巨大災害時にはインターネットは使えない

最近、有るハッカソンで「災害時の安否通報システム」が賞をとった。そのシステムの基幹には、なんとインターネットの接続が使われている。インターネットの接続は、私達が3.11で経験したように、巨大災害では全く止まってしまうし、携帯網も実用には耐えないくらい遅くなって、要するに使えないのと同じである。災害時には、インフラの破壊が当たり前に起こる。しかし、そのハッカソンではインターネット網をベースにしたシステムで災害情報を流そう、というシステムが賞を取る。

なんというか、平常時に災害時のことを想像できない、というのは、一言で言って想像力の欠如であって、その程度の想像力で災害時を考えよう、というのがだいたいおかしい、というのは誰でも気がつくことだろう。

その昔、某社の「成功例」としてよく語られていた全国の雨量を集中して監視できるシステムを作った方にお会いしたことがあった。公衆の電話網を使うため、通信費が安く済んでシステムの開発費も維持費も安くできた、というのが、そのシステムの大きな評価されたポイントだった。その開発をした方とお話をしていると「実は、肝心なときに動かなかった」という話をお聞きした。聞けば、集中豪雨などのとき、そこには電話が集中するので、電話網が混んで使えないため、肝心の雨量のデータが取れなかった、というのだ。つまり、一番データが欲しいところからデータが取れなかった。これは致命的な話だ。

今考えれば、なんとも間抜けな話、ということになるが、「平常時」に「非常時」を想像できない、というのは普通のことなのだろう。しかし、だからといって、非常時に使えない非常システムにお金を浪費する、というのは、やはり無駄以外の何者でもない。

非常時の想像力は、単なる想像力からではなく、経験からしか生まれない。経験が無い人間には、あるいは経験してもそれを身に着けられない人間には、いくら話をしても無駄なのだ、というのが、私の経験だ。

 


日本の「危機」の姿

この数年で日本人の価値観や働き方は急激に変わって来た。非正規労働の常態化、製造業の没落、一流と言われる大企業の存亡の危機の到来、日本が最高に良かった時代を知る人たちの高齢化、世界の中での日本という地域の立ち位置の変化。この変化は20年ほど前から始まっていたのだが、恵まれていたがゆえに気がつかなかった多くの大人は要するに頭が悪く、訓練もされていなかったため、この変化を受け止め新しい時代を築くことができなかった。

思い返してみればこの変化に気がつく人は少なく、この変化に対応できる頭の良い人はさらに少なかった。大多数は結局変化をなかったことにして見ることをやめた。その結果の衰退は当たり前といえば当たり前の結果である。かつてのローマ帝国もこうやって滅んでいったのだろう。地域やその政府やその地域にある人間の組織は病に侵されたように内部から腐っていくが、誰もその腐敗に立ち向かうことができず滅びの道をひた走る。自らの身を守ることばかりで自らの身を切って全体に奉仕して命をかけるノーブル・オブリージェが美徳である社会は地上からなくなった。日本もその一つらしい。それを知る老人の寿命もそろそろ尽きるだろう。

小さなことかもしれないが、道端にあるゴミを拾う。こんなことの積み重ねがほんとうは必要なのだ。そのゴミがあることで誰が不快になり、誰が困るのか?自分がその「困る人」だったら、どうしたらいいのか?そういう想像力がなぜ働かなくなったのか?

自らと自らの属する人間の社会の変化は常にある。その変化を感じ取ることの大切さを結局は誰も教えようとしない。人間社会とは他人への想像力を基盤に作られている。その想像力が働かないのだ。

これが本当に我々自身に訪れている危機そのものである。と、私は思っている。