小松左京の時代といま

伊藤穰一が「BIとAI」ということをよく言っている、と聞いている。「Before Internet(インターネット以前)」「After Internet(インターネット以後)」という意味だが、純粋技術的に言うと「Before Digital(デジタル以前)」「After Digital(デジタル以後)」だろう、と、内側から見ている私は思う。実際、インターネットはデジタル技術がベースであり、アナログの時代=Before Digitalの時代には、デジタル技術は「パルス技術」と呼ばれており、私も大学生のときはその名前の教科が必修だったことを覚えている。

デジタルのデータ通信技術、デジタルのデータ蓄積技術、デジタルの高速化技術、デジタルデータのシリアル化などの技術(いや、これらの用語がわからない人はわからないでもいいんだが)、が、デジタル技術の進展に伴って、多くの可能性が出てきた。これらの技術の先には、デジタルデータを使った画像処理、画像表示、動画、音声などの現実世界とのインターフェイス技術が現実化してくる。そうなってはじめて、インターネットという「ネットワーク」という抽象的な概念を現実化できる段階になる。それまでは理論であったものを、実際の技術に落とし込み、現実の世界に適応させる。つまり、多くの技術評論家が話す「夢の未来」は、こういう過程をすっ飛ばして、「こんなことができます」と、見えるところ=表層を撫でて、何らかの解説をした気になっているに過ぎない。

既にデジタル技術の洗礼を受けていた私のような研究者&技術者にとっては「インターネット」は驚きでもなんでもなく「当たり前のこと」でしかなかった。しかし、その一般社会に見えるところのEffectは当然インパクトのあるものになるであろう、と予想できたし、実際、それがあったから、インターネットは面白い、と感じて、誰もがわからなかった時代にそれを扱ったのだ。実際のところ、インターネットの最初の頃は「そんなの当たり前だろ」くらいに考えていたぼくは、周辺の技術者よりも遅く、本格的にインターネットにかかわり「当たり前」の道を歩んだ。研究者&技術者として、社会的インパクトはそりゃ面白かったが、それ以上に面白いものがあった時代でもあったからだ。

それでも、ぼくがインターネットに本格的に関わったのは、世間一般よりも早かったと言っていいだろう。「ああ、そろそろやらないとね」と始めたのだ。だから、インターネットの出現に驚くことはなかったし、それのはるか以前から、インターネットは見ていたから、別に自分にとっては、特別なことでもなんでもなかった。当時、Microsoft社もインターネットには出遅れていたので、まぁ、同じ気分だったのだろう。

日本では「小松左京」が「日本沈没」で大ベストセラーを出したのは、1973年。まだデジタル技術も表には出ず、インターネットもなかった時代だ。Webが世の中に姿を表したのは(ブラウザができたのは)、1993年だから、それから20年たっていたわけだ。つまり、「日本沈没」はデジタル技術が一般的でなく、インターネットさえなかった時代の「空想科学小説」であったわけだ。

デジタルとアナログの技術は実は大変な違いがある。単に表層しかみえていない人にはわからないだろうが、それは技術の革命であり、技術の民主化であり、現代の技術の全ての始まりだった、と言ってもいいくらいだ。この革命のさなか、ぼくは日本にいて、日本の高度経済成長期の終わりの一番栄えた時期にこれらの技術に、自分の人生の一番活発な時代に肌で触れた。おそらく、私の時代以後の技術者や研究者がこういった本当の最先端に触れられる機会はもう日本には訪れないだろう。その時代の頂点が重なった「幸運」は、もう日本には訪れないと、ぼくは思う。それくらいの幸運だった、と、今になって思い出す。

そして思うのは、そういう幸運に恵まれた時代を過ごした自分の義務についてだ。

 


 

マーシャル・マクルーハンについて

ぼくがマーシャル・マクルーハンのことを知って興味を持ったのは、高校生のとき、図書室にあった竹村健一氏の本でだった。読めば「内容がメディアを規定するのではなく「メディアが内容を規定する」という、面白いことが書いてあった。今となっては当たり前のことだが、今の言葉で言うと「コンテンツがメディアを選ぶのではなく、メディアがコンテンツを選ぶ」ということだ。内容が外形を規定する、という従来の考え方ではなく「外形が内容を規定する」という考え方は当時は新鮮だった。しかし、あっという間にインターネットの時代になると、「メディア」は「インターネット」というインフラの上で多様化して現れてきており、テクノロジーの様相が随分変わった。

デジタル通信テクノロジーは、そのネットワーク・トポロジーを規定するだけで、その中を通るデータは気にしてない。そのデータが音声であろうが動画であろうが静止画であろうが文章であろうが何でも良いのだ。つまり、マクルーハン流に言えば「メディアがインターネットを選ぶのではなく、インターネットの上では何でも選べる」のだ。そうなると、マクルーハンの時代には「テレビ」というメディアが新しく、それがどう世の中を変えていくか、という議論だったが、今はインターネットがどう世の中を作っていくか、という議論になる。つまり、「時代の流れ、社会の変化」が、かつては(マクルーハンの時代には)「テレビ」というメディアに規定されていたのだが、今は時代とインターネットが渾然一体となって、新しい世の中を作っていく、というモデルに変わりつつある、ということだ。

つまり、インターネットは社会インフラとなり、「人間社会とはインターネットのあるところだ」ということになったのだ。

インターネットの出始めのときに「これは面白い!」と飛びついたのだが、それはテクノロジーではあるのだが、実はテクノロジーと言ってしまうと大きく間違えるところもある。それは「テクノロジーを支える思想」がまさに地上の人間社会に具体的に降臨したものなのだ。ぼくらはその最先端でインターネットそのものを作ってきた。やがてぼくらが作ったものの上に、みんなが社会生活を営みはじめた。ぼくの目から見ると、そんな感じだった。

そのとき、ぼくらは思ったものだ。「ぼくらはマクルーハンを超えた」と。

そして気がついたのは、実はインターネットは「テクノロジー」ではなく、思想であり哲学なんだな、ということ。だから、インフラ足り得たんだが、これを「テクノロジー」という言葉でくくると、大きな間違いを犯すことになる。でも、それはわからない人には永久にわからない。テクノロジーはそれを実現した手段にしか過ぎない。

それが「テレビの時代=アナログ技術の時代」と「インターネットの時代」の大きな違いなんだね。そもそも、なぜアナログではなく、デジタルなのか?この変化は必然的に起きたものだが、なぜそれが必然なのか?そのことを答えられないと、実はマクルーハンとそれより後の世代がどのように変わっているのかが見えない。そもそも、デジタル技術はなぜ生まれ、なぜ普及したのか?それを説明できないうちは、インターネットの本当の意味さえ咀嚼できないだろう。そういう人は時代の変化の表面だけを見ているから「テクノロジー」という言葉しか思い浮かばないし、まぁ、そういう人はそういう人で構わないとは思うんだが。

結論としては、いまどきのメディアは「Broadcast」のみ、ということはなく、インターネットがあることによって、「Broadcast」も「双方向」も「個別同士の通信」もみんなできる。しかも、文字テキスト、音声、静止画、動画、なんでも使える。それは従来からの概念の「メディア」ではない。インターネットはインターネットなのであり、それ以外ではない、という存在となったのだ。このことの理解に「テクノロジー」という言葉は似合わない。むしろ「Revolution」のほうが似合うだろう。

マクルーハンの「古き良きテクノロジーの時代」は終わった、とぼくは思う。

 


 

「カード型コンピュータ」の時代になるか?

インテル社のカード型コンピュータが発表されたのは、台湾の台北で行われているCOMPUTEX-TAIPEI2017の会場でのことだ。多くのメディアが取り上げているが、要は、高性能のPCの心臓部がカードの大きさに収まったもの、ということだ。オフィススートなどを使うデスクトップでのコンピューディングであれば、ノート型であろうが、デスクトップ型であろうが、これ一枚を挿して、コンピュータにする、ということになる。このカードには、CPU、メモリ、ストレージなどコンピュータの中心部分が入っているとのことだが、ストレージはおそらく、eMMCなどのフラッシュストレージなのだろう。であれば、簡単に言うと、タブレット型のPCのキーボード、マウス、ディスプレイの無いもの、ということになる。PCの外観は各PCメーカーが作る、ということになる。

自作PCの楽しみがまた減るわけだが、これを交換すると、CPUの性能が上がったりする、というのは重宝するだろう。ストレージは今よりも少ない容量になるとしたら、明らかに、この「カード」で作るのは「Chromebook」とか「Windows10S」のような、クラウドで動く「クラウドブック」になる可能性が高い。

さらに、このカードを使ってサーバーを作れば、小さなスペースに多くのサーバーを入れるのも現在以上に可能になる。自動車用のコンピュータも、コンピュータの中心部分はこれを使えば良い、ということになるだろう。ルーターなども、安価なものであれば、このカードで作る、という選択ももちろんあるだろう。

このインターフェイスはおそらくインテル社が標準とすることになるだろうから、業界規格も出てくるに違いない。そうなると、インターフェイスでコンピュータの中心部分と周辺が分けられるから、CPU側も、周辺側も、いろいろなバリエーションが出てくれば面白い。

大きさも小さく薄いから、スマートフォンにこれを挿せば、いつでも自分の環境を持ち歩き、電車の中ではスマートフォン、家で遊んでいるときはタブレット、仕事ではPC、と使い分け、でも中心になるコンピュータは1枚、という使い方もできるようになるんじゃないだろうか?

今後の課題は、消費電力とかストレージ、なによりも、価格などがどうなるかだが、量産ができるスペックのものは、全IC化をするわけで、かなり安くなる可能性がある。

この世界になると、家電量販店でPCの「外側」は、好きなデザインのものを選んで買ってきて、カードでコンピュータのスペックを決める、という感じになる。

と、ここまで書いて思ったのだが、ネット系のマスコミではけっこういろいろ取り上げられているものの、あまり大きな変化をこのデバイスが作れるのかどうか?ちょっと疑問になった。

 


「反グローバリズムの時代」になぜなったか

この記事では、世界に渦巻く「反グローバリズム」の流れと「正義とはなにか」という関係が書かれている。なぜアメリカ合衆国の建国の理想というものが捨てられたか?ということについて、内田先生が書かれている「記事」だ。

この記事にあるように、米国、欧州、日本を含むアジアなどの主要地域で、反グローバリズムが台頭してきたのは、内田先生によれば、「(グローバリズムの)理想は高邁なものだったが」「制度設計が間違っていた」という結論を導き出した。いかにも、文系の勉強をされたエリートの片隅にいる方のお話だな、と、私は思っている。

私が思っているのは、ちょっと違う。グローバリズムというのは地域の違いを平均化していく仕組みであって、物理で言うエントロピーの低い状態から高い状態への変化であった、と考える。つまり、人間にとってその変化は自然なものだ、と思う。これは物理として当たり前の動きである。

だから、現在の反グローバリズムへの流れは、その変化への人間の抗議の結果である、と、思う。

本来であれば国境をなくし、地域間の人やモノの流れをもっとスムーズにしていかないと、この変化に人間社会が対応できない。しかし人間の歴史としてその変化が人間の生理を超えて速すぎた。多くの人間は、この変化についていけなかったのではないか?というのが私の結論だ。

人間の生理を超えた非常に速い変化に対応できるエリートと、変化への対応ができない非エリートが、人間社会にはいる。そして、グローバリズムという理想が捨てられたのは、その過剰に速い変化への多くの「非エリートの人」の人間生理のなせる抗議であろう、と私は思う。だから、どこの国でも、「反グローバリズム」の流れを作っているのは「非エリート」であって、「置いてきぼりを食う人」なのだ。日本で言えば「B層の人たち」なのである。

そして、その「スピード」を作ったのは「インターネット」であった、と私は思う。20年ほど前、「インターネットとはなにか?」ということを私はあるところで聞かれたとき、こう答えた。

「インターネットとは、人間社会の変化が化学変化のようなものだとしたら、その変化の速度を速める触媒のようなものだと思ってください」

聞いた人はぽかんとしていたが、要するにそれが私の結論だった。

インターネットが「グローバリズム」の変化を速いものにしたし、それに抗する運動も速く世の中に浸透させた。人間社会の変化するスピードを速めたのだ。人間という種も、やがて他の地球上の種のように絶滅の危機がやってくるとすると、インターネットは人間社会のゴールまでの時間を短く圧縮したのかもしれない。

私は、内田先生の言う「理想は良かったが制度設計を間違えた」という立場は取らない。そうではなく、どちらも正しかったが、その変化が速すぎた、と言う結論を言うことにする。

皮肉なことに、グローバリズムのスピードを作ったインターネットは、反グローバリズムの流れも作るのが速かった。「反グローバリズムの旗手」、アメリカ合衆国のトランプ大統領がインターネットで支持を広げたのは、皮肉という他ない。

 



「フェイク」の時代

ツタヤが運営委託されている、公共図書館の書籍が「フェイク」であった、というニュースがあちこちで取り上げられている。しかも、その「読めない本」は、書棚の飾りとして、税金で購入したということで、多くの批判が集まっている。

また、最近は、北朝鮮の核兵器の日本本土攻撃の話などは一部では「フェイクだ」と言われていたり、あるいは、それ以外にも「フェイクのニュース」というのがあちこちである、ということが指摘されており、インターネットはほとんどこの話題ばかりだ。

ちょっと前には、米国の新大統領になったトランプ氏が「フェイクのニュースばかり」と、既存のマスコミを批判した。

いずれにしても、今年の流行語には「フェイク」ってのは、少なからず入るんじゃないか、というくらいの勢いである。

一方で、政治家が不倫したとか、あるいは政治家周辺の人たちが、本当のことを語らないとか、今までは見逃されてきた政治や政治家、官僚のウソが、ことさら取りざたされるようになってきた。かつては政治家自身が「政治家に徳目を求めるのは八百屋に行って魚をくれ、というようなもの」などと言って、大事になったこともあったものだが、時代は変わった。

大きな声では言わないが、人々は既に「ウソを言う人は平気で言うものだ」ということが、身にしみてわかってきて、半ば諦めている、というのが本当のところだろう。こうなると、書籍がフェイクであったなんて「あぁ、そういうこともあるんでしょうね」という「あきらめの境地」になってしまうものなのだろう。

しかし、この時代に紙の本の話である。古色蒼然の議論のような気もする。

「あそこの高いところにある、パンセが読みたいんですが」
「あ、あれは背表紙だけで、本物はこちらのデジタルネットワークで読んでください」

せっかくなので、これを機会に、こういったこともして良いのではないだろうか?と思ったりする。フェイクではなく、形だけ本の形をさせておいて、本の実態はデジタルデータとして、ちゃんと図書館はその役割を果たす、という、そういうものがいいんじゃないだろうか?本を置く場所も取らず、本にシミがつくこともなく、「知の殿堂」の役目を、図書館は果たすべきだろう。だから、書棚の本はフェイクでもいい。デジタルデータのアーカイブで、それがいつでも誰でも読める、ということが大切なことなのではないかと思う。

 


無料のOS+無料のOfficeの時代はやはりやってきたのかもしれない

Gigazineの記事によれば、Microsoft社は、Windows7/8.1のUpdateにおいて、最新のCPU搭載のPCでは、Windows7/8.1のUpdateを停止する、という施策を行ったが、それをユーザーが無効化するパッチを提供し始めた、という「いたちごっこ」の始まりを報告している。

なぜ、そこまでしてWindows10にしたいのか?ということは私にもよくわからない。なにか理由があるのだろうが、その真の理由は明らかにされていない。ただ「セキュリティにいいですよ」としか発表されていないから、いろいろ勘ぐられることはあるようではある。

一方、私の周辺では、無料のOSと無料のOfficeスィートが当たり前のように増え始めている。多くはUbuntu-Linuxだが、既に日本語変換はじめ、日本語化にもほとんど問題はないうえ、Microsoft-Officeで書いたファイルも、読んだり、書いたりが当たり前にできる。フォントなどが少々変わって、細かいレイアウトが崩れることがあるが、このあたりは慣れの問題でなんとかなる。既に地方自治体では標準で無料のOfficeを使っているところも出てきており、あとはOSを取り替えるだけで「お金のかからないITインフラ」が構築可能な時代になった。

実はこのBLOGの読み書きも、現在ではほとんどWindowsを使っていない。自宅ではUbuntu-Linuxを使っており、外出先のノートPCはChromebookを使っている。ちなみに、GoogleのChromebookは、秋葉原で中古のものを買ってきたもので、1万5千円だった。これなら、外に出たときに、壊したりしても、あまり惜しい、という感じもしない。しかも、通常のWindowsとできることは90%一緒だ。私はビデオ編集をすることがあるので、そのビデオの編集のときだけ、WindowsのPCの電源を入れる。Officeの作業などは全てUbuntuかChromebookだ。

ちなみに、自宅近くにある「広尾学園」は、医進・サイエンスコースにChromebookを導入して、PC教育の成果を上げている、と聞いている。もうPCは「WindowsかMacか」という時代ではなくなってきているのがわかる。ChromebookはGoogleのクラウドで動き、OfficeもGoogleのクラウドが動くので、安価なだけでなく、エンドユーザーがウィルスやマルウエアについて心配しなくてよい。また、中央での管理も簡単にできるので、会社などの組織で使うときは、Chromebookは非常に便利だ。PCの盗難などがあっても安心だ、ということもある。

最近のMicrosoftのOfficeは、デフォルトでMyDocumentsがMicrosoft社のクラウドを使うようになっているので、それを不安視する人も多い。もっとも、それはChromeでも同じだ。Ubuntu-Linuxであれば、そういうことはない、というので安心だが。

私はMicrosoft社が何を考えて「強制的にWindows10にしたい」と思っているのかは全くわからない。しかし、使う人にとって不都合が多すぎれば、そういうプロダクトは忘れられていくだけだろう、ということはわかる。

 


「60歳からの就活」の時代

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私はまだ60歳前ではあるのだが、もうすぐ60歳を迎える。かつては60歳というと、「仕事人生の終わりの年代」だったものだが、現在は男性でも平均年齢は80歳近く。60歳で年金を考える年齢、と言われたが、実際には日本政府の持つお金の量がやはり減っており、年金支出は渋くなるばかりで、65歳定年から、既に75歳定年説まで聞こえてきている。要するに「定年はない。一生働け」という時代が到来したのだ

しかし、日本の政府の制度の設計も、日本の社会の制度設計も、一人の人間が高齢になっても一生働く、という制度設計になっていない。しかも、世界的な不況は「報酬を伴う仕事の場」をどんどん減らしている。この日本という地域では、30年くらい前までは「高度経済成長」と言っていたものが、いまや貧困が問題となり、貧困の世代を超えた否応ない継承が当たり前となっている。当然、その対極にはごく一握りの人たちの資産の蓄積の増加があるにはあるが、一般大衆が貧困化してくると、この人たちの資産もなかなかお金にすることもできなくなり、結局は「資産」という名前に値しない価値とならざるをえない。

必然的に労働の価値も下がり、より多くの労働が生きていくために必要になる。ところが、その労働のフィールドとなる「仕事」がなくなってきており、この日本での重要な資産である「人的資産」は「豊かな時代に豊富な資金で培ってきた高齢者の技能」という時代に突入した。結果として、若者の教育の場も狭まり、若者の技能は上がらず、若者の貧困化がいっそう進むだけでなく、若者が職業人として将来自立するための技能の習得の機会も大幅に奪われたままだ。

結果として、この企業体制・国家政府体制の時代にあわせた過渡期では、企業は高齢者の技能を、未熟な若者の将来よりも重要な企業資産である、と考える必要が出てくる。その後の時代は若者の教育を将来のために重要視し重点投資する時代になる必要がある。が、企業の体制も、この時代に沿った、各年代のバランスのとれた仕事の分配ができないでいる。それは誰もが感じているが、不況により組織が自己防衛に走るため組織の硬直化が始まっており、新しい時代への変化が拒まれている。

長期の見通しを持って現在の「仕事が無い時代」をすべての世代が乗り切ることで、次の時代が開けてくるはずだが、そのパスを認識することが、日本人にはできていないのではないか。いや、それが認識できたとしても、それを実行する人もいなくなった。

最初に手を付けるべきは、日本という地域の重要な資産である、かつての豊富な資金をベースにして、今では考えられないような高額な投資によって培ってきた高齢者の技能の利用を考えることだ。この利用によって、雇用と若者の教育の場を生み出し、次の世代につなげていくパスを明確に意識する必要があるだろう。

具体的には高齢者が亡くなる前に、その大きな次世代への資産である「豊富な資金で培った技能」を、次の世代に引き継ぐための活動が必要になる。子どもたちや孫たちの世代に腐らずに残せるものというのは「知」しかないのだ。そして、高齢者の減らされる年金対策としても、この動きは必要になることは言うまでもない。


新品スマートフォンが1万円という時代

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一昨年からスマートフォンをauからMVNOのSIMフリーのスマートフォンにしているが、中古のものを使ったり、けっこう機種選びには苦労していた。そのため、現在手元にあるいつでも稼働できるSIMフリーのスマートフォンは現在4台。そのうち、2台をとっかえひっかえSIMを入れなおして使っている。

いま、メインで使っているスマートフォンはfreetelというところの「priori2 LTE」だ。名前の通り、LTEが使え、もちろん3Gも使える。価格は本体買い切りで2万円を切るくらい。以前の機種の「priori2」は、LTEはできなくて3Gのみだが、価格は1万円前後。セールのときは1万円を切るときもある。もちろん、どちらも新品の税込みの価格であって、どちらも秋葉原のヨドバシカメラで購入した。家電量販店価格のもの、ということになる。

ディスプレイの解像度はいまどきFullHDではない。しかし、電池が小さくてもなかなか持つので、電池込みの重さも軽い。大きな画面のものはぼくは好まないので、小さくて軽いほうがいい。PCを一緒に持って出ればテザリングもできる。カメラも背面のカメラで500万画素だが、ぼくはカメラを別に持って歩くので、スマホではこれで充分だ。ワンセグもおサイフも無いのはiPhoneと一緒だが、自分の場合は、もともとあっても使わない機能だから、これで充分。本体価格が安いので、落としたり壊したりしても、あまりがっかり感がない、というのもいいところだろう、とは個人的に思う。

聞くところによれば、いまやインドでは日本円換算で5千円くらいのAndroidスマホもあるという。また、米国でも欧州でも、1万円前後の安いスマホが当たり前になりつつあるとのこと。スマホは道具であって、ステータスでも贅沢品でもなんでもない、という時代に入ったのだ。

水は高いところか低いところに流れる。同じことが出来る道具であれば、高いものではなく、より安いものが売れる。当たり前のことといえば、当たり前だ。スマートフォンを使う側から言えば、これが当たり前の時代になったのだ。

 

ARMのWebサーバーの時代

名刺ケースに入れたBeagle Bone Black

名刺ケースに入れたBeagle Bone Black

「あなたのやることはいつも人より2年から3年速い。早すぎる」と、よく言われるのだが、これまで私がやってきた仕事はほとんどそういうものばかりだった。今回はちょっと興味があって、Intelではなく、ARMをCPUとした小さな裸のボードに2TBのHDDを接続し、Webサーバなどのネットワークサーバとして立ち上げた。

最近はこの手のIoT向けと思われるようなARMをCPUとしたボードが増えている。CPUにはスマートフォンで使われる安価で高性能なCoretex-A7(デュアルコア)かそれ以上のCPUが使われ、消費電力も数ワット、インターフェイスにはイーサネットはもちろん、USB、なにか外に違うハードウエアを接続するためのシリアルポートやデジタルだけでなくアナログのポートまで完備している。しかも値段はほとんど数千円、という安価なものだ。簡単に言えば、タッチパネルの液晶カラーディスプレイをスマートフォンから取り、そこにイーサネットのインターフェイスを付たようなものだ。高性能で数千円と安価、しかも「数ワット」という徹底的な低消費電力。もちろん、冷却ファンなども必要ない。OSは一般的にWebサーバなどで使われることが多いLinuxが動くため、使い勝手も問題ない。

これにUSBの外付けの大容量ハードディスクをつけると、ケースなどを用意しても、1万円ちょっと、だいたい2万円以内で立派なサーバが1台できあがる。これだと、低消費電力などでいま盛んに使われている「仮想化」などの技術はあまり必要なくなるかもしれない。

実際、IBMとかHP社でもサーバの将来を見越してARMサーバーマシンを製品ラインに加えているのが現状だ。

実際、「安価なARM-CPU + 大容量HDD」の組み合わせで、既に半年間試験運用してみたが、破綻は全くない。一度もリセットすることなく、継続運用ができている。これまでのWebサーバなどで使われていたLAMP環境(Linux/Apache/Mysql/PHP)も問題なく動く。応答スピード、ラッシュ時の速度も実用範囲と言えるだろう。なによりうれしいのは、消費電力の劇的な低減とサーバそのものの価格の劇的な低減だ。消費電力が少ないと発熱も少なく、ハードウエアの耐久性も上がる。

今後のWebサーバはネットワークに接続されたストレージと、ARMのCPU、といった組み合わせが主流になる可能性が高い。既にIntel自身が自社が買収した企業で保険のためにARMのCPUを作っている時代でもある。今後は、Web系のCMSのようなサーバーアプリケーションも、ARMのCPU上で動くものにしないと生きていくのは難しくなるだろう。

現状のCMSもいろいろ調べたが、WordPressなどのベストセラーのCMSは問題なく動くことを確認できた。また、CPUを搭載したボードも最近は最初からUbuntuなどのLinuxのOSを最初から搭載したものも増えてきており、いよいよARMの時代の幕開けを感じるようになってきた。どうしてもCPUパワーが必要なビデオ編集などの機能をサーバ側に持つ必要が無い、というのであれば、ARMのCPU搭載のサーバと大容量ストレージと、LAMPの組み合わせで2万円以内で立派なWebサーバーができる時代になった。

※ このところ、この種のARMのCPUボードが非常に売れているので、価格が数千円から1万円前後へとちょっと高騰しているのが現状だ。


あなたも「移民」になる時代がやってきた

Facebookとか見ていると、4月だからあわただしい、という記述が多いわけだが、韓国にいると、4月があわただしい、という雰囲気がほとんど無い。学校の新学期は3月1日からだし、むしろこの桜の時期は少しゆったりして桜を楽しむ、という感じだ。

これから日本は外国人の移民を受け入れていくだろうし、日本人も外国で暮らす人が多くなるだろう。異文化は当たり前になっていく。日本人だから、日本の文化を、というよりも、日本人というものがどういうものであるか、がわからなくなっていくだろう。それは時代の流れだし、変えようとしても変えられない。「日本人」である自分の姿をよく見るがいい。日本であなたが着ているのは「洋服」なんじゃないのか?食べているのは、日本食だけか?これから長い時間をかけて、異文化がこんなふうにぼくらの「当たり前」になっていくのだ。

あるときは突然に、あるときはゆっくりと、異文化どうしがこの地球上で融合していく。あるときはその融合がなくなるときもある。こういうダイナミックな動きが、物流などの長距離での交通機関の発達で劇的に安価になり、通信に至っては全く無料で行われることになる。これが、20年前までの世界と今の世界の大きな違いだ。

本気で今の日本文化を守りたい、というのであれば、インターネットも電話も一切を切って、山奥にこもる自給自足の生活をすることだ。そうすれば、そこだけ時間の止まった場所をなんとか作ることができるかもしれない。実際、そういうことをしている人たちが世界には存在する。

日本が住みにくくなり、それに耐えられないのであれば、他のところに行けばいい。他の地域に移動するコストは劇的に安くなっているし、他の地域の情報を別の場所で得るコストはさらに低くなっている。

グローバリズムとは、つまりそういうことだ。移民がいやだ、という言論は、自らもまた生きるために移民とならざるをえなくなったことを想定していない。日本にさらなる大地震が来たら、原発事故はさらにあちこちで起こり、日本は住めない土地となったら、移民しなければならない。その行った先の土地でひどい扱いをあなたは受けたいだろうか?

異文化の衝突もあるだろうし、異文化の融合もあるだろう。グローバリズムとはなにも多国籍企業のものだけではなく、いま、ぼくらの目の前にある現実である。その現実がいやなら、この世に生きることをあきらめたほうがいい。

4月はあわただしい、と言うのは、自分の周辺だけのこと。自分の周辺に、自分と感性を同じくする人だけが住んでいた「心安らかな社会」は、いつでもなくなる。「4月はあわただしい」。この一言を言うのも、自分の周辺の人だけの話だ。世界にはまた違った文化や習慣があり、そういう人があなたの隣に越してくる。あなたもまた、自ら慣れ親しんだ土地を離れ、外国に行くかもしれない。そのときのことを考えて、人に話す何気ない言葉も今から気をつけよう。