いまだ、テクノロジーは教養にはなりにくい

私は、ITの世界を既に30年はやっている。ITという言葉ができる前からだ。技術者であり、研究者であり、技術に関連する書籍などの執筆者であり、人に教える立場であり、という、そういうことで。

しかし、ここ数年で多くの人がスマホを持つのが当たり前になってきて、ハイテク機器が当たり前のように身近になった。加えて、映画、写真、音楽、文章書き、などなど、あらゆる分野で「IT」が使われることが当たり前になった。以前は私は専門家だから、そういう世界の下支えをする役目だったのだが、いま、スマホやPCを使うのは「普通の人」にも当たり前になったかのように見える。

だから、よく勘違いされるのは「三田さんの知ってることを教えてもらえば、自分でもできる」と思う「素人」がすごく増えたってことです。その裏側にある大きなバックグラウンドが見えないのに。

ぼくは趣味で写真をやっていて、以前は仕事にもしていたんだけれども、よくあるのは、私が写真を撮っているそのすぐ後ろで、アマチュアと思われる人が真似をして写真を撮るんですよ。こちらにしてみれば「なんだこいつ、つきまとってきやがって」みたいな感じなんだが、本人はプロの仕事を真似して良い写真が撮れると思っているんだね。でも、そういうアマチュアの写真は、もう撮っているその場で「ダメ」なのがよくわかる。「なぜあの人と同じことを同じ場所でしているのに、自分には素晴らしい写真が撮れないんだ?」って、帰って思っていることだろう。

専門家の目的に向かった行動は、実は目に見えないそれまでに蓄積した多大な経験や知識に裏付けされているから、たとえ手とり足取り教えたとしても、アマチュアは決してプロにはなれない。プロになる「道」というものがあるのだ。

いま、私達の周りには、「ドローン」「自動運転車」「人工知能」「スマートスピーカー」「呼べば答えるスマートフォンのアプリ」など、様々なハイテク機器があるが、どれもこれも一朝一夕にできたものではないし、ソフトウエアやハードウエアの間違いもある。ぼくら専門家はそれがどこで問題を起こしそうか、それを作った人の気持ちまでわかるから、それらの問題を回避して使うことができるので、「これは危ないな」と思う使い方はしないし、そういうものに使うこともしない。専門家ならではの「知恵」が常に働いている。無意識にでも働いているのだ。だから、同じものを同じように使っても、素人とはかなり差が出る。これはしょうがないことだ。

だから、最近になって「テクノロジー」が「教養」と結びつくのは、非常に危険だと感じている。というのは、みんなの手にしているそのハイテク機器は動いているときは夢を実現するもの、と思えるだろうが、一度止まればただの文鎮である。文鎮で済めばまだいい。「夢の」自動運転車の事故などでは死者さえ出ている。そんなことになれば「テクノロジー」「教養」などという牧歌的なものはふっとんでしまう。その問題がいつ解消されるのか?などはわからない。

結局のところ、いくら高度なハイテク機器でも、作るのは人間である。であれば、間違いもあるし、不具合もある。それは「ちいさなこと」「将来は必ず解決されること」だとは限らない。小さいがどうしようもない致命的なものもある。「これから人工知能があちこちで使われるようになると。。。」などという議論を多く聞くが、人工知能には、根本的な問題がまだまだある。バグなどという小さなものではない。

飛行機・旅客機などは非常に複雑なシステムの上に成り立っており、機内、機外を問わず、それを飛ばすシステムがバランスよく、小さなトラブルなども回避しつつ動くことで、輸送サービスが滞りなく動いている。しかし、1994年、中華航空140便の名古屋空港での事故は、人間のシステムとコンピュータのシステムのConflictが生んだ悲劇だった。システムはシステム単独で動くわけではなく、暗黙知も含めた人間のシステムの中で、人間のために動くものだ。そして、それがときには人間のシステムとConflictし、こういう悲劇を生む。この問題を、あるとき、たまたま同席した日本の航空工学の権威と言われる先生に聞いたところ「人間系と機械系のConflictの問題はまだ専門でやっている人がいない」とのことだ。そう前の話ではない。

テスラやUberの事故などの話は多く耳に入ってくるが、結局のところ「自動運転車はまだまだ」というのが、現状での結論ではないだろうか?もしも、テクノロジーに教養、というものをくっつけるのであれば、そういうことから、きちんとしていかないと、やがて、人間社会は大きなクライシスを自らの中に抱え込んで行くことだろう。おそらく、現状は能天気に「テクノロジー&教養」などと言っている場合ではないのではないか。

むしろ、これから、「テクノロジー」が「教養」で語られるような、そういう時代を作っていかなければならない、というのが、私の命題の1つである。


 

「知性」「教養」とはなにか

米国はトランプ大統領の登場で「知性と教養ごっこ」が終わった。世界的にそういう時期になったんだろう。

たしか、弥生時代くらい昔に「ゲーム脳」ってのが流行って、そして今はその同じ方が「スマホ脳」て言ってるらしいから笑っちゃうんだけれども、若年層や若者の「コミュニケーション機器依存」というのは、ぼくが若い頃もあって、ぼくはアマチュア無線にハマっていて、そのために高校の英語で赤点取った覚えがある。その後、まさか韓国の大学教授になって、英語でものを教えていたわけだから、学校の英語なんていかにあてにならないかがわかる。

まぁ、それはともかく、2000年を超えると、若者が深夜のコンビニにたむろしている、などというのが話題になったこともあった。芥川龍之介は「なにか面白いことはないか?というのは不吉な言葉だ」と喝破している。若者が群れ集う。それは昔からあることで、その群れ集った若者は、大人の世界を壊していくこともある。

若年層は社会の中での役目がまだ定まっていないため、社会における自分の生きる位置がはっきりしていない。そのため、社会的な弱者というカテゴリーに入る。常に「強くならなければ生きて行けない」という切実な願望も強く、さらに社会参加というものへの渇望もある。未成年者の喫煙や飲酒なども、大人の世界への参加の願望がそうさせる、と言う説も昔からあった。であるから、若者は常に自分たちだけの集団を作って自己防衛をする志向が強い。

若年層にこういったことが昔からあるのは、こういった原理が人間の作る社会に存在しているからだ。その若年層の切実さに身を置ける大人はいない。自分の若い頃を思い出しても、違う経験しかないから、それが理解できないのだ。

最近の若者の無知や無教養を嘆く話は多いが、それは「知性や教養」といったものが、既に社会を構成している要ではなく、「かつて知性や教養を標榜していた人」がいても、実は大人の社会が「人のつながり」という目に見えないものでつながっていることを、若者が見抜いているからに過ぎない。「知性や教養」でかつて使われていた用語を隠語として、社会の中での自分の属している集団内のつながりを確認する作業に大人は忙しい。その大人を見て若い人間は無意識に思っている:「なんだ、知性や教養なんて、所詮は仲間を確認するだけのためのものだったのか」と。そして続ける。「おれたちはどうしてくれるんだ」と。