、お金になるところだけ映像として流す。だから「大丈夫です」「無事です」という報道はほとんどされない。それはいつもと変わらないことだから、お金にならないからだ。結果として報道を見ているだけの私達は「サンフランシスコ全部がだめになった」という認識をする。しかし、その認識は間違っている。
 
私達が本当に欲しい情報は「現地の親族は無事か?」「現地に行って大丈夫なのか?」「現地全体のどのくらいがだめで、どのくらいが大丈夫なのか?」ということだ。しかし、その「本当に知りたいこと」はマスコミは流さない。お金になる「絵」だけがマスコミの報道することだ。つまり「災害報道」とはそういった「エンターティンメント」である、というだけだ。ぼくらはテレビの中の映像としてまるで映画を見るみたいにその映像を「泣いたり、憤ったりして楽しんでいる」のである。繰り返すと、それは「エンターティンメント」である。
 
エンターティンメントである以上報道とは「報道されている内容が楽しめるものであるかどうか?」が一番の価値になる。「正確に現地の様子を伝えているか?」は二の次である。
 
しょせん、マスコミとは商売でやっているものだから、そういった程度のものである。「報道という名前のエンターティンメント」を僕らは見ているだけだ。
 
報道というものの本質は「正しいことを主張する」ことではない。「遠隔地にある変わったこと」を社会全体に知らせ、社会全体の動きにそれを反映させることだ。そして、その動きのあるところに「お金」すなわち「価値」が生じる。報道とはビジネスであって、ビジネスである以上、そういうものだ。報道というものに「良心」というものがもしあるとすれば、そういう自分たちの姿も一緒に画面に映し出すことによって、「本当の現実」を知らせることが必要になる。その自覚なくして「まともな報道」などできないだろう。